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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

続・胡麻峠~八代峠 9/25

2017-09-25 | 山・峠

2017.9.25(月)快晴

 ルートを少し戻して、655mピークから少し下ったところに舞鶴方面の素晴らしい景色が見られるところがあるので紹介しよう。新しく送電線鉄塔でも建てようというのか、稜線の一角が切り開かれている。稜線上の木が無ければどこでもこの景色がみられるということか。

  さて、話を戻して、直角ピークから先は前回歩いた道なので気楽に行く。あっという間に林道との出合について昼食とする。この場所は直角ピークと631mピークの鞍部という感じだ。
 631mピークを越えて広くなったところに出る。左端には林道が通っているがこれを行くわけにいかない。目印のテープはあちこちにあり、当てにならない。右に踏み跡があるので行ってみる。このルートならうまく捲けるかもしれないと進むが、道はどんどん下り稜線から離れていく。やっぱり登山道ではない、元来た道を戻り斜面に取り付く。ついつい楽な道を選びがちだが、悩んだら稜線伝いに行くべきだ。人生と一緒やね。
 やがて養老山のピークに着くが、ここはピークらしくないところで、表示看板が無ければわからないぐらいだ。養老山から先は以前に歩いた道だが、どうも見覚えがない。上空の送電線を頼りに歩くが、問題は鉄塔だ。鉄塔の敷地に入ると出口がどこかわからない。登山道の上に鉄塔を建てたら登山道の目印はその責任として設置すべきではなかろうか。赤テープを着けておいたが他にも同様の色のテープがあるので、考えものだ。
 やがておなじみの八代峠に出て、やれやれ。老富、市志市野瀬間の開通を祝う。

【今日のじょん】彼岸花も枯れ始めて、今年は秋が早く来てそうだ。


 夏の間お世話になった素麺もいよいよおしまいになってきた。今年は舞鶴の佐藤さんに頂いた砺波の大門素麺(おおかどそうめん)に巡り会って大満足の夏だった。いやあこの素麺、実においしいのだ。これがほんとの素麺だという香りと舌触りで一押しである。

それにIPAという変わったビールが付いていて素麺のフィナーレを飾るには最高!!


  

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胡麻峠~八代峠 9/19  

2017-09-19 | 山・峠

2017.9.19(火)晴れ

 2015年7月、大唐内から三国岳に登ったのがスタートだろうか、毎月の山行を重ね(冬季や雨天は行っていないが)ようやく長谷坂峠(市茅野)から神子峠(市野瀬)のルートを踏破できた。健脚の方なら一日で踏破できそうなルートがなぜそんなに日がかかったのかというと、アプローチも併せて細切れに歩いたこと、ルートが荒れて寸断していること、送電線保守道と森林作業道、登山道の交錯が激しくルートファインディングが困難なこと等である。分岐点や交差点に主稜線までのルートには黄、主稜線には赤のテープを付けてきたが、先ほどの各種のルートのテープが入り乱れ、実に難しい山道となっている。今後この道案内をどうするかという問題はあるが、とりあえずこの間のルートを踏破した記念すべき日である。

メンバー:小原英明、工忠照之

タイム:
千富君尾林道大唐内側出発 11:00
胡麻峠着         11:45  発11:55
第1の鉄塔        12:05
第2の鉄塔        12:20
655mピーク着     12:32  発12:40
林道接触点着       13:10  発12:30
631mピーク      14:06
養老山665.4m    14:22
八代峠          15:00
市志駐車場        15:40

 一台の車を市志駐車場に置いてもう一台で大唐内に向かう。新しい登山靴を履いて登り始めると、お尻がやたらと冷たくなる、なんてことは無い靴を履くときにザックに座り、中のペットボトルが割れてしまったのだ。二本の内一本が割れたのだが、夏場なら命取りだ。やっぱり山行には金属製の水筒が必要と反省する。

胡麻峠の入り口、何度通ったことか。

 胡麻峠への登りは何度も通った道だが、谷筋の荒れ方は激しくもう元の様にはならないかと思う。胡麻峠からの尾根筋は快適な道だ。このルートの歩き方は上空の送電線を目標にすること、特にピークに鉄塔がある場合、稜線が広がって広場状になっているところは次に行く方向がわからなくなる。また、この間でピークを捲いているのは養老山の西の632mのピークのみである。

 さて655mのピークを越え、前回迷ったピークに向かう。予想通り、前回は南から来て東に90度以上曲がらなければならないところを、直進していたようだ。(2017.7.28参照)後になってからわかるというのはなんと、も心許ないことだが、やはり事前にルートを読めるということが大切なことかと思う。今流行のスマホなどGPSを使った山行はすこぶる便利だが、読図の力を養うという意味ではどうも怪しい。
 それともう一つ、この地域で気をつけなければならないのは「火の用心」と書かれたおそらく送電線保守用の道標だ。登山道上に実に堂々と自分の都合よい方向を指して立っている。「火の用心」と書くよりは「保守用立て札」とか「関西電力」とか書くべきであって、実に腹立たしい。身勝手な道標は犯罪である。

前回迷ったのは、655mピークの西のピーク、主稜線は90度以上曲がっている。写真は八代峠方面から見たもの、工忠君の指しているのが正解。前回はそのまま真っ直ぐ行ってしまった。目印テープや保守道のプラ階段にだまされた。左に見える道標は、下のものは正しいが上のものはとんでもない方向を指している。
つづく

 

 

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市志から菅坂峠 11/19

2016-11-19 | 山・峠

2016.11.19(土)雨、曇り

 山行記録 2016.11.18(金)快晴

メンバー:小原英明、工忠照幸
行程   
市志駐車場発 11:45
林道分岐   12:20     出発 12:25
八代峠着   12:40     出発 12:55
舞鶴要塞石柱発見
眺めのよいピーク(510m)13:15
引き返し地点 13:53
八代峠手前昼食14:20~14:40
市志駐車場着 15:20

