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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

バスで行く大栗峠-1 4/30

2018-04-30 | 山・峠

2018.4.30(月)大栗峠考(42)

 「豊かな森を育てる府民税」を活用し、森林組合に委託して大栗峠山田道と和知側の整備がなされたという。わたしの大嫌いなパターンの開発である。綾部市のあちこちで峠道や山道の改修が行われている。その形態は千差万別で、自治会単位でやっておられるのが最も多いのだろうが、個人やグループで行われているものもあり、今回のように公のお金で外部に委託してあっという間にできあがってしまうものもある。前者の場合心から応援したいと思うのだが、後者の場合は心情的に受け入れられないものがある。それは何かというと公のお金といえど所詮はわたしたちが払っている税金だと言うことと、委託された業者がその対象となる山や峠に愛着を持っているかということである。しかし救われる道はある、できあがったいわゆる箱物を地元の人々が大切に維持し、継続的に有効に利用できるかということである。

上林の山中では最も立派な看板だろう。
 2011年から大栗峠に通い続け、その謎を探ってきた。ようやくわたしなりの大栗峠像ができあがり上梓の機会を待っているところだが、直近の大栗峠といくつか確かめたいところもあって今回の山行となった。
 山行の目的は1.現状の大栗峠を見ること 2.公共交通機関を利用した峠行を試みること 3.山田道と和知道の性格を見極めること 4.地下足袋登山 5.外部委託工事の評価 である。

観光センターから山田道、左の尾根を登る。

メンバー 小原英明、山田進
タイム 
       観光センター出発  8:40
  林道入り口着    9:10  発 9:15

  展望台着     10:20  発10:30
  P582下通過  10:50
  弓削道分岐着   11:10
  大栗峠着     11:20  発11:30
  上粟野登り口着  12:00  発12:10
  山の家バス停着  12:45
  観光センター着  14:30

 まず一つの目標である公共交通機関を使用した例を紹介。出発地点はカフェじょんのびとする。
 あやバス(上林線)念道 8:35 寺町  8:39 (200円)
 上記山行タイム
 京丹波町営バス山の家前12:54和知駅13:25(400円)
 JR           和知    13:32 山家  13:45 (240円)
 あやバス(上林線)山家 1
4:07 大宮14:19  (300円)

 
【今日のじょん】ドッグランのよい季節になりじょんもソワソワ。28日
シュナウザーの髙橋オレオ君1才半

鼻の上にのせたお菓子をパクっと食べる、すごい芸、ざぶとん、ざぶとん
                


 

  

       

 

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嗚呼 木住峠-9 4/9

2018-04-09 | 山・峠

2018.4.9(月)曇り

 木住峠(きずみとうげ)の命名について、舞鶴側岸谷の小字鬼住に由来するものと書いたが(2017.12.18参照)実は上林側ににも木住の地名があるのだ。これは単なる偶然だろうか?これまで巡ってきた峠の多くが越えた先の地名を指している。洞峠、坪坂峠、胡麻峠、八代峠など。また大栗峠、猪鼻峠などは峠の位置の地名そのものである。大原峠、和木峠などとお互いに目的地の地名を呼び合った峠もある。ところが峠のどちら側にも同じ地名が存在するのはどういう意味があるのだろう。浅原(綾部市睦合町)から下粟野(和知町)に向かう堀尾峠というのがある。浅原に堀尾という山地の小字があるのでそれが峠名の由来かと思っていたら、その峠道を下っていった先に堀尾橋という橋が有り、なんとそこにも堀尾という小字がある。菅坂峠もしかりで、木下側と水梨側に菅坂という地名がある。木住峠も鬼住、木住と使用する漢字は違うが同じ地名が存在する。

木住峠の上林側に木住、舞鶴側に鬼住が存在する。
 余り深く考えると迷宮に入り込んでしまう。他の峠と同じように目的地の地名を峠名としていたのが、こちらの側にもついてしまったと考えればすっきりする。きずみ峠に行く道だからきずみになったのだろう、遊里側か岸谷側かどちらが先かは解らない。
 上林側の川は木住川、峠に向かう谷は肥苅谷と呼ぶ。清水の人はみんなして肥刈りに清水道を登ったそうだ。でも肥刈りっていったい何なんだ。科学肥料の無い時代に自然の草木を利用するのは理解できるが、いったいどのようにしていたかというのは不思議な限りである。柳田圀男の「分類農村語彙」では「半夏生の日から野山の口が開き、肥刈りが始まる。毎年牛を牽いて草を刈りためる。」とあって具体的にどのようにするのか解らない。誰もが頼るネット情報でもよくわからない。かつての農業、特に稲作ではかなり重要な作業であったにもかかわらずその内容がわからないというのは合点がいかない。
 以前に鋳物師の資料を見せて頂いた井関(傳)さんのお宅を訪ねる。肥刈りのことはよく憶えておられて、次のように教えて頂いた。
・肥は広葉樹の枝葉を持ち帰る、最良なのはナラ。
・発酵させて田んぼに捲く。
・清水ではこぞって肥苅谷に荷車を牽いて行ったそうだ。
 なるほどと思ったのだが後で考えると、いろいろと聞き漏らしたことがある。多分ナラの木を切っておいて新しく出た枝葉を刈ってくるのだと思うが確認できていない。発酵たってどうやってするんだろう。葉っぱはともかく枝はどうなるんだろうとか気になる。荷車もまだ健在だそうだけど見てみたい。
一番気になることは、清水道は清水鋳物師の金型輸送を主とする産業道路と予想しているところへ(2017.12.25参照)肥刈りと荷車の話が出てきたので、実は肥刈り道路ではなかったかということだ。

