晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(83) 丸山とイモリ村 4/11

2013-04-12 | インポート

2013.4.11(木)曇り、雨 大唐内のこと(82)は2012.8.24

 「丸山とイモリ村」の稿が進んでいないのは丸山(イモリヶ嶽)についての検証が進んでいないからだ。この545mの特異な山は丸山、生守山、イモリヶ嶽、猪森ガ岳、三俵山、サントラ山などと文献によって様々に言われているがいずれが正しく、いずれが間違いというものでは無い。しかし筆を進めるに当たって様々な呼び方では不都合もあろうかと思うので、丹波負笈録にある「イモリガ嶽」に統一しておこう。
 府道一号線からこの山の山容を見たとき、この山には何かあるぞと思わずにいられなかったのだが、そこには宗教的な遺跡も伝説も残っていなかった。ただサンドラ岩といわれる巨大な枕状溶岩の帯が8合目あたりに鉢巻きのように巻いている。丹波側は風化が進んでいるが、そこには鬼の岩屋と呼ばれる洞窟がかつて存在した。P1010547

 


イモリガ嶽の丹波側はサンドラ岩の風化が進んでいるが、鬼の岩屋という洞窟はこの付近に実在した。

イモリガ嶽という山名についても、イモリ村についても一向に見通しが立たないのだ。付近の胡麻峠、猪鼻峠などについても地名の意味について検討する。別所探訪や日吉地名散歩、盃状穴の研究も実はイモリガ嶽、イモリ村へのアプローチとして研究、記述しているのである。
 にもかかわらず杳としてイモリガ嶽の姿は現れない。盃状穴や別所地名を調査していて、加古川の飯盛山に登ってみたいと地図を広げると、加西市、福崎町、多可町にもイイモリ山があり、古代祭祀の山であったり、金属関連の山なのである。
 若狭の小浜や京都北山に飯盛山があるのは知っていたし、全国にもあちこち飯盛山があるのは感じていた。何かあるとは感じていたがそれが何かはわからなかった。
P1030905

 

小浜の市はサンドラ岩を見ると繁盛するという(丹波負笈録)これは小浜の飯盛山のことでは無いかと思うが、フィシャーマンズワーフでは飯盛山は見えないと言われた。(2013.2.15)

 そんなときイイモリ山を研究されている方が突然現れた。つづく

【晴徨雨読】197日目(2007.4.11)山口滞在
 自転車の整備とタイヤ交換をする。オンロード用が無くてオフロード用のタイヤをはく。これでまた一段と重くなった。愛車初恋号6世は今回の旅行のために作ったフルオーダーのBIKEなんだが、そのコンセプトは堅牢である。従って軽量化は何も考えていない、ただし軽くても丈夫なパーツは使用している。おそらくロードレーサーの4,5倍の重量はあるだろう。その上オフロードの太いタイヤをはくのだから堪らない。
 中也記念館に行く。おしゃれすぎてつまらない。高田公園の帰郷の詩の碑は30数年前訪れたときからある。こちらが好きだ。Img_4154



「心置なく泣かれよと 年増婦の低い声もする」という部分が省かれている。センスの無い碑である。

【今日のじょん】ここ数日寒い日が続いている。先日綾部温泉に行ったときにコゴミが売られていた。こんなに寒いのに出てるのかなあと朝の散歩時に河原を覗く。あるある、しかも育ちすぎている、早くとって食べようぜ。P1040279
   


 

じょんの首のあたりの下方、河原に生えているコゴミ。

 

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雨読 続々・山の女 4/10

2013-04-11 | 雨読

2013.4.10(水)曇り、雨

 紹介した他にも多くの方言や物の名前が出てくる。沖縄のような離島や隔絶された山間部に残された言葉は元来の日本の言葉がそのまま残っているのだと思う。そういう意味で秋山郷の言葉は興味深いが、風俗、習慣といったものも同様に現在では消えてしまったものを残しているのでは無いかと思う。
 気になることがいくつかあるので紹介しよう。
 「次兄富作の死と死者の埋葬」という項で秋山での葬制のことが詳しく書かれている。葬制はその地の民俗を端的に表していると言われる。
書かれている葬制はそう変わったものではなく、もちろん当時は土葬である。ところが土市(現十日町市)の病院で死亡したので、遺体を運ぶことができずその地で火葬することになる。その火葬はいわゆる荼毘なんだが、薪をたくさん積んでその上に棺を置きさらに藁をいっぱい積み、火の粉が飛ばないようにムシロをかけるという方法なのである。これはいわゆる藁葬(こうそう)というものの名残のようである。葬制について多くの書物を読んだが、藁葬については知らなかった。
 それを知ったのは福井の農民詩人山田清吉氏の詩集「「べと」から「だんだんたんぼ」より」の中の藁葬という詩を読んだときである。詩といえども藁葬の方法が詳しく書かれている。薪を使うことなく藁ばかりで燃やしていることも驚きだ。この葬法が福井あるいは十日町付近にあったようだ。
P1040281P1040282_2