 今回の目的は八代峠から菅坂峠の尾根道ルートを確定することである。お互い仕事のために出発が遅れる。まあ行けるところまで行って、時間になれば引き返そうと気楽に出発する。いつもの工忠天気は見事に覆され、快晴の秋空、山々の紅葉も最盛期だ。五泉町辻のあたりでこれから向かう稜線の写真を撮る。

正面が今日歩くルート
 観光地の紅葉のように赤い色は無く、黄色と茶色の紅葉だけど、これが自然本来の姿かと嬉しくなる。紅葉では無くて黄葉でいいのだ。市志の銀杏も最盛期で、秋原さん家の銀杏はログハウスと相まって素晴らしい景色だ。手前の畑のワイヤメッシュが無ければ綾部の宣伝ポスターにもなるなあと話し合う。
 さて八代峠へのとりつきなのだが、前回報告では(10.25)二つ目の橋と言っているが、実は三つ目の橋を過ぎたところと言うのが正しい。森林組合の人に一つ目の橋のところで、「二つ目の橋を云々」と聞いたのでそのまま書いてしまったようだ。林道に入って3っつ目の橋を過ぎ、左手に堰堤が見えるところが分岐である。

黄色と緑とログのコントラストがいい(左)、おっと熊の糞(中)、堰堤の見えるところがとりつき(右)

 この分岐からは右の尾根を直接登っていくもので、これは送電線の作業道と思われる。国土地理院地図に載せられた本来の道は谷に沿って登って行き、左手から峠にたどり着くものだが、現在の道は尾根を辿り、444mのピークを右から捲いて、右手から峠に着いているようである。堰堤から谷筋を探してみたが道らしいものは見当たらないようだ。残念だけど歩きやすい尾根道ルートを正式ルートとして道標を作りたい。
 峠で温かいコーヒーを飲む、山で飲むコーヒーは実においしい。
 峠からの道も送電線作業道のようで実に歩きやすい。と、その路上に見慣れた石柱が倒れている。例の舞鶴要塞の石柱だ。「SM3?Z 舞鶴要塞第二地帯標」と書かれている。裏面の表記を確かめようと持ち上げてみるがびくともしない。どこにあったか知らないが、市志の稲荷社の石段に使うべくあの石柱を運んだ市志の人々の苦労が忍ばれる。さてこの位置だが、すぐ横に送電線の鉄塔があるので、峠から最初の小ピーク(480m)の先と思われる。

峠からの道はプロムナード、舞鶴要塞またも発見
 歩きやすい尾根道をどんどん行くとやがて南面が急に開けたピークに出る。512mのピークだろうか、作業用の切り開きとは思われるが、ずいぶん見事な景色だ。君尾山をめぐる稜線、シデ山をめぐる稜線が墨絵のようになって望める。

しばし眺めを楽しむが、先が不安なので出発する。このあたりから送電線が稜線を離れるので、作業道が期待できない。しっかり地図を頭に入れて、北西方向に歩いて行く。稜線上は歩きやすいが、はっきりした道は無い、何度か支尾根に下っては登り返す。この方面に来はじめて初めてテープを取り出す。他にも作業用の目印などが入り乱れている。赤のビニールテープと紫の帯テープがどうやら登山者の目印のようだ。秋の山は木々の間から周囲の景色が見えて位置がわかりやすい。与保呂の水源地や養老山がよく見える。


その後はこんな感じ、灌木で気分はいい

 菅坂峠まで1/3ぐらいのところでタイムアウトとなった。明るい内に菅坂峠に着くのは無理と判断し、引き返すことにする。八代峠のすぐ手前、目途のついたところで遅い昼食をとり、早々に元来た道を辿る。秋の山行は昼頃出発していては難しい。次回は朝に出発して、完走目指したい。

【今日のじょん】夕べは強風が吹き荒れたみたいで、怖がってゴミ箱掘り出していた。桐の落ち葉もこの通り、慌てたら左手がアイタタタ

 

 



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続・市志から養老山(2) 11/1

2016-11-01 | 山・峠

2016.11.1(火)雨
 訂正峠名
 今回の山行記録を書きながら妙に違和感を感じていたことがある。「この峠与保呂峠と言ったかなあ?」ということである。ガイドブックにも地図にも与保呂峠とは記されていない、ネタを明かせば、ネット上の「あやべの峠一覧」から安易にこの峠名を使用してしまった。あらためて調べてみると、このブログでも何度も使っている峠名がある。八代峠であり、その根拠は寛政11年の丹波国大絵図である。いったい八代とはなんぞやと言うことになるのだが、与保呂の小字に矢城というのがある。峠名というのは越えていってその先にある土地の名前を付けるものである。市茅野から若狭に向かう峠が坪坂峠と言うがごときである。さすれば与保呂峠というのも間違いではなく、実際に使われていた峠名なのかもしれないが、由緒正しい八代峠をわたしは使いたい。といっても八代峠は上林側の呼び名で、与保呂側では上林峠、市志峠などと呼んでいたに違いない。 
 さて八代峠を養老山に向かって歩き始める。養老山と言うのはおそらく与保呂山の訛化 だろう。尾根道はきれいで迷うことは無い。注意するのは送電線の鉄塔をくぐるときぐらいだ。ところが途中から与保呂側にどんどん下っていくところがある。気持ちとしては稜線を忠実に辿っていると思っているので、不気味な感じがする。それでも地図を見ることもなく進んで行く。するとあるところで稜線に戻った、何かのピークを捲いたのだと思われるが、下手をするとそれが養老山かもしれない。もしそうだとするとやがて胡麻峠に飛び出すはずだ。それはそれでいいかと歩いていると養老山の標識のあるピークに辿りついた。