この広い道を肥刈りの荷車が通ったことは確かだ。

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嗚呼 木住峠-8 4/6

2018-04-06 | 山・峠

2018.4.6(火)雨

 木住峠の岸谷側(舞鶴側)の右側(東側)に小さな広場がある。こういう広場は胡麻峠にも猪鼻峠にも見られない。八代峠にも神子峠にも見られない。ところが大栗峠の北側には立派な広場が残っている。茶店があったという風な話もあるようだが定かでないが、いずれも人工の広場のようだ。牛馬荷車の往来する産業道路と予想した両街道に共通しているのは、牛馬荷車の休憩場所としての広場なのではないだろうか。
 さて次の証拠は、岸谷側の峠道も同様に広くなければならないということである。岸谷側の道は北西になだらかな斜面を横切っていくものだが、峠からずっと植林地帯である。植林の中の道は日が当たらないので湿気が多く、落ち葉が腐葉土化して本来の道が残らない。必死にルートを追うがものの数分で途切れてしまった。踏み跡を追うと言うのではなく、過去にあった道を探すというもので、要は誰もこの地帯を歩いていないと言うことだ。峠から少し下りただだっ広いところで諦める。まわりは倒木ばかりで道は解らない、時間があれば無理やり進むことも考えられるが、また登り返さなければならないので今回は諦める。

植林の中を道の跡を探す、ミツマタはこういう陰気なところが好きみたい、倒木に囲まれた広いところで断念。
 元来た道を峠に登り返し、遊里道を下ることにする。清水道が新産業道路とすると、遊里道は元来の人道であるはずで、清水道のように広い必要はない。予想通りすぐに道は狭くなり、やがて出てくる徒渉場などを見れば完全に人の歩く道である。牛馬荷車は不可能と言うことだ。
 徒渉場を過ぎるとしばらくして堰堤の所に出、前回下った尾根の末端の林道終点が見えてくる。
 木住峠の清水道と遊里道は大栗峠の志古田道と弓削道の関係と一致する。最も合理的に迅速に峠に達する人の道と荷物を運ぶ牛馬荷車の道の関係である。いずれが時代的に先行するかは明瞭である。岸谷側の道は宿題が残ったが、一応の目的を達成した有意義な山行だった。

左:遊里道の降り口、中:徒渉場は荷車ではとても無理な狭い道 右:林道終点、右の尾根が前回下った尾根、左の谷道が本来の遊里道。
【今日のじょん】4月3日が花の最盛期だった。ちと早いけれど今年はきれいでしたネ


玄関前の桜がじょん2歳の時植えたじょん桜。


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嗚呼 木住峠-7 4/2

2018-04-02 | 山・峠

2018.4.2(月)快晴

 尾根をジグザグに登っていく道がこの峠道の真骨頂である。小栗峠の弓削道を思い起こさせるが実はそれ以上の広さである。上林をめぐる峠道で最高の広さである。清水道は上林の産業道路であるという私の説は正しかった。

左:尾根に取り付いた所は竹藪の道
中右:ジグザグに登る道は弓削道を思い起こさせる。
 嬉しくて何度も写真を撮りながら登ってゆく、やがて左手に道が分かれ斜めに真っ直ぐ登っていく。右手の道は地蔵堂にむかう道だろう。とりあえず地蔵堂の様子を見てみようと右手の道を行く。その時斜面の下から聞いたこともない奇妙な鳴き声が、グフフ、グフフと聞こえる。そして枯れ葉の上を歩く音がガサガサとして、戦慄する。そろそろ熊が冬眠から起きてくるナという先入観が妙に恐怖を誘う。必死に耳をこらすが姿は見えない。熊の鳴き声なんて聞いたことが無いから余計気味が悪い。ザックから熊スプレーを出して手に持っていく。問題は右に行くか少し戻って左に行くかだ。右の道が地蔵堂で終わっていれば問題ないのだが、それはずっと右上に続いている。左の道が正当だとすると右の道はいったいどこへ続く道なのか。半信半疑のまま左の道を行く。木住峠の方向に続いている感じなのだ。


地蔵堂に地蔵様は無い、清水の方に聞いてみよう。地蔵堂から右上の道は二本平行に並んでいる。
 上林の荒れ果てた道で何度同じ過ちを繰り返したことか。地図を見て、「ああこの方向に行くんだな」と決めつけてしまって、支尾根や支沢に入ってしまうのだ。地図をよーく見直すと「これだ」って解るんだけど、後の祭り。今回もよーく見直すと、清水から木住峠に向かう道中左手に一本支尾根が走っている。それは支尾根というには大きな尾根で、末端は遊里に降りている。幸い立派な道が尾根沿いとなるあたりで消えていき、ミスコースと判明する。こう何度もミスコースしていると引き返すことに躊躇が無い。開けた気分のよいところで昼食とする。すると下の方でまた、ガサガサと足音がする、カンベンシテヨ、、、、。
 元の地蔵堂に戻り、右手の道を登っていく。地蔵堂から10mあまり道が二本となり道が平行に並んでいる。これはいったい何だろう。昔の人が意味も無く作るはずもないし、気になるところだ。例えば荷車を牛馬に引かせて上り下りしていたら、おそらく休憩場所となっていたこの場所では、複数の荷車の置き場所が無い。そのために二本の道路が作ってあるのではないだろうか。単線の鉄路で列車が駅で待ち合わせをしているようなものでは無かろうか。地蔵堂から上は尾根の東側を437mピークに向かって登っていく。相変わらず道は広く立派である。やがてピークの下辺りからトラバース道となり、上部からの崩壊でやや道は狭くなる。

