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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

幻の改心の道ー1 12/25 

2018-12-25 | 山・峠

2018.12.25(火)晴れ

 「改心の道」の道とは君尾山光明寺に伝わる天狗が改心したという伝承に基づく光明寺と弥仙山を繋ぐ修験の道である。2010年に「改心の道」遊歩実行委員会の催しに参加し、日置谷コースを歩いた。(2010.11.23参照)於与岐から弥仙山に登り、元権現跡から日置谷に降りるもので、老若男女随分人気のあるイベントだった。数年前から熊の出没のおそれという理由で中止になっていて残念である。さて2010年の山行の際に奇妙に思ったのは、大タワを下ったところで光明寺への道と日置谷に下りる道が分かれていることだ。しかも光明寺に向かう道は相当荒れていそうな感じだったことだ。「改心の道」が光明寺の修験の道であるとしたら日置谷に下りるのは無意味であり、多くの人が日置谷に下りるのが「改心の道」だと思っているのも不思議なことだ。事の原因は1997年に制定された近畿自然歩道のコースによるものではないか。途中随所に近畿自然歩道の立派な道標があるのだが、このコースが弥仙山から日置谷に下りている。ところがこの自然歩道は日置谷から寺町、あやべ温泉、光明寺へと繋がっているのだ。なぜ改心の道を踏破しないのか、その方がよほど自然であると思えるのだが、、。考えられるのは当時既に大タワから光明寺への道が荒れていたか、或いは地権の問題があったか、小さな村といえども政治的な圧力があったのかなどと想像は広がるが本当のことを知っている方があれば教えて欲しい。
 いずれにしても光明寺に繋ぐ道を歩いてみたいと思いつつ8年の歳月が流れたのだがようやく実現することとなった。

今回の目的はこの道標の先、君尾山への道
 2018.12.18(火)曇り

 メンバー:小原英明 工忠照之
 タイム :観光センター出発  10:20
      日置谷道取り付き  10:40
      枝道分岐      11:00  10分休憩
      改心の道光明寺道分岐11:25  15分休憩
      490mピーク   11:55  15分休憩
      419.2mピーク 13:00  15分休憩
      木住谷お堂     14:05 
      室谷神社鳥居    14:20
      君尾山林道     15:10
      光明寺       15:40
      あやべ温泉到着   16:15
                       つづく

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改心の道ハーフコース-3 11/28

2018-11-28 | 山・峠

2018.11.28(水)曇り

 元権現跡で昼食を摂っている間にますます天気は怪しくなり、ついにぽつりぽつりと降ってきた。こうなるとゆっくり飯食ってる場合じゃない、早々に合羽を着て出発する。やがて急な下りとなる、これが大タワ峠への下りだろうか。日置谷方面から登るときはこの登りが最大の難所となるのではないだろうか。下りきったところで日置谷方面と君尾山方面への分岐が現れる。道標もしっかりしているが、君尾山方面への道はすっかり荒れていて、人の通った跡もない。実はここが今回の山行の目的だったのだ。

左:大タワ峠に向かう途中の紅葉、高雄のように一面の紅葉より唯一本の紅葉を独占して眺めるのも興だ。中:弥仙山、君尾山の道標はあるが、君尾山への道は無いに等しい。
右:君尾山への道はこの通り、、、。
 

 2010年に改心の道を歩いたとき以来、この分岐点から先はどうなっているのだろうと気に掛かっていた。日置氏について調べたときも、この先の槍が嶽(やりがづく)こそが太陽観測の拠点ではないかと予想した。(2013.10.16参照)
 日置氏のことはともかく、槍が嶽の山頂は、上林でもっとも広大な景色が望める地点だと予想している。何しろ上林のど真ん中で、飛び抜けた位置にあるのだから。ただし木々の繁茂が無かったらのことで、見晴らしがいいかどうかは別問題である。分岐点から槍が嶽北方を越えて遊里に下り、再度光明寺を目指すコースこそ、本当の改心の道なのである。日置谷に下るコースはあくまで近畿自然歩道で整備された簡便的なコースで、タイトルで示すとおりあくまでハーフコースなのである。
 次回にこの本コースを歩くために少し偵察をしてみた。何とか道の痕跡は残っているが、灌木が生え混んでいる。遊里に下りるまで果たしてコースが確定できるだろうか。不安はあるが、逆に燃えるものもある。楽しみを残して、日置谷道を下ることにする。
 やがて左に広い道が分岐する、そして道幅が広くなる。そして妙な二列道を発見、これは木住峠清水道と大栗峠弓削道で見つけたものと同一である。