捲いたのは632mのピークだった。小休止の後下山にかかる。航空写真で見ると、養老山の直下に届いている林道がある。これを下れば市志から八代峠、養老山を巡る半にコースのいいルートが完成する。少し胡麻峠方面にゆくと何面すぐのところに林道が見える。ところがそこへ下る道が見つからない。やむなく矢代峠方面に少し戻ったあたりから、南に下りている切り開きを下ってみる。うまくすれば林道に出会うかなと思ったのだが、林道はそこまで来ていなかったようだ。来た道を登り返して、八代峠から下るかこの尾根をとことん下ってみるかの二つだ。工忠くんに聞くともちろん尾根を下ってみたいとのこと。幸い伐採道は続いていそうだし、地図を見れば最悪右手の沢に下りればルートがありそうだ。この尾根は養老山から南に下っている尾根で、道は登山道でもなく作業道でもなく、境界確認のために造られた切り開きのようである。そのうち緩くなると思いつつ下っていくがいつまでたっても急峻で、滑って転びながら下りていく。境界杭があり迷うことはないが、登る気はしない尾根だしエスケープルートとしても余計危険なルートである。上林トレールとしては採用しないルートと決定、案内テープは付けていない。いやと言うほど下って林道木和田(きわだ)支線に飛び出た。

これが尾根の末端だが、下ってこなければわからない。

本線とはすぐのところで、林道を20分ほど歩いてスイセンの広場に出、遅い昼食をとる。駐車場までは15分、2時までに帰宅できたので、綾部温泉で汗を流す。おわり

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市志から養老山 10/25

2016-10-25 | 山・峠

2016.10.25(火)曇り

2016.10.25(火)養老山(665m)曇り
 メンバー 小原英明、工忠照幸
 タイム
 市志駐車場出発  9:10
 林道一つ目の橋  9:30    森林組合の人に会う
 林道分岐点    9:45 左の堰堤へ
 与保呂峠着   10:05 
 与保呂峠発   10:15
 養老山着    11:00
   養老山発         11:15  養老山南西の尾根を下る
 林道出合    12:10
 林道出合発   12:15
 スイセン広場着 12:35  昼食
 スイセン広場発   13:00
 市志駐車場着     13:15
 参考 13、970歩
 養老山から胡麻峠を巡り大唐内に下りる予定をしていたのだが、夕刻に用事ができたので急遽養老山往復とする。相変わらずの工忠天気でアプローチの段階でパラパラ来る。今日は雨の覚悟をしていたのだが、幸いなんとか持ったのだった。
 市志の駐車場に車を置き、歩き始める。秋原さんのログハウスの横の林道を行くがずいぶん歩きやすい。橋を渡ったところで上から作業服の人がやってきた。養老山に行く旨伝えると、親切に詳しいルートを教えてくれた。森林組合の方だそうで道理で詳しい、実際最初の分岐など聞かないとわからなかっただろう。
こういう感じの林道を二つ目の橋のところに分岐がある。

 その分岐は白杭があり、左の堰堤に向かって行く。道は尾根をどんどん登っていく。植林の道だが整備がよくされていて歩きやすく、迷うことはない。分岐から20分、ふうふういいながら登ると、ぽこっと与保呂峠に出る。
 
与保呂峠、与保呂側、菅坂峠方面
 市志から1時間ほどで登れるよい峠である。胡麻峠、菅坂峠と並んで上林と東舞鶴を結ぶ、重要な峠道だったのだ。菅坂峠に車道が開通してすっかり使われなくなったのだが、今でもこれらの峠を歩いて越えた方は大勢おられてようだ。峠に地蔵様がないのは寂しいが、肩荷を掛けて峠を越えた古の人々の息吹が感じられる感じのいい峠である。ガイドブック(京都府の山)には与保呂側が荒れているように書かれているが、確かに峠から覗くと人の歩いていないような雰囲気だ。稜線は胡麻峠方面、菅坂峠方面ともきれいな感じで心強い。
つづく
【今日のじょん】夜中にえらいじょんが吠えた。尋常じゃないのはわかっているが照らしてみても何もいない。あの不気味な鳴き声と物音はしっかりわかるのだが、、、、。朝になってじょんの嗅ぎ回るところを見ると、アナグマがベランダに来たことがわかる。
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大栗峠考(39) 6/6

2016-06-06 | 山・峠

2016.6.6(月)晴れ 大栗という地名について-4 大栗峠考(38)は2016.5.30

 もう一つの疑問は志古田道の崩壊現場から少し行ったところに石垣の跡があることだ。斜面をトラバースする地点で見落とすほどの小さな石垣だ。そして谷を渡ったところの急登にも石垣跡は残っている。

志古田道崩壊地の先のトラバース地点、峠直下の谷に下りるジグザグ地点、いずれも石垣の跡が見える。
石垣は他のルート(山田道、弓削道、上粟野に下る道)には記憶が無いのでずいぶん珍しいものと思える。志古田道が重要視され地元の住人によって丁寧に補修されていたとも考えられるが、地滑り、土砂崩れのあとの補修なのかもしれない。もしそうだとすると古くから志古田道は崩壊を繰り返してきたこととなる。そう考えると大栗はやはり崩壊地名なのかということになるが、崩壊があるからこそ谷はガレで埋まり、谷筋には大岩が転がっているという風にも考えられる。集落の奥、かつての取水地のあたりの林の中にも大きな岩が転がっているのが見える。これらの大岩が大栗の語源となっているという考え方も無視できない。やはりこの地の大栗も崩壊地と大岩の両論併記とすべきだろう。終わり

【今日のじょん】先日シャンプーの際にサン君に会いに行ってきた。留守番しているところだったのだが、ずいぶんと大人っぽくなってきた。じょんとうまくやれるかなと不安だったが、それなりに仲良しできそーだ。

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大栗峠考(38) 5/30

2016-05-30 | 山・峠

2016.5.30(月)雨

 上林の古墳でここまで川に近い古墳は無いようだ。この地は今まで荒れ地のイメージがあったのだが実は安全で地味豊かな快適居住空間だったのだろう。
そうするとこの忠の大栗の本当の意味は何なのだろう。各論併記ということになるが、もう一つの候補は地滑り地帯を含んだ支流が運び出した岩石ではないだろうか。上林川をよく観察するとこの大栗から下流には大きな岩石がごろごろしていることに気づく。上流域の河原が砂や泥に対して下流域では岩盤であるせいかもしれないが、支流の谷底を見ると多くの岩石が流れ出したことは確かだ。須呂橋から下流を見たときさほど大きな岩石は見られないが、大水で流れたとも考えられる。クリが石を示すことは栗石(くりいし・こぶし大の石)という言葉からもわかる。海の暗礁をグリという、大島の赤礁(あかぐり)などはそのとおりだが、これもクリから来ているのかもしれない。とにかく大栗が大きな岩石を示すことは想像できる。

