晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

伊勢街道? 12/3

2006-12-07 | 旅行記

 2006.12.3(日)     快晴~曇り  西風強 寒波襲来     
 7:00 起床   
 9:00 浜名湖YH発~新居旧街道松並木~白須賀宿坂下~R42~一部浜名蒲郡自      転車道~
14:30 伊良湖ビューホテル着
 
 この冬一番の寒波とか、今日はは富士山見えるかな。屋上に上がると見える見える、小さく見える富士山から5日をかけてここまで来たのだと思うと感慨も一入である。今回の旅で見る富士山はきっとこれが最後だろう。よく見ておこう。Img_2033

YHの屋上から最後の富士山が見える。

  YHの職員さんは皆気さくにしゃべってくれる、これがなにより勇気づけられる。一つ道を間違えたが、なんとか松並木に出る。相当の距離に残っているが、昨日同様枝振りと幹の太さは不満が残る。それでも保存をされている地元には敬意を表したい。我が故郷も参勤交代の街道があるが少し残っていた松もとっくに切り倒されてしまった。文化財を残そうなんて意識はさらさら無いようである。Img_2037

新居町の東海道松並木

 白須賀に着くと道だけは旧街道の様子だが、それらしい建物や遺跡は見あたらない。白須賀宿ガイドという絵地図の看板があるのだが、災害避難訓練の市民が沢山集まっており、
奇異な眼で見られるのが嫌で素通りしてしまう。少し行くと潮見坂下で街道は直角に北上し急な坂となっている。これが潮見坂だ。きつい坂を敬遠して直進するとすぐにR42に出る。ところがこの道もだらだら北上して旧街道からの道と出逢うのだ。白須賀宿の核心はどうもその迂回した坂の中にあるようだ。同じ所へ出るのなら汚い国道より、宿場街を通るべきであった。ガイドの地図を見なかったことを悔やむ。Img_2039

白須賀宿、潮見坂

 R42が西進するようになると風が真正面から当たるようになる。スピードは10Km前後になり、なんとも情けない。快晴であった空も一面の黒雲となり、冬型の吹き出しが温暖な渥美まで来ているのだろう。手足も冷たくなって感覚もなくなってきた。
 耐えに耐えて走っていると愛知県に入る。キャベツ畑の中を進んでいると自転車道入口の案内道標を見つける。さっそく海側へ下ってゆくと渥美蒲郡自転車道の地図看板と能書きがあり、立派な道路が続いている。実はもっと東から来ているようだが土砂崩れでこの地点が実質のスタートのようである。道路も橋も素晴らしいもので、このまま伊良湖岬まで行けるのかと思った途端、自転車道は終わり42号線に戻る。そして延々と国道を走る。Img_2044_1 Img_2046

立派な橋の自転車道とサーファー、寒くないのか。



 やっと自転車道入口を見つけ、だまされたと思い再度走る。寒い中を多くのサーファーが楽しんでいる。そう言えば伊良湖はサーフィンのメッカだった。「野糞をするな」「これ以上地元民を怒らすな」「ゴミは持ち帰れ」など沢山の立て看板が立っている。地元民に受け入れられないスポーツはつらいぞ。進入禁止の場所にも車がぎっしり進入している、そんなことしているといづれサーフィン出来なくなるぞ。自転車道にも駐車しており、降りて避けなければ通れない箇所が一カ所あった。砂場が無くなり岩場となると釣り人が増えてくるが、静岡の自転車道同様自転車を楽しむ人には巡り会わない。しばらくしてまたしても行き止まりとなり、国道に戻る。はっきり言ってこれじゃ自転車道としての意味は無い。路肩の崩壊ということだが、自動車道なら徹夜してでも改修工事をやるところだが自転車道ではいつの事やらわからない。伊良湖岬までもうすぐというところで再度自転車道の看板有り、やけくそで行ってみる。海岸沿いの一直線の道で景色は抜群、遠く岬の小山も見える。今日泊まるビューホテルもその上に見える。今度は途切れることなく続いている。渥美蒲郡自転車道南岸編は能書きの割に中途半端な自転車道であった。
 さて我々近畿在住の者にとってはあれっと思うのだが、R42って紀伊半島を巡っている国道ではないの?42なんてげん悪いなあと思いながら走っているので、記憶しているところなのであるが、この国道は伊勢湾を渡っているようだ。ちなみに渥美半島南岸のR42は伊勢街道と呼ばれ、かつては伊勢参りの人々が伊良湖岬まで徒歩で行き、船で伊勢にお参りしたのであろう。Img_2072 Img_2053