 


詩集の絵は渡辺淳(すなお)さんが描かれている。

 もう一つは加持祈祷のことである。
 ニライ堂(如来堂)のニライ様とイモジイがそれに当たると言うことだ。イモジイというのは鋳物師のことで、厳密には鋳掛けを生業にしているじいさまのことであるが、そのジーチャンが発明の人(器用な人)で神主の代理ができたということである。これは単に偶然のことだとは思うのだが、なぜ気になるかと言えば以前に製鉄に携わる人が祈祷師を兼ねているという文を何かで読んだからである。それはヒッタイトだかタタールだか西洋のどこかの国のことだったかと思うのだが、日本でもこういう風習があったのかもと思わせる文でもある。おわり

 【晴徨雨読】196日目(2007.4.10)下関~山口
下関は歴史的な要素が多く、もっともらしい遺跡や名所も多いがあまりおもしろくない。おもしろいのは床屋発祥の地である。由来の石碑があり床の間のある店だったので屋号が床屋で全国に広まったとある。個人名も出ておりもっともらしい話だが、語源辞典では、江戸時代の髪結いが床店(移動のできる出店)で仕事をしていたからという風に書かれている。下関の床屋は鎌倉時代だと言うが、果たして?
Img_4101
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床屋発祥の地(下関市)

【今日のじょん】じょんが初物に弱いのは恒例で、特に食べ物は食わず嫌いなところがある。中尾さんにいただいたワンドルチェなどというバーモントなおやつもすぐには食べない。何とも神妙な顔をしてくちゃくちゃしていたが、結構気に入ってパクパク食べ始めた。
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オイピ~

【作業日誌 4/10】
芝生広場の草刈り、草抜きでは間に合わなく立ってきた。
庭中の西洋タンポポ、イヌノフグリ退治
P1040269



げに恐ろしき西洋タンポポ。

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雨読 続・山の女 4/9 

2013-04-10 | 雨読

2013.4.9(火)晴れ、曇り

 山の女の生き様は本書を読んでいただければ解ることだが、秋山郷特有の方言や習慣などを読み取りたいと考えた。
 いくつかを紹介してみよう。
メンツ(木の曲輪の弁当箱)
 よく輪っぱ飯とか言って駅弁になっている例の容器である。学生時代山岳部ではいろいろの隠語のようなものがあったが、その中の一つがこのメンツである。ご飯を盛るアルミの容器をそう呼んでいた。山用品の店でもスーパーでもボールと書いてあるので不思議だなあと思っていた。おそらくマタギ言葉では無いかと思う。方言辞典にも語源辞典にも載っていない。P1040277



これをメンツという、今ではプラスチック。


リュー(洞窟)
 夜中にリューの前を通るのが怖いという話が出てくるのだが、リューが洞窟というのは聞いたことが無い。方言辞典等にも出てこない。鍾乳洞には龍河洞とか龍泉洞とか龍のつく名が多くある。リューが洞窟を表すからそういう名がつくのかなと思ったが、何を調べてもそのようなことは書いていない。
Img_1210







龍泉洞(岩手県岩泉町)の内部


 鈴木牧之の「秋山紀行」の苗場山紀行の中に竜厳窟に関する文章がある。
 


 竜厳窟ハ御華畠ヨリ別途ヲ下リ往ト云トモ未ダ其道開ケズ。

 この後文は続き、竜厳窟に関する言い伝えなどが述べられる。
つまり山田ハルエさんが言ったリューとはこの竜厳窟のことを言っているのでは無いだろうか。そうするとリューは普通名詞ではなくて固有名詞となる。リューが洞窟一般を指すのではなく、竜厳窟のことを言っているのだと思うのだが、どうだろう。

ツネ(峰、尾根)
 これは見当がつかない。マタギ言葉にでもあるのだろうか。

ツブラ(わらで作った乳児の籠)
 本書の中でも詳しく説明がしてある。イズメ、ユグリ、ツグラ、スッコ、エンツコなどもっともっと多くの呼ばれ方をしている。同じ物がかくも様々な方言で呼ばれるのも珍しい。これは自転車旅行で各地の資料館などを巡って感じたことである。
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山形県新庄市ではえんつこという。元々はご飯の保温用。


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秋田県由利本荘市ではえじめ、えじみ、えっこなどと呼んだ。つづく