単線の列車がすれ違うとき(列車交換)のレールのように左右に分かれている。
 荷車がすれ違うための道と解釈したのだが、そうすればここを荷車が通過したことになる。先ほどの左に分岐した道を通ったとしても一体何を運んだのだろう。まさか木住峠に繋がっているとは思えないし、改心の道は荷車の通れる道ではないし、肥刈り、炭焼き、木材搬出ぐらいしか考えられない。余裕があればあの左分岐の道を歩いてみたいとも思うが、その少し下の神谷道も歩いてみないと見えてこないような気がする。一筋縄でいかないなあと思いつつ下っていくと、日置谷に続く林道に飛び出た。おわり

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改心の道ハーフコースー2 11/25

2018-11-25 | 山・峠

2018.11.25(日)晴れ

 於与岐からの弥仙山登山道は北面にあるためかジメジメして陰気な道だ。ただよく歩かれているためか道は歩きやすい。時々紅葉が紅く黄葉していたりして嬉しい。すぐに於成神社に着く。

於成神社、左の大木は銀杏。
 於成神社の上方に於成平(おなるだいら)があると「西丹波秘境の旅」(澤潔著)にあるが本の中ではどこだか特定できない。於与岐の古老も神主も知らないと言うことだが、於成神社に詳しい釜師さんに聞いたという。澤氏は於成神社のオナルはオは美称、ナルは古代朝鮮語で太陽を表すナル、ナリ、ナとして、太陽信仰あるいは太陽の観測から日置氏などと結びつけて書いておられる。ただその内容は支離滅裂で矛盾も多く俄に信じられるものではない。於成平は斜面を登り切ったコル状の平地で、於与岐から眺めると丁度三角のピークから下った肩のところだと思う。そうすればナルは緩斜面を表すナルが語源だとすれば最もわかりやすい。そこから頂上まではもう一踏ん張りだ。

山頂の金峰神社
 頂上の金峰神社にお参りして、休憩する。西側は切り開かれていて眺めがいいのだが、東側は植林が育っていて見えない。上林の山々は二人で歩いてきただけに一望したいのは山々なんだけど。
 頂上を後にして急斜面を下る。途中に岸谷に下るルートがあるはずなんだけど気が着かなかった。光明寺を出て弥仙山に登り、岸谷から木住峠、遊里から光明寺にもどるコースができそうだ。

秋の稜線は見晴らしもよく、落ち葉を踏みしめて歩くのが心地よい。
やがて於与岐に向かう分岐に出る。
 小さなピークを登ったり降りたり、道中最近に整備された形跡がある。於与岐の方が整備されたのだろう。飽き飽きした頃に於与岐に向かう分岐が出てくる。ここは弥仙山回遊コースとされているところだ。ここから元権現跡までは未整備の部分が残っている。倒木があったり、迷いやすいところもあった。赤テープが随所に巻いてあるので、注意して歩けば問題はなさそうだ。特にはっきりとしたリッジ状で無いところはルートファインディングをしっかりすべきである。遭難騒ぎがあったのは今年のことだったろうか、こんな道でも迷ってしまうのだ。
 晴れていた空が暗くなってきて嫌な気分になってきた頃、元権現跡の広場に着く。今月の初めに上林側の整備が行われたのはここまでらしい。倒木がしっかり切り払われたところで昼食とする。つづく



元権現展望所に着く、ここからは中上林への展望が最高。
【今日のじょん】いよいよ前室が完成、大工さんに何かと無理を言ってあれこれ追加したが、気に入ったものになって大喜び。じょんはやっぱりカンケーなさそー。お前も喜べよなー

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改心の道ハーフコース 11/20

2018-11-20 | 山・峠

2018.11.20(火)晴れ時々曇りところによって雨
 工忠君が初めてというので改心の道ハーフコースを歩く。改心の道とは君尾山光明寺に伝わる「天狗の詫び証文」の話を元に命名された修験の道である。実際に修業僧がどういうコースを歩んだか不明なのだが、光明寺から弥仙山を往復したのだろう。単に往復するのではなく、水分(みまくり)神社、於成(おなる)神社を回ったのかもしれない。(弥仙山周遊コース)