上林川を覗くと大岩がごろごろしている。(佃町)
 さて大栗峠の大栗に戻ろう。道というものは現在のように、何月何日に工事が終了し開通というわけにはいかない。上林から和知に向かう最短の道として(その先は京となるのだが)志古田道は何十年、何百年という歳月をかけて完成されたものだろう。大栗峠という峠名は小字名の大栗からつけられたのは間違いないだろうが、大栗地名が先か峠道が先かはわからない。地名も峠道も自然と出来上がったとするのが妥当だろう。しかし現在見られるあの大崩壊が過去にあったなら、そこに道を作るだろうかという疑問が残る。もっと端的に言えば、大栗が崩壊を表す地名だったとしたら、そこに道を通すかと言うことである。

大栗の大崩壊とその下にある街道沿いの大岩
 大規模な崩壊のすぐ下に大岩がある。志古田道が谷筋を離れて右岸の尾根に取り付こうかというところである。目印にもなるし、これから水の無い急登になる地点でもあるから人々の格好の休憩所となったことだろう。この大岩が大栗地名の由来ではないかという気もする。そうすると志古田道ができあがる過程で崩壊などは無く、京への最短路として活躍したことと想像できる。
 ところがそう話は簡単ではなく、志古田道について二つの疑問がわいてきた。一つは明治24年陸地測量部地形図にある鳥垣との境の尾根を登る道の存在である。

陸地測量部地形図
この道は現在の地形図にも238mの地点から尾根にたどり着く半分までが破線で示されている。陸地測量部の地形図では尾根を登り切りシデ山からの主稜線に出合っている。この道が何を示すかと考えたとき、小栗峠に向かう谷筋の街道が崩壊した際の迂回路なのではないだろうか。効率的な志古田道と比べるとこの道は遠回りで厳しい、しかし尾根道だけに崩壊の危険性は少ないと思われる。谷筋の志古田道から尾根筋の弓削道に主役を奪われた裏には、田辺(舞鶴)からの利便性だけでなく、大栗の崩壊があったのかもしれない。つづく

【今日のじょん】何を見てるのでしょうか?


でした~

 

 

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大栗峠考(37) 5/29

2016-05-29 | 山・峠

2016.5.29(日)曇り、雨 大栗という地名について-2

 上林川が建田三町(忠、佃、武吉)をめぐるところは狭隘になっており、渓谷状になっている。流れが阻害されることは考えられるが、大栗付近でさほど狭くなっているわけではなく、地形だけでみれば、大水の際にこの地点で水がせき止められて逆流するというのは考えにくい。ただ須呂橋を見ると脇に旧の橋脚の基礎が残されており、28水以前にも橋があったことがうかがえる。この橋に流木や廃材などが引っかかり水をせき止めたということは容易に想像できる。大栗という地名が付いた頃に橋が存在しただろうか、おそらく橋は存在しなかったと思う。従って橋によってせき止められ、逆流した水がこの地名の語源となることはないと考えられる。

須呂橋から上流を見る、流域は広い。

 須呂橋を渡って谷や山の様子をうかがっていると農作業をしている方がおられた、数年前に忠に来られた小沼さんだ。そして貴重な情報を聞くことができた。28水の後堤防や橋の改修が行われたのだが、須呂橋の下流左岸は現在よりも川に張り出していて、田んぼ二枚分があったと言うことだ。もちろん小沼さんは後ほど越してこられた方だから、村の人に聞かれた話に違いない。その張り出した部分が28水で荒れてしまったかあるいは水の流れをよくするためにか、その部分の土砂を広げ積み上げ、現在の河岸となっているそうだ。28水までは川幅が狭かったわけで、橋によるせき止めもあっただろうが、地形的にもせき止められる可能性があったと思われる。橋が存在しない時代にもせき止められた水が渦巻いて逆流していたとすれば、それが大栗地名の所以となる可能性も考えられる。

須呂橋から下流を見る、流域は広いがかつては左の土手が張り出して田んぼになっていたという。
 須呂橋を渡ったところに圃場整備の記念石碑があり、そこに「堂ノ下、フノリ」という地名が刻まれている。堂ノ下はともかくフノリというのは変わった地名である。付近のスロ、ビロク谷などと共にかなり古い地名のようだ。いずれも難解な地名だが、スロのスは洲かな、フノリ=生法=草の生い茂った斜面かななどと考えてみた。しかし本当は何かわからない。

 そろそろ引き上げようかというとき、ネットの囲われた一画に土盛りを見つける、石組みらしきものも見えており、どうやら古墳らしい。古墳時代のものかと思うが、すぐ近所の河牟奈備神社のものは弥生時代というから、古い可能性もある。後日調べてみることとして、上林川の氾濫や支流の土石流など危険地帯かと思ったこの地が実はそうではなかったということが実証される。古墳の周囲にはおそらく人々が生活をしていただろうし、現に古墳は流されもせず埋まることもなく存在しているということだ。つづく

古墳は二基あるようだ。
【作業日誌】芝生広場芝張りの続き。前回購入の野芝は時期的に入荷できず、他の業者から1平米分購入、市販の姫高麗芝と混植する。野芝は程度がよかったが、高麗芝はかなり痛んでおりどうなることやら。残りは高麗芝で埋めようと思うが、時期的に購入が難しく、秋になるかもしれない。

【今日のじょん】先日久しぶりにげんたの妹、こむぎちゃんが来じょん。

 

 