【晴徨雨読】195日目(2007.4.9)小倉~下関
小倉は松本清張の出身地である。作家の記念館などおもしろくもないのだが、この記念館はよかった。この日のブログに「黒地の絵」を読みたいと書いているが、未だに読んでいない。その代わり後日亀嵩を訪れている。もっともそこが「砂の器」の舞台であることを知らずにである。
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関門人道にも松本清張が、、、。


【今日のじょん】今日はおとーもおかーも四條畷の病院に行ったので一日お留守番。よいこちゃんでお留守番していたので、夜はスキヤキのお肉をチコットもらったみたい。中尾さんがお土産くれたので明日が楽しみだワン。

P1040259

 
ジョンの入ってるのもツグラの一種である。 

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雨読 山の女 4/8

2013-04-08 | 雨読

2013.4.8(月)

 再度自転車旅行に行けたらいってみたいところはいくつかあるが、ベスト5に入るのが秋山郷である。国道117号線を北上し、大雪で有名な津南町を通りながら、秋山郷には行くことが無かった。秋山郷について知ることも無かったし、知っていたとしてもあの高い山々に向かっていく気はしなかった。Img_0353


 

この次の交差点を右に行けば秋山郷に行けたわけだ。(2006.8.25)

秋山郷について知ったのは30年以上にも前に買った「北越雪譜」を引っ張り出して読んでからだ。北越雪譜の中の秋山郷は何とも強烈だった。江戸時代の牧之でさえ驚く原始的な生活が書かれている。もちろん現在はどこの山村とも変わらない生活なのだろうが、そこにいたるまでは随分格差があったのだろうと思う。
 生活水準とか文化というものは今では各地が同時進行なのだが、過去にはそうはいかなかったのだろう。わたしの住む綾部市でも戦後になって電気の通じたところがあるときく。
 しかしひとはなぜそういった辺鄙な村、寒村に心惹かれるのだろう。それは決してノスタルジアとかセンチメンタリズムというようなものではなさそうだ。憧れながらも行くことのできない今、「新北越雪譜」や「秋山物語」などの本を買って読んでいる。そんなとき同じく秋山郷に思いを寄せる中尾さんが3冊の本を持ってきてくれた。その中の一つが「山の女」である。

 「山の女 焼畑の谷に生きた女の一生」(山田ハルエ著)白日社1992年発行

 P1040260




3冊貸していただいたので結構プレッシャー

 「山と猟師と焼畑の谷」という本は山田亀太郎という秋山郷の猟師の生涯と生き様を綴ったものだが、亀太郎氏の奥さんハルエさんのことを書いたのが本書である。
 ハルエさんは大正七年の生まれとあるから、わたしの母親と近い年代である。どうしても母の過ごした寒村との比較をしてしまうのだが、そこには決定的な違いがある。
Img_0198



わたしのふるさとも結構な山村である。(川合)


 それは米作ができるか否か、冬は雪に閉ざされるか否か、街からの距離、通信網や交通機関の有無などによる生活水準の違いであろう。わたしは戦後の生まれだが麦飯を食べたことはあったが粟、稗を食べたことは無い。常に稲作をしていて、焼畑なんてのは昔のことだと思っていた。バスも通えば診療所もあった。寒村といえども秋山郷よりはずっと進んだ生活をしていたと思う。それでも貧乏であったという感は持っている。みんなが貧乏であったのだ。
 牧之がのぞいた秋山郷とハルエさんが生きてきた秋山郷とは随分違っているのだが、農作業や食べ物、灯りや暖房など基本的なところはそう変わっていないのかもしれない。つづく

【晴徨雨読】194日目(2007.4.8)神湊~小倉
 この日はサイクリングを楽しむ。前半は最高の走行で後半は町中のイライラ走行である。今から思えば遠賀川河口の芦屋、八幡の穴生あたりを通ればよかったと思っている。芦屋はかつての芦屋釜で有名なところで穴生、別所あたりは古代産鉄のにおいのするところである。もっとも当時は何の興味も無かったことであるが、、、。Img_4049



芦屋はこの右手の山のあたりか?(遠賀川)


【今日のじょん】昨日は一日中うっとうしい天気で、朝散では雨宿りしていたのに、今日は打って変わってスカ天で、じょんの走りも素晴らしい。素晴らしければ素晴らしいほどワンワン運動会を思い出す。
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昨日雨宿り、今日スカ天