登山口の案内看板、熊や猿が楽しそうに描かれているが、そんな陽気な話では無い。
 水分神社から弥仙山山頂までは地蔵や石造物があるのだが弥仙山から上林日置谷まではそれらしきものがひとつも無い。光明寺の参道には沢山の石仏があるのだが改心の道にそれらが見られないのは本当に修業の道として使われていたのだろうかといぶかしく思う。
 メンバー 小原、工忠
 タイム 2018.11.20(火)
     弥仙山登山口出発
   9:50
     於成者神社着    10:20
     弥仙山北方のコル着 11:00 
     弥仙山頂上金峰神社着11:10 11:20出発
     於与岐分岐着    12:10 12:15出発
     元権現跡着     12:35 13:00出発
     日置谷分岐着    13:25 13:35出発
     神谷分岐着     13:55
     日置谷着      14:10

 今回の目的は盛況だった「改心の道遊歩」のイベントが中止されて以来、コースがどのようになっているかを確認してみたいのと、改心の道フルコースの再開を目指して日置谷分岐から遊里に向かう道の可能性を偵察してみたいというものである。
 大栗峠同様なるべく公共交通を利用して山行したいのだが、於与岐に向かうみせんバスは一般には使えないそうで、やむなく工忠君の車で登山口まで行く。於与岐も今年の大雨で被害が出ており、随所で工事が行われている。特に水分神社前の林道は大きく谷が抉られていて、重機の間を無理やり通らせてもらう。谷を渡る橋も土の部分が流れてしまって、大きなパイプがむき出しになっている。谷を渡る手前に道標や「右みせんひだりやまみち」と書かれた地蔵様などが並んでいる。昭和の初めまでは女人結界で、女性は水分神社までと決まっていたそうだ。大峰山同様の修験の山であったことがわかる。

水分神社の先の分岐
 さてわたしの出で立ちといえばいつもと同様修験者スタイルで白地下足袋に金剛杖、ハチマキで望んでいる。信仰心はさらさら無いのだが、山を歩くにはこのスタイルが最もあっており、足も素足である。心配なのは雨で、防水が効かないので冷えないかということだ。雨雪以外は頑張れるんじゃないかと思っているのだが、、、。つづく

【今日のじょん】おとうの念願の玄関前室が完成に近づいているのだが、じょんはカンケーねえみたい。

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バスで行く大栗峠2-(4)

2018-09-03 | 山・峠

2018.9.3(月)晴れ

 小栗峠から山田弓削分岐までは稜線下のトラバース道である。峠から谷に下りずに稜線を辿る道の作りが木住峠清水道と同様でしかも広くて立派である。

右ゆげ道、左志ろ下(山田道)、行者スタイルも板についてきた。
「北山の峠」の金久昌業氏はどちらもそれが本道である旨書いておられるが、本道が本来の道という意味ならそれは間違いであろう。弓削道、清水道は後から必要に迫られて作られた産業道路だろうと考えている。どちらの道も峠に達するには遠回りである。しかし傾斜は緩く急なところはつづら折れになっている。そして牛馬、荷車の通行できる広い道なのだ。特に清水道は田辺(舞鶴)から京に向かう道としてはまるで逆方向に向かっているのだ。金久氏のただ道の広さだけをもって「本道かもしれない」というのは短絡的である。木住峠清水道は明らかに清水鋳物師の原料、製品の運搬用道路であると考えられる。井関家に大栗峠の通行証の木札が残っているというのは、大栗峠弓削道も清水鋳物師にとっては重要な輸送路であったに違いない。

こんなに広い峠道は弓削道、清水道だけである。
 今回の山行で弓削道に新たな発見があった。弓削道の中間点辺りに道が二手に分かれ十数メートル続いているところがある。その道は並行に並んでおり、その間は土手状の土盛りとなっている。この場所があることは従前から気づいていたが、特段気にも留めていなかった。ただ清水道を歩いたときに、尾根を登り切った地蔵堂の所に同じ状態の道を見つけ、弓削道にもあったことを確認したかったわけだ。
 これは休憩場所だと考えられる。歩くだけの通行人ならどこでも休むことは出来るが、牛馬、荷車となると行き交う人の邪魔になる。まして何台も荷車を連ねていたらなおさらである。脇道に荷車を並べておけば支障は無い。清水道では急な尾根を登り切った地蔵堂の所であり、弓削道では中間点辺りの傾斜が緩くなった所で休憩場所としては絶好の位置である。