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大栗峠考(36) 5/26

2016-05-26 | 山・峠

2016.5.26(木)曇り  大栗峠考(35)は2012.2.8
 大栗という地名について-1

 実に4年ぶりに大栗峠について記すことになる。先日雨読の記事を書くため忠町の大栗を再度訪問し、新たな情報を入手したので紹介すると共に、栗=崩壊地とした自説に疑問を感じたのでその事についても報告したい。
 大栗峠(おぐりとうげ)の大栗の由来は志古田の小字名大栗による。峠名の多くは現地や麓の地名がそのまま使われる。胡麻峠、猪鼻峠、坪坂峠、長谷坂峠などみんなそうである。大栗を通っているから大栗峠であり、その大栗の由来はというと、「刳(く)る、抉(えぐ)る」の転訛したもので、地滑りや地崩れなどの崩壊地とされている。あの強烈な地滑りの痕を見たとき、なるほどそのとおりと思ったものだが、忠の大栗を観察したとき果たしてそれでよいのかという思いにかられたわけである。つまりあの崩壊は新しいもので大栗の地名が産まれた頃の崩壊では無いこと、崩壊しやすい地形であったなら、なぜその地に主要街道を設定したかという疑問である。

大栗峠にむかう志古田道の崩壊はすさまじい。
 忠町の大栗は忠町の集落から1Kmほど下流の須呂橋から上流左岸の地域である。

上林川左岸の川沿い一帯が大栗、橋は須呂橋という。
 栗地名のもう一つの意味は、曲流(くる)、つまり河川の流域で蛇行して流れが速くなっている地域という意味がある。この意味が当てはまるのかなと考えたが、上林川本流がその地点で大きく蛇行している訳でもない。むしろその前後数キロ内に極端な蛇行が見られる。それは上林断層に沿って直線的に流れてきた本流が中山の強固な岩盤を浸食することができず、南流してU字型に流れているためである。従ってこの大栗を曲流(くる)語源とするには無理がある。

睦合町から見た上林川、正面の中山に遮られ、流れはおおきく南行(画面左へ)する。太古は右に旋回し中山の裾野を流れていたと想像できる。
 ただ、南東に走る支流(谷の名前は確認できていない、地域は深山というが、地名辞典ではビロク谷という地名がある)の上流は地滑り地帯で、大きな崩壊痕が見られる。だからといってその支流の合流する付近を大栗というのは不自然である。崩壊地点と大栗とはずいぶん離れていて、大栗周辺が崩壊しているわけではないからだ。

右の草むらが支流、左に林道が走っており深山と呼ばれている。この奥に大規模な崩壊がある。
 そんなとき忠町出身の温井さんから28水(昭和28年台風13号による大水害を上林ではこう呼んでいる)をはじめとする水害の状況をお聞きすることができた。増水し始めると、須呂橋の付近で流れがせき止められ、渦を巻いて逆流し左岸忠集落の下に当たる家々が浸水するというものだ。つまり濁流が渦を巻く地点が大栗に当たるわけである。この渦が両岸を削り取って崩壊を招いたとしたら大栗の地名はまさに刳る・抉るという意味となるのだが、両岸ともそのように削り取られた様子は見られないのである。この渦巻きそのものがクルと表現されたのではと考えたのだが、思いつくのは「クルクルまわる」という表現があるのみで、渦巻きがクルと表現されるという根拠は見つからない。つづく

【今日のじょん】

チワワのコタロー君9才、テンマル君7才。同じ日こころ君が来じょんし、「さっきのは息子です」だって。

ということは、、、こころ君とはいとこだかはとこだか????

じょんはいつものように「出してくれ~」 
 


 
 

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光野峠(3) 4/17

2016-04-16 | 山・峠

2016.4.17(日)晴れ

 光野峠を市志側に下りたところが市志の皆さんががんばっておられるスイセン畑だ。新聞や写真で見聞きしたことはあるが実物を見るのは初めてである。聞きしに勝る光景に感動する。市志の集落の奥にこんなにすばらしいところがあるとは気づかなかった。集落の所は何となく窮屈な感じがするのだけどここは開けていて開放感がある。一面のスイセンと桜が見頃で何とも贅沢な景色だ。見晴らしのよい東屋があり、女子トイレも新設されたという。是非訪ねてみてほしい。

 上林には胡麻峠、小栗峠、洞峠など著名な峠がたくさんあるのだが、そのほとんどは他国、他郡へ抜けるもので上林内で村と村をつなぐ峠は珍しい。もちろん村と村をつなぐ山道は沢山あり、日常に使用されていたのだろう。この光野峠は単に市志と光野をつなぐ峠ではなく、田辺(舞鶴)から洞峠を通って京に向かういわゆる京街道の一部分ではないかと言う気がする。田辺城下は西舞鶴だから、岸谷から遊里の木住峠(きずみとうげ)が本道だろうが、加佐郡東部(東舞鶴)の志楽村、倉梯村方面からは菅坂峠と共に与保呂から市志へ抜ける八代峠が利用され、その際に光野峠から草壁、洞峠というルートが考えられる。寛政11年の丹波国大絵図にはこれらの峠の内光野峠の記載は無いが、明治22年の陸地測量部の地図には他の峠道と同様の扱いで記載されている。

光野峠を振り返る。
 光野峠を市志側に下りたところ林道の脇に緑っぽい岩が露出している、一面が鏡のように平らで光っている。色合いといい形状といい、これは蛇紋岩に違いない。念のために欠片を拾って持ち帰る。蛇紋岩なら強い磁性があるからだ。磁石を当ててみるとやはり強い磁性があり、蛇紋岩であることが確定できよう。地質図を調べてみると、このあたりかなり大規模な蛇紋岩地帯となっている。実はこれはわたしにとって重要な発見である。わたしの峠越し文化論では若狭や加佐の沿岸に居住していた古代人、海人族が由良川など大きな川に沿って移住していく本体部分とは別に関屋川や与保呂川など小さな川から峠(峠は人が通い始めて出来るものだからこの場合は山の鞍部というべきだろう)を越えて山間の狭隘な村に居住した一部の民があると考える。前者は豊な耕作地を求めての移住と考えるのが妥当かと思うが、後者は一体何を求めたのだろう。それは山林資源と鉱物資源ではないかと考えている。