左:道は稜線のすぐ下をトラバースしている、アップダウンがなくてなだらかな道だ。
中:稜線を見上げると昨年歩いたルートが見つかる。
右:トラバース道は山側が崩れて狭くなっている。
 往時は充分な広さがあったのだろう。気持ちよく進んでいくと上部に前回取り付けたピンクのテープ発見(2017.12.15参照)その時はすぐ下にあるこの道を見つけられなかったのだ。そしてもっと進むと前回下った支尾根のとの交差地点に出る。それもピンクのテープで解った。交差地点から木住峠に向かう道があまりにも荒れていて見失ったようだ。支尾根のテープを取り外して清水道に付け替える。そしてしばらくで木住峠に飛び出る。形はらしい峠なんだが周囲が植林だらけで風情が無い。それでも3ヶ月かかってやっとたどり着いた峠だから感激はひとしお。

右志みづ 左たなべ
【今日のじょん】じょんのびは花の時
 10年たって、せっせと植え育ててきた木々が一斉に花開いた。といっても国松さんや一瀬さん、しまだやさんなどの協力のたまものなんだけど、、、花に惹かれて来店されるお客様も多いんだけど、先日「こちらは何です?」「喫茶店です」なーんて会話があったそうだ。慌てて道路際に看板を立てる。でもめがけてきたお客さんより、見つけたお客さんの方が印象に残ると思うんだけど、、、、。

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嗚呼 木住峠-6 3/27

2018-03-27 | 山・峠

2018.3.27(火)快晴 木住峠-5は2017.12.25

 木住峠清水道山行記録

 山行日 2018.3.27(火)快晴
 メンバー 小原英明 工忠照之
 タイム  五泉荘出発    10:25
      清水たたら跡出発 10:40
      地蔵堂着     11:30  発 11:40
      P409の尾根引き返し12:00  昼食
      地蔵堂再出発   12:30
      遊里道に下る支尾根12:50
      木住峠      13:10  発13:20
      岸谷側引き返し  13:30
      木住峠      13:40
      遊里道徒渉点   13:55
      林道出合     14:10
      遊里バス停    14:50
 
 今回の目的は木住峠清水道が特に清水鋳物師を意識した近世の産業道路ではないかということを確かめてみたいことである。そのためには清水道が荷車が通れる広くて緩やかな道であること、木住峠岸谷側も同様であること、遊里道がその逆であることなどが確認できればよい。その上井関家を示す石造物や馬の水場などあればより確かなものになる。そういう目的をもって登ると随分楽しい、上林たんけん隊の真骨頂だ。
 五泉荘に車を置き、工忠君にそれらの思いを話しながら清水まで歩く。井関家のたたら跡によって鋳物滓など見学し、スタートする。たたら跡は井関八左衛門宅で、現在の府道を渡って井関伝兵衛、その向かいに井関辰右衛門そして道場の北に井関伝助といずれも近世の鋳物師であり、この辺りが清水鋳物師村の中心地のようだ。道はその真ん中を貫いている。道があったから鋳物師が住み着いたか、鋳物師がその必要で道を作ったか解らないが、井関家に残る古文書に道に関するものがないものかと思う。

井関家の庭に残された鋳物滓、これは上林川のどこにでも発見される。
 さてその道を辿っていくと各家のお墓が並びやがて獣害ネットに行く手を阻まれる。入り口が解らないので倒木をよじ登ってネット内に入る。左手に小屋が見え、近づくとかつての取水小屋のようだ。小屋のところで道は二つに分かれている。右手谷沿いに行くのが木住峠への道で、左は清水の南方面に降りる道のようだ。

左:かつての鋳物師村の真ん中を道は進む。
中:防獣ネットを越えて中に入る。
右:取水小屋のところで道は二分する。 
 谷沿いの道は倒木倒竹で歩きにくい、すぐに右手に谷を渡る。往時には橋が架けられていたのだろうが現在は倒木で埋もれている。その先も倒竹で歩きにくいが道幅は広く、かつては立派な道だったことが偲ばれる。つづく

右手の尾根に取り付く徒渉点、倒木を伝って渡る。

 

 


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大栗峠考(41) 1/3

2018-01-03 | 山・峠

2018.1.3(水)雪
 「北山の峠」(中)金久昌業著に「舞鶴街道の峠」という興味深い文がある。田辺(西舞鶴)から京へ向かう街道についての一文である。京都ー周山街道ー高浜街道ー鶴ヶ岡ー洞ー古屋ー草壁ー大町ー遊里ー木住峠ー岸谷ー別所ー舞鶴、この道は間違いないが大栗峠をめぐる道が通らない(続かない)と書いておられる。大栗峠が京街道であることは、道中の石碑から見てもはっきりしているのだが、大栗峠ー上粟野から先がどう繋がるのか解らないという。寛政11年丹波國大絵図では大町ー弓削ー大栗峠ー上粟野ー下粟野ー下乙見ー篠原ー大迫ー長瀬-塩谷ー樫原ー岩江土(ママ)ー市場(静原)と繋がっている。上和知川を下って篠原で川を渡り由良川右岸を東進するものである。