パーキングエリヤか?
 もちろんすれ違いの牛馬荷車の待避場所としても利用されたと思うのだが、そうなると時間的な調整はどうしていたのだろう。いくら道が広いからといってもつづら折れの部分など牛馬荷車ではすれ違いは困難である。待避場所で待っていればいいのだが、相手はいつやってくるか分からない。列車のように時間が決まっている、峠や麓で狼煙を上げて出発時間を知らせる、先行の者を走らせて相手に知らせるなど色々考えるのは楽しいが、実際にどうやっていたかは判らない。
 長い下りで膝がガクガク言い出した頃に弓削の家並みが見えてくる。谷にコンクリートの白い橋がかかっている。桜井さんが「新しい橋をかけたで」とおっしゃっていたが、なんとも立派な永久橋だ。初めてこの峠道を下ったとき、腐れかかった土橋を倒木の桜を頼りにおそるおそる渡ったのが懐かしい。

防獣ネットは開けたら閉めること
 当初の予定では光明寺まで参って観音巡礼のまねごとでもしようかとしていたのだが、山道はともかく舗装道路を歩くのは強烈に疲れる。あっさりあやべ温泉で諦めて今回の山行はおしまいとする。おわり

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バスで行く大栗峠2-(3) 8/31

2018-08-31 | 山・峠

2018.8.31(金)曇り

 峠にたどり着くときのあの達成感というか安堵感というかあの妙な嬉しさはいったいなんなのだろう。特にこの大栗峠は上林のどの峠にも無い開放感と清涼感がある。荒れて殺伐とした峠や植林が生い茂って陰気な峠が多い中でここは格別である。疎らな闊葉樹と閉塞感の無い広い空間、四方に向かう山道がしっかりと区別でき、古の往来人の姿を彷彿とさせる。しかしなんといっても二体の地蔵様は大栗峠の主人公である。このお地蔵様に会うために登ってきたと言っても過言ではない。遠くに居る恋人に会えたときのような嬉しさがこみ上げてくる。

2013年7月によだれかけを着けた。
 大栗峠自体の謎は数多くあるのだが、既に公表しているのでここでは略そう。ただ気になるのは数年前に桜井さんが着けてあげたあのよだれかけはどうなったんだろうということである。
 そしてこの峠にもうけられた看板にもこれまで同様の傷がある。これはもう間違いない、鹿の食害である。人工の板を食べるかなあといぶかしく思ったが、峠下の林道から山上の峠まですべての道標が同じように傷ついているのは鹿の食害であると納得いく。立っているものはその下側、突き出ているもの(倒れた椅子など)はその突き出た部分を食われているのだ。こんな板がおいしいはずが無いと思うのだが、ご丁寧に塗られたニスがその原因なのではないか。ニスには膠(にかわ)が使われているそうだ、これが鹿の好む臭いを出しているのではないか。こんなものまで食害に遭うとしたらなんともやるせない気がする。


峠東側の四角い平地(2018.4)
 大栗峠の謎については略するとしたが、例の東側の広場について考察しておきたい。この広場については、茶店があったという噂もあり、人馬の休憩場所、荷物のデポジットなどの予測をしていたが、先日清水鋳物師の末裔である井関家の奥さんに「大栗峠の通行証となる木札があったよ」と聴いて新たな想像が沸いてきた。通行証があるということは藩が通行人や物資の管理をしていたということで、関所とまで行かなくても役人が通う簡素な建物があったのではないだろうか。そうすれば城下(しろした)から峠に至る山田道が政治的な道だとする私の説も頷けることとなる。広場のある大栗峠も木住峠も主要街道であり、藩境でもあるのだ。
 そんな思いを残しながら、弓削道への稜線を辿る。つづく

【今日のじょん】今日はじょんの定期検診、体重はやや減少でコントロールの効果あり、問題の
赤血球の値はやや上昇して、鶏肝効果ありかと大喜び。じょんは久々のドライブで喜んでいるが、じょんゲル係数が高くなるのは困りもの。

家帰ってきてぐったりしているところ。

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バスで行く大栗峠2-(2) 8/30

2018-08-30 | 山・峠

2018.8.30(木)曇り

 ようやく大栗峠取り付きに着く。気になっていたやっつけ仕事の登山道も何とか無事に残っている。ところがこの取り付きに立てられた立派な立て看板に妙な傷跡を見つける、看板の下側が剥がれているのだ。ここまでの林道にある道標も倒されて、裏側に妙な傷がある。この間大雨もあったし台風もあったので雨風の影響でついたのかなとさほど気にしなかったのだが、後々驚く結果となる。