林道の脇の蛇紋岩壁、上部は露頭と思われる。
 鉱物資源、おそらくこの地域では銅、鉄、金あるいは水銀かと思うのだが、その探索は河川、谷の岩石が主流であると思われる。もちろん鉱物の露頭を見つけるのが最も確実な方法だろうが、植生、地形、地名、伝承などあらゆる要素が駆使されるのだろう。指標となる岩石のうち、蛇紋岩が有力な候補となっていると思うのはわたしだけだろうか。
 余談ではあるが、私が北海道で仄聞したことである。蛇紋岩地帯にはクロームが存在する可能性のあることは地質的に定説であるが、生半可な知識を有していた人が、多量の蛇紋岩そのものを鉄道貨車で、数台、クローム精錬所に運んだという。しかし、地球を形成する岩石蛇紋岩は大量に存在する。蛇紋岩すなわちクロームを必ず含有するという思考は、短絡的で、科学的選択のようで極めて非科学的思考である。
 これは「真言密教と古代金属文化」東方出版の中の本城清一氏の文であり、本城氏は採鉱学者であり実際に三菱鉱業で採鉱の現場で指揮をとっておられた方である。この文では蛇紋岩イコール鉱石ということを否定しておられるが、古代の鉱脈探索に蛇紋岩が一つの候補であったと思わせるものがある。蛇紋岩は上林では市志、大唐内で発見している。光野町では奥ノ谷ではないが、近世に金鉱の試掘がなされたという記録がある、それが何を根拠になされたたのかと考えるとき、わたしはこの蛇紋岩のかけらに思いをはせるのである。おわり

 

 

 

 

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光野峠(2) 4/16

2016-04-16 | 山・峠

2016.4.16(土)晴れ

「谷の奥にとっても風情のある古民家があって、おばあちゃんが一人で住んでらっしゃるのよ」と蕎麦土筆庵の井上さんがおっしゃっていた。もう空き家になって何年も経つのだが、古民家好きにはたまらない趣のある家屋である。主を無くした家ではあるがしだれ桜が何事も無かったかのように咲き誇っており余計に寂しくなる。

 家の前で準備をし記念撮影の後出発する。すぐに二股となり左股に進むが、右股が奥ノ谷の本流でそちらにも道が続いている。

これが右又(本谷)かと思うのだが水流は少ない。
もうひとつ谷を越えると道は谷筋から離れて斜面を登って行く。所々折り返して登っており、息が上がるようなところもある。昨年に光野の方々で整備がなされたので倒木などもなく歩きやすい。植林もあるのだが概ね闊葉樹の林で南向きで明るいこともあって落ち葉を踏みながら登っていくのはとても心地よい。振り向くと頭巾山方面の山々が望めるのだが完全に見晴らしの良いところは無い。幹の間から眺めるのも一興である。

左:谷筋から離れて斜面を登ってゆく。
中:こんな感じの山道は楽しい。
右:木々の間から頭巾山方面の山並みが望める。
 空が薄くなって、ユリ道となってきたら峠は近い。そして峠は君尾山林道が横切って、風情も何もあったもんじゃ無い。せめて道端にお地蔵さまでも残っておればと思うのだがそれも無い。光野側の道中がとても心地よい道だっただけに峠の光景は哀しい。

ユリ道になってくると峠は近い、殺風景な君尾山林道が峠である。右の看板の所から下る。
 峠で休憩の後市志側に降りて行く。北面の谷筋で植林のため暗い感じがする。数年前の大雪による倒木で歩きにくいのだが、元々の道は巾も広く、しっかり整備もされていたのだろう。野田泉光院が難儀したのはこのあたりかなと想像しつつ降りて行く。
 またいだりくぐったりして進むとやがて道は左岸に移っていく。その後も倒木漕ぎに終始し、やがて明るく開けた里が見えてくる。そしてどこでもそうであるように林道に飛びでることとなる。

左:またいだりくぐったり
中:やがて左岸に渡る
右:この辺りミツマタノ群生が、、、

林道に出て下っていくとスイセンのお花畑が見えてくる。
つづく

【今日のじょん】うれしいときにするんデス。きょーとぎんこう。


【作業日誌】4月10日のことなんだけど、カナメの剪定をした。昨夏サボったのでもう大変。

今日の作業はタンポポ絶滅作戦4日目、芝張り替え準備3日目。

皆さん、写真はクリックすると大きくなりマスヨ。

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光野峠 4/13

2016-04-13 | 山・峠

2016.4.13(水)雨

 山行日 2016.4.12(火)快晴

 光野町奥ノ谷林道終点出発 13:35
 光野峠着         14:05
 光野峠発         14:18
 市志林道終点着      14:43

 メンバー 市志から阪田さんら3名、光野から福井さんら3名、いきいきセンターの水谷さんとわたしの8名

 「・・・・(二月)三日晴天・・・・畠口ト云谷ニ入ル 托鉢夕方ニ成ル故宿求ム 又江戸浅草ノ大社(護符配り)ニ出合 一所ニ宿ス 虫村 太郎衛門ト云宅  四日晴天 畠口谷奥迄行タル所石場(市志村の誤記)ト云村ヨリ峠アリ 本谷ト云ニ越ル所也 上下十七八丁上リ九合目ヨリ雪ノ上行事一丁斗リ 絶頂ヨリ下ル処十五六間ノ間雪斗リニテ積事三尺斗 人ノ足跡ヲ便ニシテ行キ少シニテモ踏違ヘルト雪中ノ谷ニ落入ル事深サシレズ・・・・念佛三昧ニテ通レリ 以後雪中ニ峠ナド越ユベカラズ」(修験者野田泉光院・日本九峯修行日記・上林風土記より)