国道42号線って紀伊半島じゃないの?
草むらの中にお地蔵さん、伊勢街道の名残か。


 アゲインストの風の中震えながら走っていると自然と歌が出てくるものである。「北風吹き抜く寒い朝も、心一つで暖かくなる」暖かくなるはず無いやろ、ココロと違ってカイロちゃうか、責任者出てこい。「今はもう秋誰もいない海、知らん顔して人が行き過ぎても私は忘れない海に約束したから、つらくてもつらくても死にはしないと」人が行きすぎるたびに死んでられるか、責任者出てこい。「でてきたらどうすんね」「あやまったらしまいや」
 しかし海、浜、岬の景色は最高で妙に観光地化されていないところがいい。明日もう1日滞在して海岸や岬を歩いてみたい。Img_2052 Img_0042

片浜十三里からビューホテル
ビューホテルから伊勢湾の夕日

走行距離63Km 累計5,276Km 費用9,500円

コメント (2)
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新居宿と舞阪宿 12/2

2006-12-07 | 旅行記

 2006.12.2(土)     快晴 夕方にわか雨     
 7:00 起床   
10:00 浜名湖YH発~寺道~新居関跡~旅籠紀伊国屋~浜名湖今切パーク~舞阪       郷土資料館~雁木跡~脇本陣~東海道松並木~
15:50 浜名湖YH着
 
 新居宿、舞阪宿とも東海道の中では中規模の宿ではあるが(東海道江戸から30,31番目の宿に当たる)この間は渡船であったこと、新居には関所があることで重要で特異な宿であったようだ。どちらの町も宿場の保存には積極的で、是非とも見物したいと思い晴天の1日を当てることとした。
 「空気の澄んだ日にはYHの屋上から富士山が見えますよ」と職員さんに言われ、さっそく上がってみる。残念、霞がかかっていて見えない。もう富士が見えることは無いのかも知れない。
 まづ職員さんに聞いた寺道というのに行く。旧東海道の西にほんの狭い間に5つのお寺と4つの神社が並んでいる。宗派は違えど大規模なお寺ばかりで、今となっては運営はどうするのだろうと余計な心配までしてしまう。旧東海道はR301で直角に折れ曲がり、新居関所に行き着く。今ではずっと東まで 興味あることは、かつて浜名湖は独立した淡水湖であったことである。
湖から浜名川が太平洋に注いでおり、浜名橋という立派な橋が架かっていた時代も合ったそうである。時代で言えば室町時代に地震や津波で海側の陸地が切れ、海水が浸水し海水湖となったそうである。切れた部分を「今切」(いまぎれ)といい、関所も正式名は今切関所という。新居宿から舞阪宿まで一里は海上(湖上と言うべきか)の街道であり、幕府の政策上橋は架けられなかったと言うことである。Img_1998_2 Img_2002 Img_2000