 アプローチの林道の道標、妙な傷があるが気にもしなかった。杭は簡単に抜けてしまった。
 
4月に下ったときの取り付き部分、看板はきれいなままである。
 和知側のこの尾根道には多くの謎がある。一つは本来の取り付きはどこだろうと言うことだ。昭和55年に整備された道は現在の取り付きから左の谷の林道に入り、300mぐらいで右の斜面に取り付くというものである。2011年にそのとおり辿ったのだが、斜面の道は発見できず無理やり斜面をよじ登った。その当時の大栗峠からの記録を見ると、斜面に下る地点が見つからずに尾根末端まで下ってしまったというのが多かった。実はその尾根末端の道こそ本来の街道道で、明治28年陸地測量部の地図を見ると現在の道よりやや右寄りの所から取り付いたものではないだろうか。55年の整備がなぜ左の谷を選んだのか不思議だが、尾根末端の傾斜がきついこと、植林が進んでいたことなどが予想される。地蔵堂からの谷沿いの旧道と本来の取り付きはいずれ探してみたい。
 二つ目の謎は尾根に上がったところにあったという茶店の跡である。ちょっと広くなった所にかつては茶店の残骸の木材があったというから、本当に存在したのだろう。そのちょっと広くなった所てのが解らない。いつも気をつけて歩いているのだがそれらしき地形には見当たらない。これもいつか見つけたいと思っているのだが、茶碗のかけらでも見つかれば大発見である。
 三つ目は上部の六地蔵である。「北山の峠」の著者、金久昌業氏が「10年程前は六地蔵があったのに、その後他の五体はどこに行ってしまったのだろう」と書いておられる。この地に放置された瓦を見ると、それなりの建物があったと思われる。平地の広さから見ても六地蔵があったと考えられる。人が歩かなくなって、里に下ろして安置すると言うことはよくあるが、それだと一体だけ残すことは無いだろう。これは歩いているだけでは解決しない。里で古老の話でも聞かなければ解らないことだが、そこまでできそうにない。そしてもうひとつ、この地蔵堂は道を挟んで人馬のくぐれる屋根があったと言うことだ。この噂、伝説がどこから出たものか解らないのだが、いくら場所が広いといってもそこまではないだろうと思われる。残された瓦の数からも六地蔵のお堂分はあるが、おおきな屋根には無理だろう。

左:残された地蔵様にはお堂が作られた。倒れた椅子の脚にも妙な傷がある。
中:地蔵様は苔が生えているが、なかなか良いお顔をされている。
右:残された瓦、鬼瓦もあり立派なものである。
 四つ目はこの尾根道の広さと分岐道の存在である。これは前回
山行の際に書いたので略するが、分岐の道は時間があるときに確認してみたい。
 地蔵堂を過ぎると大栗峠は近い。つづく

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バスで行く大栗峠2 8/28

2018-08-28 | 山・峠

2018.8.28(火)曇り

 4月にバスで行く大栗峠、山田道から和知へを行ったので、今回は和知から弓削道へ下りるコースを行う。

メンバー:小原英明、工忠照幸

タイム:和知中学校前 8:05  下粟野公民館前 8:20 町営バス300円
    バス停出発  8:30   明隆寺参拝  8:45出発
    山の家前着  9:30
    大栗峠取付き10:30   10:40出発
    六地蔵   11:10   11:10出発
    大栗峠着  11:30   12:00出発 昼食
    弓削着   13:10
    あやべ温泉着14:00

 バスで行くったって、和知から上林へのコースは前回のように公共交通機関のみで回れるわけではない。和知駅から仏主方面へのバス始発は8:02でそれに間に合うJR線はあるが、列車に間に合うあやバスが無い。やむなく車で和知に行き、下粟野までバスを利用する。バスを利用したのはこの間だけだ。
 今回は丹波西国三十三カ所巡りも兼ねての山行なので、地下足袋も白い祭り足袋に換え、金剛杖、白手ぬぐいに桧笠の巡礼スタイルにする。
 下粟野公民館前でバスを降りると、拝めない。すぐに丹波西国三十三カ所27番札所の明隆寺である。山号が寿命山というから寿命延ウォーキング主催者として縁を感ずるお寺である。まず隣にある阿上三所神社(あじょうさんしょじんじゃ)にお詣りする。