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上林の盃状穴(16) 八幡宮-3 4/7

2013-04-07 | 歴史・民俗

2013.4.7(日)雨

 最後に府道側の両部鳥居周辺を観察する。一見何もなさそうなのだが、石段上部右の袖にそれらしい穴が見受けられるが、随分泥に埋まっている。
泥を掘り出して掃除すると、先ほどの石垣の再利用石と同様の盃状穴が現れた。直径は約9cm、右に小さめのものが1個ある。
 以上が八幡宮の盃状穴の状況だが、はっきりこれだと言えるのは境内社下の石段上部にあるもののようだ。その周囲にある不完全なもの、再利用の石材にある大きな穴が盃状穴と言えるか、それとも何か別の用途のための穴か解らない。
 こうなるといったいどう分類しておけばよいのか迷うところである。
 擬盃状穴とか盃状穴とか勝手に決めこんで分類してきたが、そのことにどれだけの意味があるのか困惑してしまう。
 自然のものでなく、人の手によって盃状に穿たれていれば盃状穴として判断しておいてよいのでは無いだろうか。擬という表現をやめて、完全、やや不完全、不完全をABCで表しておこう。もちろん備考も付記しておくことにする。
 そういうことに決め、八幡宮の盃状穴について以下の通り分類する。

(1)府道側鳥居下石段上段右手
 大1(径10cm)A
 小1(径3cm)C
P1040243
P1040244




(2)舞殿の前左灯籠の横の石
 中1(径5cm)B
 小1(径3cm)C
 その他擬盃状穴数個
 備考:全体に人工のものか自然のものか判断がつかない。内面ざらつきあり。
P1040233




(3)境内社下部石段最上段左の石材
 大2(径7cm)A
 小9(径2~3cm)C
P1040235




(4)境内社下部石段最上段中の石材
 小6(径2~3cm)C
P1040236
P1040237




(5)境内社石垣鳥居右石材左
大1(径9cm)A 備考:何かの用途か?
P1040238





(6)境内社石垣鳥居右石材右
大1(径9cm)B 備考:左のものより浅く不鮮明
備考:上記石垣の下に放置された石材があり、スプーンカット状の穴あり、用途不明。

考察:二義的盃状穴として祈願などの目的で穿たれたと想像できるのは、(3)の2個である。その周囲にあるものは不完全で盃状穴をまねた子供の遊びかもしれない。(1)(5)(6)は別のところから移された石材のようだ。どこで何に使われていたか不明だが、何かの目的があって穿たれたものかもしれない。おわり

【晴徨雨読】193日目福岡~神湊
 昨日から古代のロマン多き地域を巡っている。今日なんざ金印で有名な志賀島だ。金印の出てきた金印公園なども巡り、古代ファンには堪らないところだろう。ところがマイナー志向ならずマイナー嗜好のわたしにはどうもおもしろくない。教科書に載っているようなことより、えっと驚くようなこと、クスッと笑うようなことに出会いたいのだ。玄海は男気で有名である。どこに行っても一人客は泊めないってんでやたら高いリゾートホテルに泊まらされた。男気より商売っ気だった。Img_4043



玄海の海はよろしかったですナ。


【今日のじょん】ワンワン運動会の動画を見て、店のお客さんたちが喜んでくれること。あれでかっこよく優秀な成績で終わっていたらおもしろくも何ともないから、ずっこけでよかったような気がする。P1040189



カワイコちゃんばっかしおいかけてるのだ。
   


 
 
 
 



 

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上林の盃状穴(15) 八幡宮-2 

2013-04-06 | 歴史・民俗

2013.4.6(土)雨、春の嵐

 神社横の石垣を見るがそれらしいものは無い。いよいよ本殿周辺だ。
  まず左にある境内社の周辺から始める。境内社に上がる石段は二段になっており、下段の石段は自然石で組まれており、盃状穴はありそうに無い。自然石は山の石でいかにも硬そうで穿孔は難しそうだ。ところが最上段の一列は例の凝灰岩系の石が使われている。
P1040227
境内社の石段


 その左の石盤に目をやると土に埋もれているが、穴らしきものが見える。持参の柄付きたわしで土を剥がすと、やや深い穴があり土が固まっている。たわしでは間に合わないので、柄の方で掘り起こす。たわしで清掃すると、径6cmの立派な盃状穴だ。その右手にも同様のものがあり心が躍る。周囲にも小さめの穴が9個穿たれており、どうも作りかけの盃状穴のような気がする。この小さいものだけが存在するなら、擬盃状穴とすべきなんだろうが、先ほどの大2個が完璧のものなので、盃状穴としていいのではないだろうか。
 そしてその右の石にも小さくて不完全なものが6個見つかる。これも盃状穴としておこう。