左:寺町の通り  中:関所内の荷物石、取り調べを受けている間荷物を置いておく石
右:関所内の様子Img_2004
Img_2009Img_2007
 



 
左:かつてはこのように浜名湖があった。  中:紀伊国屋  右:紀伊国屋の2階

 関所の西南に紀伊国屋という旅籠が整備され残っている。旅籠(はたご)というのは食事付きの旅館で、紀伊藩のご用宿だったのだが普段は庶民も宿泊していたようである。旅籠の籠は元々馬に餌をやる籠のことであったのだが、食事のことを言うようになったようである。宿にはこの他本陣や脇本陣などがあるが、これは大名専用で庶民が泊まることは無い。木賃宿というのは宿場町外にあり、自炊専用の庶民の宿で、煮炊き用の燃料代を木賃として取っていたそうである。一階には武士用の書院造りの部屋などあるが、台所、厠、風呂などがある。風呂は今のように湯船に浸かったのでなく、溜めてある湯を桶でかぶったようである。その時に着ていたのが浴衣なのである。一種のシャワーのようなものか。二階は六畳の間が四つ、八畳の間が一つでここに一般客が泊まったようだ。弥次さんや喜多さんの様子が彷彿とされる。
 津波で切れたという今切口は海釣り公園となっており、土曜日とあって多くの市民が釣りを楽しんでいる。浜名湖といえばウナギである。昨晩食べてみるかと思ったのだが、やたら高そうで勇気が出ない、結局トンカツになったのだが今日はYHの職員さんに良いところを教えてもらったので、安心してそこへ行く。新居駅前の大国屋さんだ。人気があるようで満員である。鰻丼1,000円、肝吸い100円、お酒400円、鰻を焼くには時間がかかる、その間熱燗をチビリチビリやるのは最高である。(今日は一応休養日なので昼間のお酒を許していただきたい)コンビニの鰻と違ってまいう~。Img_2012
Img_2014
左:今切海釣り公園
右:角屋の資料



 昨日来た道を辿って舞阪に戻る。舞阪町は町村合併により浜松市となっているが文化財の保護には力を入れているようで、郷土資料館や脇本陣等立派な施設でも無料である。
郷土資料館で気付いたこと、宿場の端の宿は角屋である。新井宿もそうであったのだが、舞阪宿で確信を持つ。新井宿は角屋久四、舞阪宿では角屋甚三郎である。角屋の宿や食堂は多くあるが発祥はこういう所なのだろう。
 次に脇本陣に行く。脇本陣も建物があるのはここだけと言うことである。やはり舞阪町役場として利用されていたり、医者の居宅として利用されて残っていたらしい。本陣は旅籠と違い立派な造りである。殿の座する上段の間は畳一段高く、他にお客がいないからといって立ち入り禁止の座に座り、写真を撮っていただいた。世は満足じゃ近うよれ。Img_2023 Img_2024

舞阪宿脇本陣と上段の間



 最後に舞阪の東海道松並木を見に行く、長さ本数は中々のものであるが枝振りというか幹の太さは貧相で、戸塚あたりで見たものが今のところ街道一である。Img_2030  

 山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし
                                山頭火  
 紀伊国屋にあった山頭火の書である。

走行距離31Km 累計5,213Km 費用2,740円

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西風物語 12/1

2006-12-07 | 旅行記

 2006.12.1(金)     快晴 西風強     
 7:00  起床   
 9:10  御前崎YH発~太平洋自転車道~掛川市歴史民俗資料館(大須賀)~
       横須賀商家町並み~太平洋自転車道~天竜川(遠州大橋)R150~R1               ~県道316号線~R257~R1~
16:35  浜名湖YH(静岡県)着~新居駅前往復
 
 「天気の良い日、冬型の日は西風が強いですよ、自転車道もね、作りっぱなしの道だから途切れ途切れになってるし、砂で埋まっているところもあるよ」YHの女将さんの言はまったくその通りであった。
 今日の目標も昨日同様サイクリングロードを踏破すること。河川敷以外ではこの距離の自転車道はそう無いのではないか。この目で見極めてやりたいという気持が湧いてきた。
YHから海岸沿いに降りるとサンロードという遊歩道兼用の自転車道がある、車道とは柵で完全に分離してあるのだが路面が悪く車道の方が走りやすい。風は女将の言うとおり西の風が強く、時速は12Km程度しか出ない。
 やがて海岸沿いの太平洋自転車道となる、遠州灘の海の景色は抜群なのだが、向かい風に合わせて砂だまりが出てきた。長いものは30m程有り自転車を押して歩くのは大変なアルバイトだ。砂漠を自転車旅行している御仁もあるが、これが一日続くのかと思うとご免被りたい。延々と砂浜が続く中、高校生だろうか中学生だろうか学校のイベントとして砂浜マラソンが開催されている。男子はすでにスタートしており、丁度女子のスタートの号砲が鳴ったところだ。裸足で海岸を走るのは気持ちよさそう、一緒に走りたい気持だ。山側にはヤマハのテストコースか、バイクは走っていないがオフロードの講習会をやっているようだ。どちらも見ているとおもしろいのだが、自転車道まで砂浜になっているのは参った。Img_1977 Img_1975