阿上三所神社は和知町内に4柱あるそうでこの上和知川沿いに2柱(下粟野、細谷)そして坂原と本庄にある。坂原の神社はウオーキングの催しで訪れたので、あとは本庄のみだ。その際この妙な社名のゆかりを訪ねたのだが、解らないとのことだった。
 明隆寺の観音堂は室町後期の創建ということで、随分立派なお堂である。建物が国の重要文化財の指定を受けているというのも頷ける。等身大の観音立像があるそうだが、60年に一度の開帳というので、次は2060年だそうだ。残念ながらわたしは拝めない。

観音堂は実に立派、観音立像は2060年にご開帳。
下粟野から上粟野までの2Km余りの道は上和知川に沿った府道を行く。この府道が51号線で、舞鶴から上林の草壁に繋がっている道なのだ。和知と上林の間の山並みに遮られ途切れてはいるが同じ府道なのだと思うと何か親しいものを感じる。細谷にくると例の阿上三所神社が川向に見える。道路からお参りさせてもらう。きれいな水の上和知川と山と田んぼの風景は日本の原風景のようで嬉しいねえなんてしゃべりなから歩いていると、とっても素敵な藁葺きの一軒家が
現れた。

上和知川沿いの風景の良さは車やバスからでは解らない。

 上粟野の集落から林道を入っていくと防獣柵がある。ここで嫌な舗装道路ともお別れだ。登山靴でも地下足袋でも舗装道路は足にくる。特に膝に疲れがたまるので、どうやらその硬さが原因のようだ。上粟野から大栗峠の取り付きまで一時間、実に退屈な林道歩きだ。せめて流されて無くなった地蔵堂からの谷筋の道でも整備して頂ければこの退屈さから解放されるのになあと思うが、まあ望むべくもないところだ。つづく

 
 


 

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大栗峠考(49) 7/9

2018-07-09 | 山・峠

2018.7.9(月)晴れ 二つの大栗を訪ねる-3

  大栗という地名については大栗峠考36~39(2016.5.26~)に記載している。大栗峠の大栗は、志古田の小字であり、「刳る」(くる)から来た、えぐられたような崩壊地名もしくは谷から斜面に取り付くところの大岩が由来。忠町の大栗は、大水の際に狭隘部で水がせき止められ逆流して渦巻く様子、あるいはその下流から始まる岩礁、いわゆるぐりが由来ではないかと書いた。今回は新たに十倉志茂町の大栗について新たな証言を得たり、現地を見て新たな発見をしたので、あらためて考察してみたい。
 さて次の写真を見比べて頂きたい。

写真中央の遠望が大栗のあるところだ。見なれた人でないとどちらがどちらか解らないだろう。左が十倉志茂、右が忠の大栗である。どちらも上林川による堆積で広がった平地が両岸の山が狭まり狭隘で屈曲した河川となる部分で、ちょうど胃の幽門のようなところである。どちらの大栗も左岸にあるが、忠町大栗は狭隘部分に入る手前、川沿いの細長い所であり、十倉志茂大栗は狭隘部分に入った少しの所、川沿いから山を含んだ広いところである。
 昨年10月の台風は上林に大きな被害を及ぼしたが、十倉でも大栗の狭隘部分の水流が滞り、右岸の田園地帯に押し寄せたということである。これは規模は違うが忠町の28水の時と同じ現象であり、見た目にはさほど狭隘になっているとは思えないのだが、水量が増加したときには、狭隘部分の水位が上がり、水の停滞、逆流現象が起きるのだろう。
 両大栗の共通点はそれだけでなく、その後屈曲したゴルジュ帯が続くこと、左岸から顕著な谷が下っていること、そしてどちらにも複数の古墳が存在することである。一致しない事柄は、忠町大栗の上部は地滑り地形で崩壊跡もあるようだが、十倉志茂大栗の場合はそのようなものは見られないことである。つづく

 

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大栗峠考(48) 7/8

2018-07-08 | 山・峠

2018.7.8(日)曇り  二つの大栗を訪ねる-2

  忠町大栗はマイウオーキングコースでもあり見慣れた景色である。ただいつも天気の良いときにしかこの景色を見ていないので、大雨の大栗を見てみたかった。それは大栗という地名が一般的に水の浸食による崩壊地名とされているからだ。地名の考察は次稿に譲るとして雨の大栗がいつもと違うところは、濁流の白波と轟音だ。特に須呂橋から下流が激しい。この状況は十倉の大栗と共通する。ゴルジュ帯(この表現はちと大げさすぎるが、山がせまって、川幅が小さくなったところと理解して頂きたい)洪水となる場合、この狭隘部で水の流れがせき止められ逆流して平坦部の田んぼや家屋にまで及ぶという証言を得た。これも両方の地域で共通である。どちらも28水(昭和28年の大台風)の経験者に聞いたものだが、昨年の台風でも同様の事態が発生したそうだ。

