晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(154) 亀岡文化資料館 

2015-11-27 | 地名・山名考

2015.11.27(金)晴  穴虫考(153)は2015.2.9

 亀岡市文化資料館で「亀岡の古代寺院と丹波国府」という特別展を行っている。29日(日)が最終なので慌てて行くことにした。丹波国府は桑田郡にあったとされるが、未だ確定はしていない。元々千代川にあって、屋賀(八木町)に移ったというのが従来の定説だったのだが、最近の発掘で池尻遺跡が有力になってきたという情報もあり、気になるところである。国分寺は亀岡市千歳町国分にあってこれは遺構も残っており間違いないところである。

 穴虫地名は千代川町北ノ庄と河原林町河原尻に存在し、国府推定地付近と国分尼寺の地点となっている。丹後の国府は宮津市にあるのだが、ここにも尾根ひとつ隔てたところに穴虫が存在する。古代の官衙と国分寺等に穴虫が関係しているのではと思わせる部分があるのだが、果たしてどうだろうか。今年は体調が悪くて穴虫の調査がひとつも進まなかったのだが、ここに来てこの特別展でなにかヒントが得られるかもと思いやってきたのである。
 新たな丹波国府の説はどうやら池尻遺跡のようだ。南から国分寺、三日市古墳群、三日市窯、千歳車塚古墳、池尻廃寺、坊主塚古墳、天神塚古墳、池尻古墳群といったふうに重要な地帯であることには間違いない。古代の重要な建物跡からは瓦、土器、武具などの鉄器等が発見されるのだが、梵鐘などを鋳造する設備や坩堝(るつぼ)、鉄滓なども発見され、建物や備品などの金属製品を作り出す施設が付属されているようだ。
 穴虫が金属の精製や加工に関わる渡来人、穴師の居住地とする一般的な説を裏付けるひとつの例となるのかも知れない。
 しかし丹波丹後の国分寺がそうであっても、他の地域の国分寺や国府の近隣に必ず穴虫が存在するというものではなく、亀岡だけをみて断定出来るものではない。
 「情報の発信・受信 それは道」「川東・たんぼの下から郷土のお宝発見!」という冊子を購入する。前者には河原尻村の明治初期の絵地図が載っている。国分寺の建物は載っているが、国分尼寺つまり穴虫周辺は林になっており民家も無い。井尻のあたりに4軒の民家が載せられているばかりである。この地図は明治初めのものだが、近世の状況を示しているのではないだろうか。河原尻村に隠墓集落があり、葬送を取り仕切っていたことはすでに述べたところであるが(近世三昧聖と葬送文化・2015.1.20)火葬を扱っていたこと、火葬の場所がどこかは定かで無い。民家から隔離された穴虫の地に火葬の場所があれば、わたしの穴虫火葬場説の有力な証拠となるのだが、なかなかそうはうまくいかない。
 資料館を出ると石棺の蓋や灯籠など歴史的石造物が幾つか展示されている。昔はなんの興味も無くちらりと眺めて帰っていたのだが、今はそうはいかない。盃状穴らしきものは無いかと必死で眺め、触りまくる。しかしこれとてそう易々と発見できるものでは無い。

 

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