明治28年陸地測量部地形図では、細谷の部分は左岸を通っている。
当時、右岸の道は開鑿困難だったのだろう。
明治になってからはもちろんこのルートが京へむかう道とされているが、金久氏はこのルートは古くからの街道と言うには納得がいかないとされている。これはわたしも同感で、古来の街道づくりの方法とすれば、上粟野から仏主、仏主峠を越えて三埜から大野に出るのが順当と思うのだ。

大野ダム周辺にあった道しるべ、塩谷と樫原の間の熊坂峠にあったものという。
当初の街道は由良川沿いではなく、おそらく山側の峠を越えたものであろう。
 丹波大絵図には上粟野から仏主までは街道が載っているのだが、仏主で行き止まりとなっている。ただこのことはかつてその先の仏主峠越えの街道があったことを示唆している。そうでなければ仏主は点で表されるだろうから。
 金久氏は由良川を渡って肱谷(ひじたに)を遡り、肱谷越え(仮称)から海老谷から四谷に出るという壮大なルートを想像しておられるが、これは少し無理があるように感じる。ただ海老坂峠は日本海側と太平洋側を分ける分水界の峠で、木材をはじめとした輸送の峠であり、四ツ谷側しか歩いていないが、弓削道のような状況ではないかと想像している。玉岩地蔵に若狭と縁のある八百比丘尼が祀られているのも興味あることである。
 仏主峠の道が廃れて、上和知川沿いの道が京街道になった理由は上和知川の水運があるのではないかと大胆に想像している。弓削道から大栗峠を越えた大量の物資は仏主峠を越えるのは無理で、上和知川の水運を利用した方が効率的だ。ただし上和知川の水運があったことが前提となるが、未だ確認は出来ていない。
 このように調査確認しなければならないことが山積みだが、大栗峠をめぐる道を時系列で考察することで、その謎が解明されるのではないだろうか。
【今日のじょん】小雪混じりの寒い日はダウンの上にレインウェアの重装備で散歩に出る。ステロイドの効いている間はそれなりに元気だ。わたしはステ犬じょんと呼んでいるが、かみさんはロイド犬じょんと呼んでいる。

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大栗峠考(40) 1/2

2018-01-02 | 山・峠

2018.1.2(火)曇り 大栗峠考(39)は2016.6.6参照
 大栗峠の謎 弓削道は産業道路(1)
 大栗峠の謎について細々と書いてきたが、本当の京街道はどちらなのかという大きな謎が常に脳裏につきまとっていた。今回木住峠遊里道よりも脇道である清水道が広くて立派だという情報を知って(自分の目ではまだ確かめていないのだが)清水道も大栗峠弓削道も近世の物流の道ではないかという仮説が浮かんだ。特に田辺(西舞鶴)ー上林清水ー胡麻新町ー園部ー八木ー馬路の鋳物師村を繋ぐ鉄(地金)の輸送路があったのではないかという考えである。もちろん運ばれるのは鉄だけではなく、米、炭、木材など流通が盛んになれば、人の背で運んでいては間尺に合わないものは水運が活躍したことは周知のことである。しかし日本海側から京に行くには必ず分水界を越えねばならない。田辺から京に向かう最も楽に越えられる分水界は胡麻である。そして田辺から胡麻に向かうには陸路上林を通過するのが最も近道かと思われるのである。ただし大量の荷を運ぶには牛馬に引かせる荷車が通れる広くて傾斜の緩い道が必要である。それが清水道であり弓削道なのである。
 木住峠については本来の街道である遊里道より清水道が広い。京に向かうには遠回りなのに清水に向かう道が広いのは清水鋳物師に地金を供給するためではないか。重くて大量に輸送するには牛馬による荷車が必要である。大栗峠弓削道については、他の大栗峠に至る道、志古田道、山田道が人の歩く程度の幅なのにここは広い、しかも急なところはつづれおりになっているのだ。この二つの道が物資輸送の必要性に応じて造られた新しい道であろうと考えるのだ。

山田道と弓削道を分ける「南無大師遍照金剛」の石碑、弓削道はこのように広い。

 従来本来の京街道である志古田道が弓削道にその座を奪われたのは、大栗の名のとおり崩壊が厳しく、安定した尾根道の弓削道が使われるようになったからというふうに考えていた。実はそうではなくて、志古田道では荷車用の安定した広い道を作るのが不可能だったからと考えている。
 ではなぜ弓削道だったのだろうか。それはその先、つまり和知の上粟野から水運が利用できたからだろう。由良川と桂川にはれっきとした水運の歴史があり、由良川から高屋川、畑川と胡麻までの水運も確認されている。上和知川と胡麻川の水運が確認できれば、上粟野から京までほとんどを船上輸送出来るわけだ。つづく

 【今日のじょん】昨日同様食っちゃ寝、食っちゃ寝の正月を過ごしている。えっ誰のこと、、、じょんのことやで


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嗚呼 木住峠-5 12/25

2017-12-25 | 山・峠

2017.12.25(月)雨

 田辺(舞鶴)から京へ繋ぐ物流の道路として大栗峠弓削道があるとしたら、その広さや立派さは納得がいく。しかし木住峠清水道はどう考えればいいのだろう。清水を回る道は明らかに遠回りになるし、清水が物流の拠点束であったという話も聞いたことがない。岸谷ー木住峠ー清水ー弓削ー大町ーと荷車の通る産業道路があったとは考えにくいのだ。悩んだ末に清水の鋳物師(いもじ)のことを考えついた。清水の井関一族は一国一座の決まりのもと、何鹿郡の鋳物師として近世から明治のにわたって活躍された。鍋、釜、鋤、鍬など農具生活用具のほか梵鐘や灯篭などを作製していた鋳物師の鉄や鋼の原料は地金と言って出雲や伯耆から入手していたようだ。輸送用の鉄地金は1束10貫目(37.5Kg)でちょうど人一人が担げる程度のものであるが、その使用する量は膨大なものになる。