左:自転車道はこのように砂に埋まっている。
右:砂浜マラソン

 大須賀(掛川市)に民俗資料館があるので自転車道を離れ、北上し、道を尋ねつつやっと見つける。
ところがだ「当面の間13時~云々」とある。今は11時過ぎだ、待ってられない。なかなか立派な白壁の資料館でしかも入場無料なのだ。なにか凄いお宝がねむっていそうでがっかりする。横須賀(掛川市)の商家町並みも見ていこうかと通ってみる。落ち着いた古い町並みで満足したのだが、肝心の昼食をとるところがない。Img_1980 Img_1981

左:大須賀民俗資料館
右:横須賀商店街

人里離れた自転車道を走るためには腹ごしらえは第一条件なのだ。国道150号線でおにぎりを仕入れ自転車道に戻る。途端に太田川に出合い、橋を渡るため国道に戻らされる。大体自転車道は川のたびに近隣の主要道に行って橋を渡ることとなっている。そのためかなりの距離を迂回することとなり、国道の距離より1~2割り増しとなる。太田川を越えると海岸沿いの松林の中となり、適度なアップダウンとコーナーを快調に走る。なんと言っても西風と砂溜まりの無いのが気持ちいい。やがて右手にスズキのテストコースが現れる。片道10Km近くもあるようで本格的である。何台もテスト車が走っており、二輪がこんなに走れるものかと思うほどハイスピードの車もいる。企業秘密保持のため撮影禁止となっている、産業スパイと間違われてはいかんと思い撮影は遠慮する。Img_1984_1 Img_1986

松林の中の自転車道とスズキのテストコース



 やがて小さな灯台が現れ天竜川となる。この川はでかい、大井川はなんとか越せそうだがこの川は越せそうにない、遠泳の世界ではないか。東海道は一体どうしてこの川を越えていたのか、大井川があれほど有名なのにこの川はよく知られていない。実はどこの部分を渡っていたのかも私は知らないのだ。例によって国道150号線遠州大橋まで北上する。この橋は有料の表示があるが、自転車は無料である。橋を渡るとすぐに海岸線に戻る道があるのだが、自転車道の表示は無い、昨日の大井川の例もあるので国道をそのまま行く。Img_1989
 
越すに越せない天竜川

 ところが1号線にぶつかる手前で海岸線から北上してきた自転車道に出逢う。まったくこの自転車道の案内はめちゃくちゃだ。開通当時はきっちりされていたのかも知れないが、今ではほったらかしで役目を果たしていない。この長大な自転車道の始点というか終点というか、西の端を確かめることができた。1号線に出逢う何とも惨めというか荒れ果てたというか、らしい終わり方というかつまらない起点ではある。Img_1994
何とも汚い自転車道の起点

そこからR1浜松バイパスを西進する。立派な歩道で気持ちよく走ることが出来る。ところがだ、途中でいきなり歩道が無くなる。もちろん自転車走行可の歩道である。予告も指導も無くいきなりの無くなり方はR16の八王子バイパスを思い出させる。この間私も人間が出来ているので、適当にバックして一本北の県道316号線を走る。これは最終的にR257に出、R1の旧道に出るはずだ。ところがだR257からR1に入る交差点では、これまた歩道はぷっつり消えるのだ。普通こういう場合良く探せば地下を通ったり迂回をしたりしてなんとか繋がっているものだが、この交差点はどうしても切れている。欠陥交差点である。ままよとばかり車道の真ん中をトラックに混じり右折し、R1に出るとどこからともなく歩道が出てくる。全くあきれた国道だ。
 弁天島で弁天さまにお参りする。子規の句碑がある。
  天の川 濱名の橋の 十文字  子規
浜名の橋にクロスして天の川が横たわっているのだろう。Img_1995

弁天島の弁財天、弁天島はかつては天橋立のような青松白砂の砂州であったそうだ。羽衣伝説も残っている。



 新居の街にはいるとすぐにYHがあるものと思っていたら、えらい遠いところであった。
探し回って着いたときは薄暗くなっており、それから食事に出て、帰るとすっかり夜になってしまった。
 
走行距離91Km(新居駅食事往復5Km)  累計5,182Km   
費用11,018円

★浜名湖YH 4,725円  財団法人がやっているという大きなYHで設備は整ってい       る。職員さんも親切で居心地よし。

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