 上林風土記では上林川支流の畠口谷(畑口川)の説明をすべくこの文を掲載されているが、なんとも意味深い文である。文化12年(1815年)のことである。この文に出てくる峠はいかなる峠なのか、市志を出て小中の近くに下り、上下十七八丁(2Km弱か)というから光野峠としてよいだろう。畠口谷奥というから石場村というのは市志でよいだろうし、誤記だとすると石賜と書くつもりだったのかと勘ぐってみる。本谷に越えるという本谷とは上林川本流のことを言うのだろうか。光野側の谷は奥ノ谷と呼ばれているし、周囲に本谷という地名は見当たらないようだ。本谷と呼んでいるのは虫か市志の人物と思われるので、上林川本流のことをさしているとしていいのだろう。それにしても三尺の積雪の峠を当時の装備で越えたのはすごいと思うのだが、踏み跡が既にあったのは村の人々は平気で越えていたのかもしれない。そうでなければ虫村や市志村の人は彼らの行動を止めにかかっただろうから。
 この文を読んだのはもう6,7年前なのだが、なんとも心惹かれる峠でいつか歩いてみたいと思っていた。ところが誰も通らずに荒れ果てて、消滅してるんじゃないかとさえ思っていた。光野の福井さんに「光野峠を整備してるんやで」と聞いたときには、早速案内してくださいとお願いして今回の山行と相成ったのである。
 市志に車を置いて光野に向かうこととなったのだが、驚いたのはもうどこもかしこも終わっている桜が満開だと言うことだ。ゴールデンウィークに信州に行ったら満開の桜に感激するのと同じような気分だ。つづく


市志の桜一週間誤差があるかな。
【今日のじょん】4月11日(月)花冷えというのかとても寒い日に来じょんドッグがあった。ミニチュアピンシャ-6才のとらのすけ君。
なんでも南国マレーシアから帰ってきたところだと。いやーさむいやろなーと思うのだが、ターフが気に入ったようで元気に走り回ってくれた。


じょんは出してくれ~ちゅーてんにゃけど。
 

 

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続々・青葉山縦走 11/16

2014-11-16 | 山・峠

2014.11.16(日)晴 金閣炎上

 1950年に放火によって金閣寺が焼失したことはご存じのことと思うが、と書くところだが実はあまり知られていないことかもしれない。金閣寺は誰でも知っているがこの事件についてはあまり知られていないようである。わたし自身もこの事件を知ったのはそう古いことでは無い。かといっていつ、何で知ったのか解らない。三島由紀夫の「金閣寺」は知識として知っていただけで、読んだことはない。
 水上先生の「金閣炎上」を知ったのは実に上林に越してきてからである。水上先生もこの事件について書いておられるのだという不思議な気がしたのだが、書かれた動機のひとつが、高野の分教場に勤めているときに大それた事件を起こした修行僧、林養賢の少年期に会っているということである。
 先日渡辺淳先生にお会いしたとき、「高野の分教場はまだ残っているのでしょうか、水上先生が林少年に会ったというのは本当のことだったのでしょうか」と訪ねてみた。
 「分教場は随分傷んでるが残ってますよ、先生が会ったというのはそう書いておられるのだから事実でしょう」これを聞いて高野分教場に何としても行ってみたいという気になった。実は今回山行の目的の大部分はここだったのだ。
 青葉山東峰から眼下に分教場を見つけたとき、一挙に6,70年の時代が遡り、そこで国民服で教鞭を執っている先生と着物にわら草履の子供達の姿が目に浮かんだ。その建物は赤い屋根といかにも校舎という感じの建物だった。

 青葉山を下ると一目散に分教場、旧高野分校跡を訪ねる。丘を越えてたどり着いたそこは蔦や蔓が絡んで屋根まで這い上り、屋根は一部がめくれあがり、板壁は腐ったところがトタンに変わっていた。しかしそれでも何十年という風雪に耐えよくぞ残っていてくれたかと思う。中を覗くと農機具小屋となっていたが、教場を思わせる部屋も残っていた。
 教場の裏で水上先生と林少年が出会ったという風に思っていたが、後日知ったのは、出会ったのは青葉山の裏ということだ。となると一体どこで、どのような理由で出会ったのだろうかとても気にかかる。

青葉山の裏、内浦湾
まず「金閣炎上」を読んでみることにした。読めばその辺りの シチュエーションは理解できるだろう。そしてその場所が解ったら是非とも行ってみたい。青葉山の裏というからには、青葉山の北側になるのだろう、高野教場は南麓にあるのだから。
 青葉山の裏とはどんなところだろう、そこから青葉山はどのように見えるのだろう。思い出せば青葉山の裏、県道21号線は自転車の練習で何度も走っていた。舞から塩汲峠を越え難波江から田ノ浦に至るコースはアップダウンにとんだいい練習コースである。ただ競争することが目的なので、周りの景色も青葉山の様相も網膜に映っても記憶に残ることは無かった。水上先生と林少年の出会いの場所が解ったら、そこへ自転車で行ってみよう。自転車なら景色も季節も感じることが出来るし、青葉山だってじっくり眺めることも出来るから。

林少年の生まれは左上にかすんでいる正面崎の向こうにある成生(なりう)である。
おわり

【今日のじょん】いくぶん軟便はつづいているが、食欲も戻ってきた。今日は久々の好天で舞ちゃん、サリーちゃん、ナナちゃん、ゆきちゃんと女の子ばかし来じょんしたんだが、自重して遊べなかった。

舞ちゃんは人なつっこいのだ。

おしゃまなサリーちゃんも田んぼや畑を走り回ってすっかり田舎犬になったぞ。

コメント (1)
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続・青葉山縦走 11/15

2014-11-15 | 山・峠

2014.11.15(土)曇り、雨

 青葉山西峰のピークは祠の後ろの岩山である。ロープを伝って登ると若狭湾の雄大な景色が目に入る。ヤーダさんの大嫌いな高浜原発もしっかり見える。そのわりには頂上の記念写真は楽しそうに写っている。

 西峰から東峰までの700mの尾根歩きは楽しい。ナイフリッジ状のエッジや鎖場、沖縄の斎場御嶽(せーふぁーうたき)の三角岩を思わせる大師洞など変化に富んでいる。やがて東峰(693m)に着き、少し降りたところの休憩ベンチで昼食をとる。