2016年9月に上林川念道付近で発見した鋳物滓、8Kmも上流から流れ着いた物
 炭や粘土は地元で調達できてもこの地金だけは輸送に頼らなければならない。清水道はこの地金の搬入路であったと考えれば、わざわざ木住峠から清水に立派な峠道が作られた理由が理解できる。岸谷ー木住峠ー清水の道が広くて立派なことは、清水にとって必要な地金が田辺(舞鶴)から来たと考えていいのだろう。というのは地金の輸送は一般的に水運に頼っていると考えるからだ。


清水で拾得した鉄片、地金の一部ではないか?
 
近隣の鋳物師は福知山足立家、田辺引土国松家、何鹿郡上林井関家、船井郡胡麻新町勝田家、園部、八木、馬路などとつづく。すべて川沿いにあり、水運を利用していることがわかる。上林清水も由良川、上林川、畑口川と河川は続いており、陸路の木住峠を使用する理由は何かということになる。胡麻の勝田家だって山の中じゃないかと思われるが、実は胡麻には由良川ー高屋川ー畑川という立派な水路があり、胡麻新町のすぐそばの塩ヤ淵まで船が通っていたのである。

出荷用木箱(鋼)とこも包み(鉄)、10貫目の重量がある。(胡麻高原探訪に掲載)
 上林清水の井関家のみが陸路を使用したとしたらその理由は何だろう。大胆な予想をしてみよう。和鉄の集散地である安来から西回り航路で由良に着いた大量の鉄は各地の鋳物師村を順に効率よく配られていったのだろう。福知山は由良川を遡るのだろうが、田辺、上林、胡麻、園部、八木、馬路について順に輸送したと考えればどうだろう。陸路は上林と胡麻の峠越えだけで、あとはすべて水運を利用できる。こう考えると、清水道と弓削道が広くて荷車利用可能な理由も納得がいく。これらの道が鉄の道だとしたらなんとロマンだろう。

【今日のじょん】2011年発行の「じょんとも」の仲間たちも多くが亡くなった。どっこい頑張ってるワンもいるぞ。

ゆきちゃん、メー、さっちゃん

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嗚呼 木住峠-4 12/19

2017-12-19 | 山・峠

2017.12.19(金)雨

 金久氏は木住峠から清水道を見て、「谷道が多い遊里からの道よりもこの清水からの道の方が或いは古い時代の街道だったかもしれない」と述べておられる。大栗峠の街道についても尾根道で立派な弓削道が本道で、谷道の志古田は脇道という風な論調である。わたしの大栗峠研究はそこが出発点だったわけであるが、本道というのが最もよく利用された道のことを言うのならそれでいいかもしれないが、道というのは歴史があり、その中で最初の道、歴史的な経過の中で最も利用された道など様々あって、これが本道、これが脇道と軽々に分けるべきではないと考える。ただ、どの道が当初の道、その後の歴史的必然性によって後続的にできた道というのは考察すべきである。そういう意味で大栗峠の街道の元祖は志古田道、木住峠の街道は遊里道が元祖であると考えるのである。わたしは峠道の元祖は谷筋であると考えている。これは金久氏とは逆の考え方であろうと思うのだが、道作りの工法としては尾根筋が最も古く、順次川筋に下りてくるものであるが、人が道の無いところをどう選んで歩くかということになると、谷筋以外には考えられないのである。それは歩きやすいことと目的地つまり鞍部に達する最も早いルートだからである。

大栗峠志古田道は崩壊が激しいが、峠に達する最短の街道である。
 弓削道も清水道も現在残っている道としては素晴らしい街道である。しかしそれは峠道の元祖ではなく、時代の要請に押されて作られた産業道路ではないだろうか。あの広い弓削道を見たときに、いったい何のためにこの道が作られたのだろうかと不思議に思った。庄谷道、竹原道は単にその村から取り付けるという補助的な道と考えられる。山田道だって単に上林城から行けるという権威の道ともいえよう。しかし弓削道は違う、元祖の志古田道が崩れやすいからといって作った道としては立派すぎる。そのことについてずっと考え続けてきた。峠道というとかつての人の流れということを考えるが、あの広い峠道は物流と言うことを考えねばならない。あの広い街道は牛に横にした材木をひかせて整地したという。つまり荷車が行き来できる街道であったわけだ。

大栗峠弓削道は道幅も広く、整備された近世のハイウェイである。
 では荷車で牛馬に引かせる荷とはいったい何だのだろう。米、木材、炭ぐらいが考えられるが、木材は荷車には無理があろうし、果たして京に向けて供出しただろうかと言う疑問も残る。いずれにしても人の流れは洞峠、物の流れは大栗峠という考え方はあり得るのではないだろうか。つづく
 

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嗚呼 木住峠-3 12/18

2017-12-18 | 山・峠

2017.12.18(月)晴れ

 「北山の峠」(下)金久昌業著によると、木住峠は舞鶴側では鬼住峠で、官製11年丹波國大絵図では貴見峠、綾部市史文中には幾美峠と様々に記されている。あまり気にすることではなく、いずれも岸谷の小字鬼住(きずみ)に由来するものである。同様に小吹峠は岸谷の小字木挽(こぶき)に由来する峠名である。