須呂橋から下流を望む、写真では広く見えるが、28水以前は左の土手が田んぼ二枚分出ていたそうだ。古墳は写真の左手辺りにある。
 忠町大栗のすぐ下、河畔の田中に堂ノ下古墳という古墳が2基ある。水面からさしたる高さもないのだが水害に襲われることもなく現存している。そのことも不思議なのだが古墳時代の人たちはどこに住まいしていたのかということも気になる。既に稲作を行っている時代なので現在同様の地域が妥当と思われるが、そうすると古墳のある地域は墓地、聖地として祭祀の場所と言うことになる。では川のどちら側に住んでいたのだろう。左岸の方が谷は発達していて水の便は良さそうである。しかし流路から考えると水害はこちらの方が確率は高い、でも古墳まで陸路で行ける、大栗はその通路となる。とまあいろいろ想像するんだが、橋の無い時代には両岸の通行は相当困難だし、水が出たとき、例えば今日の様子だと絶対に無理である。

須呂橋から上流。大栗は右手の林の部分。水によって浸食された地形とはいえない。

後日須呂橋からの写真、大岩が現れ岩礁地帯は武吉まで続く。
 これらのことは十倉の大栗にも共通する。大栗には大栗1~3号墳があり、金環なども出土しているので相当の古墳のようだ。上林川が狭隘になった部分の左岸にあり、忠町とまるで同一の位置関係にある。古墳の造り方の共通性かと他の地域も調べてみるがそのような共通性はない。ただ、支流の谷の側にある場合が多く、これは石材が得やすいからなどと想像してみる。大栗という地名を着けたのはおそらくこの古墳を造った辺りの人なのだろう。その人々の気持ちになって考えることが大切だ。現場に立って、当時の人の気持ちになること、これは地名解の王道である。つづく

 
 


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大栗峠考(47) 7/7

2018-07-07 | 山・峠

2018.7.7(土)雨 二つの大栗を訪ねるー1

 歴史的な大雨が全国に被害をもたらしている。この雨の中を上林の二カ所の大栗を訪ねる。大雨の時にしか発見できない何かがあると思っていたので、被害に遭われた方には申し訳ないがわたしにとってはチャンスなのだ。
 2018.6.6(金)11:30~13:00
 十倉志茂町大栗
 MTBで中十倉から上林側添いの農道を走る。農道の取り付き、張田は縄文の遺物が発見されているところで、この辺りに縄文人が居たんだと思うと何か楽しい。左岸に渡る橋のところで大栗方面の写真を撮る。

大栗は川が狭まった部分の左岸やや下流。右は上流を望む、十倉一帯は縄文以降の多くの遺跡がある。
 大栗は十倉の広い河内地形のところが急に狭まり、上林側が狭くて屈曲したゴルジュ地帯に入るところの左岸の山間斜面である。川沿いに大栗林道が走っており、最初の谷、神子谷には地域の方々が開発された不動の滝がある。今日の目的ではないので先を急ぐ。

大栗林道起点、起点から100m程かしっかり川が見えるのはここまで、大きな砂洲が見える。
 

神子谷、不動の滝の取り付き。上林側の様子は林間で見にくい。 

 一番見たいのは川の様子なのだが植林の合間に濁流が少し見えるだけだ。山側に崩壊などが見られるところはない。400mほどで最初の屈曲部分に着く。川幅が狭くなり急流になるかと予想していたがさほどではない。しかし十倉の平地を流れているときとは明らかに違うことがある。それは水面に白波が立っていることとザーザーという水音が常にしていることである。帰りがけに水面をよく見ると、所々に大きな岩があり、おそらく河床は岩床となっているのではないだろうか。

よく見ると白波が立ち、川音が激しい。
 続いて忠町大栗を目指す。左岸の農道が続いていそうなので走ってみるが使われていない道はぬかるみと雑草でひどい目に遭った。十倉向町の水無月神社に寄ってみる。この小松谷については後日「上林の澗地名」として紹介したい。武吉町、佃町を越えて忠町大栗に着く。つづく

水無月神社と、そこから小松谷を望む。  


 

