晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(51) 8/16

2018-08-16 | 地名・山名考

2018.8.16(木)曇り

 さて本題の大栗峠であるが、峠を含む山間部に付いている志古田の小字大栗が峠名の由来であることは間違いない。この大栗の地名由来については既に述べたところであるが、「刳る」からきた災害地名というのがあまりにぴったりしていて逆に不審に思っている。確かに大栗は地滑り地帯であって(J-SHIS Map)現実に大規模な崩壊が起こっており、志古田側峠道は通行不能状態である。志古田道はあまたあるルートの中で最も古い、小栗峠の元祖的峠道だと考えているのだが、なぜそんな危険な場所に道を作ったのか疑問を感じざるを得ない。

志古田道の大崩壊(2011.11)峠道は完全に寸断されている。右は谷筋から山腹に移るところの大岩。
 あやべ温泉から、畑口からいやという程大栗峠の山並みを眺め、昔の人の気持ちになって考えてみる。答えは簡単である、大栗峠が一番低いということだ。徒歩で最も早く和知に至れるのが大栗峠なのである。まだ峠道が無い時に人が山並みを越えて彼の地に行こうと思ったら、一番低いところをめがけて谷筋を詰めるのは至極当然である。谷筋は樹木も生えていないし、ルートファインディングの必要も無い。歩いていれば峠に到着する。柳田圀男氏の「峠表裏理論」にぴったりの峠が大栗峠志古田道なのである。峠道の本質からすれば志古田道が最も峠道らしい道で、最も最初に出来た道だろうという根拠はそこである。ただし最初に人が通ったのは志古田から峠まで谷筋であろう。それは峠道とはいえず、単に山脈を越えるルートである。大栗が大昔から崩壊地であっても谷筋ならば問題は無い。そして人が多く歩くようになって谷筋の脇により歩きやすい道をこしらえていったと考えられる。もちろん当初は踏み跡程度のものだったろうが、やがて人が手を入れる様になり、今日のルートに近いものができあがったのだろう。峠道が尾根の中腹に上がると、土砂崩れなどの災害に悩まされたことだろう。大栗は上林でも最大の地滑り地帯である。志古田道は補修を繰り返しながらも、洞峠とともに京街道として多くの通行人を迎え、とりわけ君尾山光明寺への巡礼道として栄えたことだろう。徒歩の通行人だけならそれで良かったかもしれないが、時代が下がって物資輸送が必要な時代になると谷筋と山腹をぬう志古田道は尾根筋主体の弓削道に主要街道の座を譲らなければならなくなったと想像する。おそらく弓削道は志古田道が崩壊した際の迂回路として既に存在していたのではないだろうか。つづく

 

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