晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

飯盛山(8) 桟敷ヶ岳考 4/22

2013-04-24 | 飯盛山

2013.4.22(月)晴れ
 「磐座(イワクラ)」の岩田女史の論文の中に桟敷ヶ岳(さじきがだけ・896m)が登場する。その西に飯森山(798m)があり、有視界での測量方法や陰陽道による方位の問題などについて論じられている部分なのだが、今のわたしには未だ理解できていない。ここのところは重要なところなので何度でも読んで理解したいと思っているが、ここでは桟敷ヶ岳の山名について、以前に書いたことがあるので改めて他の研究者の意見も踏まえてご紹介したい。P1040376


 澤潔氏は「北山を歩く」の中で、サシ、サスは焼畑のことでキはところを表すものとして、桟敷は焼畑地と解いている。
 また、「地名を歩く」(南島地名研究センター)では南城市の佐敷(さしち)について地滑り地名と解いている。(2013.2.22桟敷ヶ岳参照)
 桟敷ヶ岳周辺に地滑り地形を見つけて、さもありなんと思っているのだが、気になるのは桟敷ヶ岳に残る惟喬親王(これたかしんのう)にまつわる伝説である。
 惟喬親王は弟の惟仁(これひと)との皇位継承争いに敗れた悲劇の親王とされているが、それは彼らの幼少の頃であって周囲の権力争いの結果である。小野氏との関係や木地師の租といわれていることなど謎も多いのだが、北山一帯に口碑伝承が数多く残されており、小野三十二村(左京区田中から芹生辺りまでの広大な地域)と何らかの関わりがあるものと思われる。
 それはともかく、桟敷ヶ岳に残る惟喬親王伝説は、「惟喬親王が北山に隠棲していた際に桟敷ヶ岳山頂付近に桟敷を作って都を眺めてなつかしんだ。」というもので、伝承上の桟敷ヶ岳の山名由来となっている。
 当初この伝説は桟敷ヶ岳の桟敷にかけた単なるこじつけと考えていたが、岩田女史の飯山ネットに関する論文を読んだときに、「桟敷を作って都を眺めた」という部分が実は過去の事実に由来するのではないかと勘ぐっている。
 山頂の南に「都ながめの岩」という岩があり、そこが桟敷のあったところともされている。過去に登った際にはそういうことに何の興味も無かったので、この岩の存在さえ気づかなかったのだが、何らかの測量の目印になっているのかもしれないと想像している。

【晴徨雨読】208日目(2007.4.22)松江滞在
松江市内見学、松江城は何度訪れてもいい。天守は元々の建物ということでおそらく日本で唯一だろう。徹底的にお城見学をして印象に残ったのは石垣の刻印である。Img_4585
 



 松江市内も一部ではあるが彷徨し、落ち着いた街を堪能する。例によって一番うれしい発見は、向日町で行きつけだった「ラウンジ京」とサヌカイトの大石、「大庭の音のする石」である。
Img_4629



サヌカイトの大石、カンカンと金属音がする。

【作業日誌 4/22】
夏野菜用畑の準備、ヤーコン植え付け


【今日のじょん】比呂子ちゃんちのコロ助が挨拶に来た。生後二ヶ月だって、、。イヤ~カワイイ。じょんもこんな頃に見に行ったのだよ。
P1040361P1040363
   
  
 
 
 




じょんがおっさんに見えるのでアリマス。 

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