北山の峠は名著である。
 
この木住峠の上林側の道は遊里の肥刈谷(こえかりだに)の道の他に清水に向かう道が地理院地形図には記載されている。ところがこの清水道は丹波國大絵図には記載されていない。

清水道は稜線の下をトラバースしている。
 なんといっても木住峠は里村紹巴(じょうは)の「橋立紀行」(1569年)の登場で脚光を浴びる。里村紹巴は秀吉などに仕えた著名な連歌師であるが、永禄12年5月都をたって橋立を見物し、上林城などに6日間逗留し、宮脇(美山町)から帰京したものである。田辺から上林に入った峠は岸谷峠と書かれており、小吹峠か木住峠か解らないのだが、城下に入るには木住峠が順当だと思われる。同様に帰路の峠は大栗峠か洞峠かわからないのだが、「あまたの坂をこえて、宮のわきと云所に付ぬ」とある。

肥刈谷のお地蔵、この道が主要な街道であることを物語る。

 下山後木住峠清水道をネット上の画像で見て驚いた。広くて実に立派な道なのだ。どっかでこのような峠道を見たぞと思いきや、それは大栗峠(おぐりとうげ)に向かう弓削道である。我々がミスって下った支尾根はこの清水道を横切っているのだけど、帰り道に焦っていたせいか気づかなかった。次は必ずこの清水道を訪ねてみたい、上林の多くの峠道を歩いてきたが、このように広い整備された道は弓削道と清水道しか知らない。つづく
【今日のじょん】17日の朝、今期三度目、積雪4cmってとこか。

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嗚呼 木住峠-2 12/16

2017-12-16 | 山・峠

2017.12.16(土)曇り

 鉄塔を過ぎるとすぐに左(南)に折れるのだが、その道が見つからない。あっという間に支尾根の小ピークに登ってしまった。いきなりのミスコースにがっくりくる。まさかここで敗退するわけにいかないので、ゆっくり観察しながら元来た道を下る。やがて右手に道らしきものを発見する、しかもその先に白地に赤のテープが巻かれている。かなり古いものだがどうやら主稜線に付けられた目印のようだ。我々の目印、赤テープの蝶結びをしておく。

いきなりのミスコース
461mのピークで昼食をとる。木々の間から弥山山が遠望できる。反対側には畑口川沿いの家や田んぼが見え気が休まる。展望がきかないと妙に不安に陥る、今自分がどこに居るか解らないからだ。

後ろに弥山山が見える。読図の参考になる。461mのピークで
 このあたり積雪は10cmぐらいあり、雪の下の泥や木の根で滑りやすい。どんどん距離を稼いで、493mピークを過ぎ、小吹峠に出る。睦志と岸谷を繋ぐ峠だが、上林側は植林されていて陰気くさい。すぐ下に睦志の集落がありそうで里心がつくが、まだ時間は早いので先を急ぐ。

小吹峠は峠らしい地形だが、上林側は植林で道も解らない。
 小ピークを越え437mピークの手前を右に避けて稜線を辿る。実は稜線から10mほど下に清水から木住峠にに向かう道が記されているのだが、どうも確認できない。稜線すぐしたの怪しげな獣道を辿る。時間はまだ早いのだが空が曇ってきたら、やたら暗い。左手に409mのピークが見えているので間違ってないだろうと思っていたら、右手の稜線がだんだん高くなってきた。こりゃあ支尾根を下ってしまったと気づいたのだが、もう登り返す気はしない。4時になったら暗くなり始め、5時になったら真っ暗になる時期である。木住峠手前の支尾根を下ったようで、何とか踏み跡はある。地図上の堰堤の所に出るはずだと決め込んで、下っていく。果たして堰堤が見えてきた。そしてそこが林道の終点だった。

支尾根末端が林道の終点、木の橋が架かっているが腐っている。
 あこがれの木住峠は再挑戦と言うことになったけど、明るいうちに下山できたこと、遊里で市野瀬行きのあやバスにぴったり間に合ったことでよかったことにしておこう。つづく

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嗚呼 木住峠-1 12/15

2017-12-15 | 山・峠

2017.12.15(金)晴れ
 上林の著名な峠は巡ってきたつもりだが、どういうわけかこの木住峠だけは訪れていなかった。京街道の大栗峠や洞峠、若狭と繋ぐ猪鼻峠や舞鶴に向かう胡麻峠などに比べてマイナーな感があるのだけど、それは現在の感覚であって丹後岸谷村から田辺(舞鶴)に向かう木住峠は上林の峠では最も重要な峠の部類に入ると思っている。冬の悪天候の中、唯一小春日和が約束されたこの日に神子峠から木住峠を目指すこととする。
2017.12.14(金)晴れ
メンバー:小原英明 工忠照之
タイム :工忠宅発   10:40
     神子峠取り付き11:00
     鉄塔のコル  11:20
     竹のピーク  11:30
     第二の鉄塔  11:35
     迷いのピーク 11:55 12:00戻る
     461mピーク12:35 12:55出発
     493mピーク13:30 13:35出発
     小吹峠    13:50 13:55出発
     小ピーク   14:10 
     437mピーク14:25
     林道出合   15:00
     遊里バス停  15:35
 