P1040235P1040236



境内社の石段、最上段の左から立派な盃状穴発見。

 気をよくして境内社の周りを観察するが、どこにも見当たらない。境内社に上がる上部の石段は3段あまりなのだがそこには無く、その右の石垣をみるとここにも古い石材が2個ばかり使われている。その石材の表面にこれまた大きな穴が穿たれている。直径が10cm近くあり、なんとも立派な穴である。その右手の石にも滑らかな穴状のものが見えているが、他の石が覆っており確認できない。その石垣の下に同様の石材が転がっており、穴というより大きなスプーンカットのような窪みがある。

P1040238P1040239



石段に組み込まれている2個と下部に放置されている1個。

 これらをどう取り扱っていいのかわからない。
 この大きな穴はどこかで見たような気がする。村上さん宅の玄関の盃状穴に大きさといい石材の形といい似通っている。(上林の盃状穴(4)2013,1,26参照)
  昨年夏、京丹波町の猪鼻、熊野神社を訪れた際に、再利用されて植え込みの境に利用されている石材にも奇妙な穴が開いていた。これらはいったい何のために穿たれたのだろう。

P1030729P1020334



村上家玄関先(2013、1,22)猪鼻熊野神社(2012,7、31)の石材

 意識して調査していけばきっと判明すると思うのだが、今のところは真円で盃状に掘られたもののみ盃状穴としておこう。つづく

【晴徨雨読】192日目(2007.4.6)佐賀~福岡

吉野ヶ里歴史公園は広大な公園である。古代を探求するものにとっては必須科目のようなものだ。その後の背振越え、那珂川沿いの地域は古代の歴史そのものである。何を見たかということでなく、そこを自転車で通過するだけでいいのだ。様々な本を読んだときに、その景色がほうふつとするだけで十分値打ちがある。Img_3992




広大な吉野ヶ里遺跡

【今日のじょん】ドッグランど予定地でじょんの様子がおかしい。妙に嗅いでいる。そのあたりを見てみると、鹿が糞をしている。食害は無いようだが、癖になると徐々に荒らされるので困ったものだ。観察すると山から谷越えで獣道がついている。いずれドッグランどの柵が張られるところだが、すぐに対処しなければ、、、。P1040251
   

 

 
鹿の糞は始末悪し。

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上林の盃状穴(15) 八幡宮-1  4/5

2013-04-05 | 歴史・民俗

2013.4.5(金)快晴

 八津合町西屋の郷社八幡宮は建武2年(1335)草創の古社である。祭神は応神天皇、伊邪那岐命、伊邪那美命、大山祇命で境内社も多くある大社である。
 桜の時期でもあり、府道からも満開の様子がうかがえる。

P1040248

 



 河牟奈備、葛禮本、坂尾呂の各社ではっきりした盃状穴を見つけることができなくて、やや消沈気味で境内に入る。手水鉢やその奥にある記念碑など見てゆくがそれらしいものは見当たらない。P1040229

 

手水鉢は舞殿のところにもあるが、いずれも盃状穴は無い。


 石段は道路側両部鳥居の下、舞殿のところの両部鳥居下、本殿前鳥居下と本殿左の境内社の前に二つの石段がある。ところがほとんどの石段が新しそうなものであったり、自然石のものであったりであまり期待できない。
 従って鳥居や灯籠の礎石を中心に探していく。
 すると二段目の鳥居の左の灯籠の台石に妙な穴を見つける。この灯籠には宝暦十三年(1764年)の銘がある。
 いわゆる横穴となっているのだが、このたぐいの穴はどこかで見たような気がする。どうもこれは自然のもののようだ。ところがこの灯籠のそばに何の役にも立っていない石が埋まっている。凝灰岩系の柔らかい石だ。土が乗っているが、どうも穴がありそうだ。持参のブラシで苔を落とし土を剥ぐ。でこぼこと大小4個の穴が出てきた。1個は直径が5cmで盃状穴らしき穴であるが、他のものは自然のものか、不完全な盃状穴のようである。一応擬盃状穴1個(5cm)としておこう。

P1040232P1040233


 

二つ目の両部鳥居左の灯籠の台石とその横にある石盤の穴

壱鞍神社神社の場合もそうであったが、盃状穴はこの緑っぽい凝灰岩系の石に穿たれているケースが多い。今回発見の擬盃状穴も同様の石で、何かに使われていたものがその場所に残っているか、捨てられたものだろう。
 周囲の石垣などを見ても古い岩石が使われている。おそらく石段などを新調した場合に古いものを流用したのだろう。つづく
P1040228