西峰を振り返る、大師洞
 ここに奇妙な茶釜のような釜がある。よく見ると〒マークが書かれていて、郵政省の文字がある。郵便局で使われていた備品なんだろうが、これを持ち上った人も凄いが、さて一体何のためにあるのかも不思議である。西峰の避難小屋にでもあれば意味があろうというものだが、、、。

 さてこのベンチの広場から南側には高野の集落が見下ろされる。その集落の右方に青郷小学校高野分校の校舎が見える。集落との中間に古い校舎らしき建物が見え、これこそが旧高野分校、水上勉が教鞭を執った高野分教場の校舎だろう。今日の目的のひとつは実はこの校舎なのである。


 持参のコーヒーなどを飲んでゆっくりし、下りにかかる。案内図には馬の背という岩場があると書いてあり、こういう名の付くところはたいしたことも無いと思っていたがなかなかのルートで、積雪期などは結構難所になるだろう。もっとも自信の無い方には捲き道もあるのでご安心を。

 金比羅さんの広場や展望台を過ぎ植林の森となってくる。やがて中山と高野の分岐点に出会う。道は中山方面の方が良く歩かれていそうだが、もちろん高野方面にとる。植林の中の陰気な道をだらだら下ると、民家の脇の道に出て、ここが高野登山道入口と言うことだ。

展望台から若狭湾
高野道分岐
高野登山道口
 分教場への道を尋ねて、村の中の道を行く。やがて東峰から眺めていた赤い屋根の分教場に着く。水上先生と分教場のことは後ほど書くことにして、先を急ごう。
 分教場から青郷小学校高野分校の前を通って今寺に急ぐ。ヤーダさんは足の疲れのためだろうか、「なんでこんな坂のところに小学校があるんだ」なんていっている。都会育ちの人にはそのようにうつるのだろう、田舎では坂の上にあるのは一般的だし、そこまで4キロ、5キロと歩いて通っていたのだ。しかし散策マップをよく見ると、どうやら分校の道は遠回りだったようである。上成の大岩を通れば少しは短かったようだ。
 今寺の坂を熊野神社まで登ってゆく。南向きののどかな集落なんだが、空き家が目立つ。神社からは水平に近い道を松尾寺に向かうが、ところどころ古いお墓なんかがあってもう一度じっくり歩いてみたい道だ。
 案内に従って横道に入ったら、松尾寺の本堂の前に飛び出した。つづく

今寺の熊野神社、最終は松尾寺本堂の大杉のところに出る。

【今日のじょん】朝から出るなり三度ばかしうんPする。軟便通り越して下痢便だが、食べていないので少しばかりだ。草を探してやたらと食べていたが、帰ってきても食事は摂らない。

そのうち戻して、もう大変。一日ぐたーっとしていたが、夕方かみさんがおかゆを作ったら食べたそうだ。
 夕飯の時にはいつも通りねだるようになって、やれやれ一日で回復したようだ。ここで甘くなって色々やるとやばいので、少し豆腐などやっておしまい。

 【作業日誌 11/15】
芝張りスロープ前9枚、ドッグランど横準備

 


 

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青葉山縦走 11/14

2014-11-14 | 山・峠

2014.11.14(金)曇り

 青葉山に行くなら西峰東峰をめぐり麓の高野に降りたいと常々思っていた。松尾寺から登ると中山や高野からどうやって帰ってくるのか悩んでいた。ところがヤーダさんが行きたいというので調べてみたら、山麓を通って松尾寺に帰ってくるコースがあるんだ。これはいいと思い秋のじょんのびハイキングにして実施したが、都合で参加できない方やキャンセルの方続出で結局ヤーダさんと二人になってしまった。中止にしようかとも思ったが、そうするといつ行けるか解らないので決行することにした。

じょんのび集合 8:00
松尾寺スタート 9:05
青葉山西峰着 10:45  西峰発  11:10
青葉山東峰着 11:45  昼食後発 12:35
金比羅大権現着13:05  同発   13:15
高野道分岐  13:45
高野登山口  14:06
松尾寺着   15:10

 松尾寺は馬頭観音を本尊とする真言宗醍醐寺派の名刹で、西国三十三所の二十九番となっている。想像以上に立派なお寺で、登山道がどこか解らない。お札所できいて、本堂横の渡り廊下をくぐってスタートする。

すぐにおびただしい数の地蔵板碑というのだろうか地蔵さまが並んでいる。植林の中の道をだらだら登ってゆくと、壊れた石の鳥居が現れる。如何なる理由か笠木の部分が落ちていて何とも悲しい姿をさらしている。時折クマザサの原が現れるのだが、鹿の害で上林にはすっかり見られなくなった風景で、なんとも懐かしい感がする。鹿や猪の被害も見られない、何ともうらやましい限りである。

 植林に広葉樹が混じってくると傾斜も増してきて、遂にはかなりの急斜面で、岩場も出てくる。岩場にはロープや鉄階段が用意されていて誰でも楽に通過できる。
道中はモミの大木やちょっと遅い紅葉が楽しめ、所々弥山から三国岳に至る山並みが目を楽しませてくれる。途中1回の休憩を挟んで、西峰手前の祠の広場に出る。

 すぐに西峰(692m)に着き、ここには祠の隣に立派な避難小屋がある。ピークは祠後ろの岩の上で、ロープ伝いに登る。若狭湾の海、丹波丹後の山々の展望が素晴らしい。つづく

山頂から南面、右から弥仙山、養老岳、三国岳など望める。
北面は若狭湾が一望。
【今日のじょん】山から帰ってきたらじょんはまだ帰っていない。かみさんと福知山東ゴルフに行くとは聞いていたので、連絡してみると買い物をするとか言って暗くなってから帰ってきた。ところが帰ってきたら様子がおかしい、なんか調子悪いみたいだ。ご飯も用意しておいたのだが口つけることなくぐったりしている。
 あれだけ食欲のあったじょんが何も食べないとなると心配だ。山から帰って綾温でも行こうかと思っていたが急遽取りやめ、気まずい食事をして寝る。

何を見てるのでしょうか?これでした~、、、朝は元気だったのですが、、、ちょっと軟便だったけど。

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