  小春日和という予報とはうらはらに気温も低く時折時雨れたりする。そのうち晴れてくるだろうと取り付きに急ぐ。先日の雪が残っており、稜線近くは5cm近く残っている。竹のピークまでは既に歩いたルートなので気楽に登る。夏と違って闊葉樹は葉を落とすので見晴らしがきく、夏には菅坂峠に向かうべく間違ったルートが今回のルートだ。鉄塔のコルから地形図通りのルートが目視できる。

鉄塔のコルからこれから歩く主稜線がよく見える。竹のピークはその名のとおり。
 竹のピークとは我ながらうまく命名したものだと思うが、一面竹の生えたピークの北に白滝と水梨をむすぶ神子峠があり、南進すると小吹峠に向かう主稜線である。すぐに稜線上の鉄塔に出会うが、三国岳をめぐる地域は送電線や鉄塔を使ってルートファインディングできるのだが、これより南はそれらが無い。この鉄塔が最後かと思うと何か心細くなる。人の入らない、見通しのきかない、稜線のはっきりしない上林の山はアルプスよりもルートファインディングが難しい。でもそれがかえって面白くなってきた。アルプスじゃあ地図もコンパスも使うことはまれだったが、ここでは5分ごとに確認することもある。つづく    
     


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四ツ尾山・寺山 11/30

2017-11-30 | 山・峠

2017.11.30(木)曇り
 12月7日の寿命延ウォーカーズ登山会の下見を兼ねて四ツ尾山に行く。青年会議所で整備されていると聴いたので一度歩いてみたいと思っていたところだ。取り付きや駐車場所が解らないので大槻さんに途中まで案内してもらう。
 

 山行日:2017.11.29(水)曇り 
 単独 :稜線まで大槻さん同行
 タイム:南ヶ丘公園スタート  10:25
     寺山四尾山分岐点着  10:35
     体力コース終分岐   10:52
     四ツ尾山山頂着    11:05  発11:20
     健康コース始分岐   11:30
     寺山四尾山分岐着   11:45
     寺山着        11:55  発12:07
     南ヶ丘公園着     12:20    
 南ヶ丘公園はグンゼの創始者波多野鶴吉の記念碑がある落ち着いた公園だ。鶴吉翁の銅像の横から登山道が続く。

銅像の横の道を登る、四ツ尾山寺山の分岐。
 まわりは植林で陰気くさいが、夏なら涼しいかもしれない。10分で寺山と四ツ尾山の分岐に出る。右に行けば四ツ尾山方面ですぐに体力づくりコース(右)と健康づくりコース(左)の分岐となる。どちらも歩いてみたいので登りは体力づくりコースをとる。短いが急と言うことだろう、この時期でも汗ばんでくる。20分弱で稜線に出る。そこからは一ツ尾、二ツ尾、三ツ尾とこぶを越えていく、15分程度で四ツ尾山山頂(287m)に着く。綾部市内側が切り開かれておりなかなかの景色だ。あいにくの天気で、ガスが晴れるのを待って写真を撮る。簡単に食事をし、登山帳に記録をする。

展望台からの景色、登山者名簿に記帳しよう。 
 展望台の下に岡町方面に下りる道だろうか見えている、そのうち下ってみたい道だ。山頂を後にして元来た道を下る。登るときも気になっていたが、丁寧に樹木の案内板が付けてある。これがクロモジか、これがシデかとか確認しながら歩くのも楽しい。やがて健康、体力のコース分岐に出、今度は健康づくりコースを下る。

樹木の名前を憶えながら、健康・体力の分岐に出る。(右が健康づくりコース)
こちらの方が緩やかで歩きやすい、みんなで登るときはこちらを使おう。コースの終わり近くにヌタ場がある。夕べイノシシがヌタっていたようだ。イノシシに注意という看板があったが、やっぱり居るんだなあ。

健康づくりコースはこんな感じで歩きやすい。ヌタ場にどっきり。
 寺山との分岐に出て、寺山も行ってみようと思う。こちらのコースは展望がきいて気持ちいい。途中桜並木もあり、季節にはなかなかのお花見ポイントになりそうだ。寺山山頂にはでかい音叉のような平和の鐘がある。それを守る屋根が厳ついコンクリートの柱で、いただけない。奥にひっそりと祀られている地蔵さんの方が風情がある。しかし街道でも無い山頂になぜお地蔵さんがあるのだろうか?

寺山に向かう桜並木、平和の鐘とひっそり地蔵。
 若宮神社方面に下りる道があるというので、歩いてみる。でも林道なので面白くなく引き返す。元来た道を南ヶ丘公園まで戻っておしまい。
 四ツ尾山は綾部の人なら誰でも知っているというか毎日見ている親しい山だ。よくぞこのコースを整備されたものだと思う。登山者手帳にも連日登山者の名前が載っている。綾部に住んでいれば毎日登山でもできそうな手頃な山だ。どうか多くの人が何回も登り、荒れないようにきれいにして、残して欲しいルートである。
 
その次の寿命延ウォーキング山行は高城山予定 

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胡麻峠から市茅野-2 11/29 

2017-11-29 | 山・峠

2017.11.29(水)曇り

 丸山はコルから登るのは簡単だが、猪鼻峠側に下るのはかなり危険だ。特に多人数で下るのは落石の危険が大きい。急斜面の上にガレており、灌木もまばらにしか生えていないからだ。従って今回もトラバースルートを行く。丹波側を捲くルートでほぼ水平に走っており安全だ。ここに来て初めて私たちが付けたテープが残っており、随所で役に立った。しかし何でここだけ残っているんだろう?
 猪鼻峠も枯れ木の倒木があり荒れているが、歩くのに支障は無い。ゆっくりと昼食をとって坪坂峠に向かう。
坪坂峠も地蔵さんの囲いが壊れかけていて、寂寥感が漂う。