石垣に古い石材が再利用されている。

 【晴徨雨読】191日目(2007.4.5)武雄~佐賀
今日は自転車ならではの発見があった。江北町のカンカン石である。たたけばカンカンと音のするサヌカイトの石なんだが、知らない間はいったい何だろうと思う。このサヌカイト、この後讃岐はもとより各地でお目にかかり、随分と名所になっている。カンカンと乾いた金属音がするのだが、このカンカン石が一番いい音がした。観光名所でも旧跡でもないのだけど、自転車旅でしか見つけられない楽しい発見物であった。Img_3917
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カンカン石公園


【作業日誌 4/5】
ウッドデッキ柱立て二本

【今日のじょん】我が家に侵入する鹿は山の鹿と川の鹿がいる。府道で事故に遭う鹿は川の鹿だと思うのだが、その侵入経路がわからない。昨年までは堤防から小林さんの空き地を通り、府道に出ていたのだが、今年はそのルートの形跡がない
のだ。
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堤防の道には確実に来ているのだが、昨年あった土手の斜めに上がる獣道がない。

   
 
 

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鉄滓(8) 鳥垣-2 4/4

2013-04-04 | 歴史・民俗

2013.4.4(木)快晴

 
 以前に発見した地帯でも坂尾呂神社周辺でも鉄滓などは見つからなかった。やむなく鳥垣の里に下りて畑や道端、家の庭石などを見て歩く。まあ何とも怪しげなスタイルだ。山や河原などでの調査は誰も見ていないところなので平気なんだが、人里でうろうろするのは何とも気が引ける。
 細かく見ることはできなかったが、いずれにしても何も発見できなかった。近くに来たので桜井さんのお宅による、残念ながらお留守であった。
 帰ろうとしてふと庭石に目をやると、その上に茶色っぽい気泡のある石が二個置いてある。明らかに変わった石だからとおいてあるのだろう。
   実は鉄滓というものの実物を見たのは2007年に島根や広島の資料館で見たぐらいで、しかもそのときはあまり興味も無かったのでしっかり見ていないのだが、どうも今回のものが一番よく似ている。

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庭に飾ってあった2個と別の草むらの1個、同一の種類である


 もし、どこかで拾ってきたものと判明するなら、それが何かはわかることである。形状からして溶岩か鉄滓だと思う。
 もし家の敷地か近所の畑だとすると鉄滓の可能性は大となる。こうなると気になって、他人の庭ながらうろうろと探し回る。するとどうだ別の場所の草むらの中に同様のものが落ちているではないか。こうなると現地で発見された可能性が大となるが、これ以上想像するのはやめておこう。本人に聞くのが先決である。
 「それ、どっかの山に登ったとき記念に持ち帰った石や」なんてことになりかねないからだ。
 小さいかけらだけ持ち帰る。かすかに磁性があるがなんとも判断のできないものである。つづく

【晴徨雨読】190日目(2007.4.4)武雄滞在
 黒髪山と御船山という岩峰を登る。黒髪山は修験道の山で麓に公園などもあり、観光バスで多くの人が訪れていた。ただ、山に登る人はなくわたし一人で、堪能した。御船山は武雄市内にあるもの凄い岩峰で、一面はすばらしいフェースになっており、ロッククライミングの対象になっているそうだ。地元の人に聞いても登山道はなさそうだったので藪を漕いでピークに立ったが、頂上には祠がありこれも修験道の山らしい。二つの山と大楠の木、武雄温泉と満足の一日であった。Img_3854
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黒髪山と御船山の岩峰


【作業日誌 4/4】
 ウッドデッキ柱立て作業

【今日のじょん】:鹿の侵入ルートは?
 先般事故死した鹿はどこから来たものかじょんと一緒に推理してみよう。鹿は道路の真ん中に倒れていたようだが、当たる前はどこにいたのだろう。水島さんのお宅の庭に毛がたくさん残っていたのでおそらく庭の木をあさっていたのだろう。目立った食害は無いようだ。
 クラクションが鳴ってから衝突音まで少し時間があったのは、道の右側にいた鹿がクラクションの音やライトに気づいて道に飛び出してきたのか、もうすでに道を渡ろうとしていて、車が止まれなかったかのどちらかだろう。
P1040169



生け垣の右あたりにいたのが飛び出したか、そのあたりの道路を渡っていたかだろう。6,7m先の中央に血痕がある。ブレーキ痕は見当たらない。





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鉄滓(7) 鳥垣-1 4/3 

2013-04-03 | 歴史・民俗

2013.4.3(水)曇り 鉄滓(6)は2013.3.20参照

 清水鋳物師と無関係な鉄滓を発見したいと思っていた矢先に鳥垣で見つかった鉄滓は新たな勇気と希望を与えるものである。
 ところがそれ一個が出てきたからといって手放しで喜ばれるものではない。鉄滓とは名のとおり滓であるからわざわざどこかから持ってくるものではない。そのくせ大量に発生するからその始末に困るものである。いってみれば炭鉱のボタ山のようなものだ。貰って何かに使用するというものでないから、やむなくその場所で山と積まれるものだろう。もちろん滓の管理などしないから、大雨や洪水で流れ出ることもあるだろう。
P1040018
P1040145
 



3月3日発見の鉄滓らしきものと発見場所。


 つまり一個見つかったぐらいではその場所が製鉄や精錬の場所とは限らないことである。むしろどこかから流れ着いたと考えるべきだろう。
 もう一つ考えられることは、先代、先々代が珍しい石を庭石として拾ってくることだ。この場合庭にある石の一つ一つを後世に言い伝えることはないだろうから、現在の持ち主にとってはいったい何でそのようなものがあるのかわからないことになる。
 従ってその鉄滓がその地、あるいはその付近から発生したものだとするにはある程度複数個の発見が絶対条件となる。もちろん大量に発見できれば間違いの無いことである。
 そういう意味で鳥垣の鉄滓発見地周辺をくまなく探し回るが、残念ながらそれらしいものは見つけられなかった。地中まで調査するわけにいかないので、一応流れ着いたもの、拾われたものと判断しなければならない。
 気を取り直して坂尾呂神社の周辺を盃状穴と併せて調査する。神社において鉄滓の発見される例は多い。
 綾部市では赤国神社の例が市史に掲載されている。また最近では豊田市の足助神社の境内で発見したというブログの記事も見つけた。
 神社で鉄滓が発見されるということは、そこで鉄の製錬、精錬がなされていたか、あるいは奉納されていたかという可能性があると思われる。
 もし製錬、精錬が行われていたとしたら、地理や気候の環境の条件が必要となってくる。多くの燃料を得られること、風や乾燥、水も必要であろう。もちろん年代がさかのぼるほどに原料の得られやすさというのも条件になるだろう。

P1040152



坂尾呂神社境内では鉄滓は見つからなかった。


 もし、鳥垣周辺で製錬、精錬が行われていたと考えるなら、坂尾呂神社で操業するよりはその下で風の強いところを選ぶのではないだろうか。坂尾呂神社は風は強いだろうが、水という意味では少し遠いように思える。つづく

【晴徨雨読】189日目(2007.4.3)平戸口~武雄
松浦、伊万里と古代のロマンをかき立てる地域を走ったが、かといって見るものがあるわけでなく通り過ぎてしまった。伊万里や有田の陶磁器にも興味を持った時期もあったが、このときは特段立ち寄ることもなかった。むしろ武雄近くの岩峰、黒髪山の方が魅力だった。桜はこのあたりが満開で、最もきれいな時期であった。Img_3829





【今日のじょん】緑のバンダナがよれよれになってきたので、かみさんが百均でネク
タイ買ってきた。なかなかよく似合っているが、本犬は迷惑そうだ。
P1040206



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上林の盃状穴(14) 坂尾呂神社-3   4/2

2013-04-02 | 歴史・民俗

2013.4.2(火)曇り、雨

 
考察
 坂尾呂神社の盃状穴は盃状穴であるか否か判断しかねるものが4個という結果になった。P1040149

 


参道入り口、中段の上から12列目の真ん中の石に穿たれた盃状穴らしき穴、4個、見つかったのはこれだけである。

 盃状穴であるかもしれない理由としては、真円状に穿たれていることと内面が滑らかで人工の気配があるということの他に、石段に一列に並んでいること、雨だれの可能性は無いことである。
 自然の穴であれば形状が真円状にはならないし、位置もバラバラに開いている。ただ、雨だれの場合はきれいな真円状になり、内面も滑らかになる。ただしその場合は固定した水滴の源が永年にわたって存在する必要がある。今回の場合石段の上には建物などはなく、雨だれの可能性は考えられない。
 雨だれであれば一列になっていることが考えられるが、雨だれでなければ人為的なものと考えられる。
 

 盃状穴でない理由としては、数が少ないことと穴が浅いことである。盃状穴の調査についてまだ経験が浅いので一概には言えないのだが、盃状穴を穿つ民族的な習慣がその地にあったとしたら、あちこちにある程度の盃状穴が存在してもいいのではないかと思うのである。
 そして穴が浅いことは、一般によく言われる子供のいたずらかなとも思えるのである。草搗き遊びがあったという証言は聞いている。子供の仕業としては盃状穴を穿つのはかなり無理があると思うのだが、穴の浅いものならあり得るかなとも思うのである。
 結論として盃状穴であるか否か判断しかねる、擬盃状穴が4個存在するという結論である。
 というわけで坂尾呂神社の盃状穴に関してはなんとも中途半端な結論で終わったが、実はこのあとこの周辺で鉄滓らしきものを発見するのである。このことについては改めて別項で報告したい。終わり