お地蔵さんの右手を下っていく、最初は右手(右岸)の斜面の踏み跡を行く。
 市茅野谷は元々荒れていて、元来の道がどこか解らない。峠から右岸の踏み跡を行き、谷から離れてきたなあと感じる辺りで折り返して谷に下りる。これが本来の道のようだ。徒渉地点に案内テープ(黄色、主稜線は赤)を付け、左岸に渡る。ここから崖崩れや倒木で歩行はかなり困難になるが、ずっと左岸が本来の道のようだ。

倒木をくぐったり乗り越えたり、、、。
 苦労して下っていくと、谷一面シャガが生えている。こりゃあ困った、道が見えなくなるぞと思ったところで右岸に植林保護の鹿ネットが張ってある。渡渉してネットをくぐる。これは最初来たときに通った道なので安心、ネット沿いは歩きやすく、あっという間に二股に出る。谷は一面のシャガだ。季節になるとこれは感激ものだぜ。

  シャガはどんどん広がってるように思うのだが、、、。
 後はシャガ見物で整備された道なのだが神社の前の土管がこの前の台風で詰まって、復旧工事がなされている。市茅野の集落に出て、あとはアスファルトの道を大唐内の老富会館まで歩くだけだがこれが結構つらいのよね。

市茅野に出てとりあえず終了。
【今日のじょん】

 11月24日(金)のこと、久々の好天でおおいの芝生広場に行ったんだけど、小浜の方の山は白くなっている。滋賀県境の山々かなあ。じょんはお構いなしでにおいでばっかし。


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胡麻峠から市茅野-1 11/28 

2017-11-28 | 山・峠

2017.11.28(火)快晴

 22号台風(10月22日)の影響がどの程度か調べるため大唐内から胡麻峠、三国岳、坪坂峠を経て市茅野に下ってみた。
2017.11.28(火)快晴
メンバー:小原英明、工忠照之
タイム: 老富会館駐車場発 10:45
     胡麻峠取付着   11:10    発11:15
     胡麻峠着     12:00    発12:10
     三国岳着     12:35
     丸山のコル着   13:15(ミスコースロスタイム10分)
     猪鼻峠着     13:35    発14:00
     市茅野着     14:35(坪坂峠、市茅野谷経由)
     老富会館駐車場着 15:00
 雨男の工忠君が最近妙に晴れ男になってきた。人生にはこういう転機もあるようだ。
 さて久しぶりの大唐内は柿の季節で、美濃柿だろうか、鈴なりである。「おかしいなあ、熊に食われないのかなあ」なんて下世話な会話を交わしながら進む。人が居れば柿の種類を聞くのだけど生憎人に出会わない。

 君尾林道の入り口も通行止めになっていて、復旧工事が行われている。来年開催をともくろんでいたMTBのレースも2,3年無理なようだ。大唐内谷を行く林道も倒木が道をふさぎ、車の通行は不可能だ。問題は谷筋の登山道だ、岸の崩れと倒木が気に掛かる。取り付き付近は確かに増水の痕跡はあるが、さしたる被害はなさそうだ。流木が溜まっているのが気になるが谷筋そのものは水に洗われてきれいになっている。少し行ったところの滝もゴミや汚れが流されてきれいになっている。

倒木が流されて溜まっているが谷筋はきれいになっている。滝もこのとおり。
 胡麻峠に向かう谷筋も歩行が困難になるような箇所はないが徒渉点の案内テープがことごとく流されている。できる限り付けなおしたが水流近くの灌木が流れてしまったことが原因だ。谷筋を離れるとさしたる変化はなく、難なく胡麻峠に到着、その後の尾根筋も問題なし。ナパームの広場と呼んでいる三国岳山頂付近の光景も相変わらずで、主稜線を下っていく。

三国岳山頂付近はナパーム弾が落ちたみたい。
 少し下ったところでやたらテープが巻かれて、「老富→」の表示がいくつかある。あれっこっちやったかなと数分下る。でもやたら下るのと、先ほど越えてきた胡麻峠先の鉄塔が右手に見えるので、このルートは大唐内谷本谷に下るルートと解る。一番最初に来たときと同じ過ちをしてしまった。その時は、「ええいままよ」とばかりに下って大唐内に下りてしまった。今回はそういうわけにいかないので登り返す。つまりこの分岐の表示は「老富→」ではいけないのだ、左に主稜線を行っても行先は老富なんだから、右は「大唐内→」左は「丸山」あるいは「猪鼻峠」と書くべきである。
 左の主稜線を進むが、気になるのは我々が残したテープが一切見当たらないことだ。特に丸山のコルへ下る部分では、左の尾根には下らないよう厳重に行きどまりの表示をしておいたのだが跡形も無い。「なんかの嫌がらせですかねえ」なんて工忠君がぼやく。どうやらテープの結びが弱くて、この前の台風で飛んでしまったのだろうか。結びつける木を配慮して優しく結んでいたのがいけなかったのだろうか。「木の方が丈夫やからしっかり結んどこう」ということでがちがちに結んでおく。
 なつかしい丸山のコルに飛び出る。いったい何度この場所に来ただろうか、上林の山のシーンで一番好きな所なのだ。ここだけはカメラを渡して撮ってもらう、同じポーズの写真が何枚もある。何でって?この地こそ廃村イモリ村の場所だと思うからだ。
  つづく

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