【作業日誌 4/2】ウッドデッキ柱作りP1040203



昨日拾ってきた薪とドア用の柱

【晴徨雨読】188日目(2007.4.2)平戸口滞在
 平戸は16世紀から17世紀の100年間、日本から唯一世界に開かれた貿易港である。桜が満開の今頃は春休みの学生さんなどで賑わっているのかもしれない。オランダ商館跡や眼鏡橋などエキゾチックな遺跡とおしゃれに仕上げた街の雰囲気が人気なのだろう。だけど何か寂しさが漂っていることに気づくのはわたしだけだろうか。その原因はポルトガルからイスパニア、オランダ、イギリスとめまぐるしく主役が変わった上に長崎にその座を奪われ、一夜にして元の寒村にもどり、残されたのは多くのキリシタンで彼らの苦難の歴史もそこから始まったのではないだろうか。一見華やかな観光地平戸が妙に寂しく見えた一日であった。Img_3809

オランダ橋


【今日のじょん】30日、土曜日、夜11:42、通りでクラクションの音がしたかと思うとすぐにパーンという音がした。すわ、発砲事件かなと思い暗闇の中を見ると車がハザードランプを点けて停まっている。やがて走り去ったがどうやらいつもの鹿の交通事故らしい。どうなったか確認したいが、こちとら風呂上がりである。
 耳をこらしていると走ってきた車が急ブレーキを踏んでいる。どうやら路上に遺体があるようだ。
 翌朝には遺体は片づけられており路上に血痕の跡がある。大きな鹿のようで引きずって片付けた跡があり、毛や血痕が残っている。これで3回目の鹿事件だが、夜中に走る人はご注意を、我が家の前は鹿の横断歩道となっているから。P1040167
P1040169

    

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上林の盃状穴(13) 坂尾呂神社ー2  4/1

2013-04-02 | 歴史・民俗

2013.4.1(月)晴れ

 本殿に向かう広場には右手に立派な手水鉢があるぐらいである。周囲を回りながら観察するが盃状穴らしきものは見当たらない。P1040152



手水鉢、腰掛け、石段、鳥居と見てゆく。

各地の盃状穴を見た場合、手水鉢の周囲に強烈なものがみられるが、上林についてはどうもそのようなものはないような気がする。この土地の人の性格として、盃状穴の風習があったとしても、器物を破損するあるいは景観を損ねるというような極端な行為はなされないのではないだろうか。あるとしても石段など問題のなさそうな個所にこっそりとなされているような気がするのである。そう考えると逆に、人目につかないところ、物陰に穿たれている可能性も出てくる。したがって物置の裏の敷石や、石垣の陰なども注意深く見るのだが、残念ながら見つからない。本殿の周囲、摂社の周囲も細かに観察する。
 ただ一つ、本殿に向かう石段の右側の袖の石にそれらしきものを一個発見、穴は浅いが一応真円になっている、石材も柔らかそうな石である。
ところが内部を触ってみるとどうもざらざらとしていて人工に削った感がしない。どうも自然の穴のようだ。P1040155

 


石段は寛正年間のものと思われるが、盃状穴ではないようだ。

 続いて本殿の周り、摂社のあたり、石と石造物をしらみつぶしに観察するがついに見つからなかった。
土器や鉄滓なども無いものかと探し回るがそれらも見つからなかった。
 
 坂尾呂神社には5基の古墳があるというが、今ひとつはっきりしない。東側の2基はなんとか古墳らしい姿を残しているが、単なる盛り上がりがあるのみで、表面には遺物もないようだ。つづくP1040157



これが円墳のようだが随分荒れている。

【作業日誌 4/1】
薪拾い(岩鼻さん宅)

【今日のじょん】じょん桜が開花した。八分咲きというところか。もう4,5日で満開のようだ。じょん君は昨日のお疲れのようで、朝の練習もイマイチ力が入っていない。P1040200

ワンワン運動会、キクちゃんの動画があるのでアップロードでき次第公開予定。

【晴徨雨読】187日目(2007.4.1)平戸口滞在
 生月島は平戸の西にある小島だ。この日どうやらこの島を目指したようだが、その理由が思い出せない。幸か不幸か天気が悪く平戸島の一部を周回して帰ってきた。とたんに晴れだして、近所の資料館などに出かける。里田原(さとたばる)遺跡では本物の支石墓を見る。縄文時代の終わり頃に朝鮮半島から伝わったものといわれる。あまり気にもとめなかったのだが、今となればもっとしっかり見てくればよかったと思っている。Img_3761


 
 
 
 

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