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バスで行く大栗峠-5 5/23

2018-05-23 | 山・峠

2018.5.23(水)雨 大栗峠考ー46 バスで行く大栗峠-4は2018.5.6

 小気味のよい尾根道を下っていくとやがて植林の斜面をジグザグに下りるようになり、あっという間に林道の出合に着く。実はこの峠の降り口、つまり峠の尾根への取り付きについては興味を持っていた。2011年11月上粟野から大栗峠に登った際はこの尾根末端から左の谷沿いを詰め、適当なところで尾根への斜面をよじ登った。昭和55年に山の家をつなぐハイキング道が整備された際の道なのだが、現実には我々の登った斜面は谷を詰めすぎたようだ。

尾根への取り付き部分はなんとも風情の無い道だ。
  本来の大栗峠への道はと言うとどうも今回整備された尾根末端への道が正当らしい。明治28年陸地測量部の地図では尾根末端に道が着いている。ただし当時の道通りに今回着けられたかは疑問である、林道に下りる部分などは重機で無理やりに作った風で頂けない。大雨でも来たらすぐに壊れてしまいそうだ。しかし写真で見ると上部まで切り崩した形跡があり、本来の道なのかもしれない。

昭和の整備の際の看板(今は無い)と新しい看板
取り付きからは林道を下っていくので、もちろん本来の街道ではない。退屈な林道を下っていくと道が大きく迂回した先にかつての地蔵堂跡がある。この地蔵堂前回来たときは立派に存在していたのだが、今回の整備で取り壊されたのかと憤慨していたら、少し下流の谷が林道をくぐるところに柱などが残っている。どうやらこの間の大雨で押し流されたようだ。地蔵様は既に無かったのだが、古道の位置を示す貴重な建物であっただけに、看板でも残しておいて欲しかった。

2011年11月には存在していた地蔵堂。
 さてこの辺りからバスの時間が気になり始めた。未だ昼食は取っていないのだが、めどが付いてからとることにして先を急ぐ。防獣柵を開けて、最奥の家を過ぎるともう村は近い。舗装道路に地下足袋はきついのでウオーキングシューズに履き替えたいのだが、その時間も惜しい。その甲斐あって9分前にバス停に着いた。

バス停から上粟野の集落、バス車窓の景色は楽しい
 すると偶然大栗峠道の振興に尽力されている田中さんが乗用車で現れた。なんでも峠を挟む上林と上粟野の交流会を開催すべく打ち合わせに来られたそうだ。古道を保存するにはこういった定例行事を開催するのが有効である。桜井克さんが数年前に提唱されたが実現に至らなかった行事である、是非とも実現されるよう期待する。定刻にバスは現れ、子供の時のバス旅行のような楽しい気分で乗り込む。バスからは自家用車では絶対に見られない景色が見え、新しい発見がある、キョロキョロと車窓から覗く。和知駅に着くとすぐに電車が来て、山家駅に着くとバス停まで歩いても10分の余裕ができた。ここでようやく昼弁当を開ける、山で食べる弁当は楽しいのだが、国道沿いのバス停で立ったまま食事するのはなんともさびしい。逆を返せばこの間の交通機関の連絡が見事なほどに合っているということだ。2時半に帰ってきた時に、昼寝をしていたかみさんがびっくりしていた。公共交通機関を利用し6時間で峠を堪能できるこの企画は大成功だった。ただ一般的にはもう少し遅く出て、和知バスも一本遅い時間にすれば余裕のある山行になるだろう。つづく
 

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バスで行く大栗峠-4 5/6

2018-05-06 | 山・峠

2018.5.6(日)曇り 大栗峠考(45)

 大栗峠の地蔵さまや石碑の銘文については既に考察しているので略しシデ山側にある平坦な広場について考えてみたい。どこかで「茶店があったんやで」と聴いたが周囲にその痕跡は無く、建物があったというのは信じがたい。ただし、和知側数百メートルのところの地蔵さまの広場と和知から尾根に登り着いたところの広場には建物があったというのは事実らしい。前者は六地蔵様だったそうだが今では一体である。里に下ろしてお祀りするならすべて下ろすだろうから盗まれたものだろうか。ここには瓦が残っているので、少なくとも六地蔵の小屋はあったようだ。巷間道をまたぐ建物があって、通行人はその下をくぐって通ったということが言われているが、残された瓦はそれほどの数ではないし、そのような建物を作る必要も考えられない。後者の建物は茶店であって村のおばあさんが通って店を出していたと聞いた。この場所は確認できていないが、昭和40年代には柱などの残骸があったそうだから間違いはなさそうだ。(北山の峠 下)さて、峠の広場であるが、このような広場がある峠はわたしが今まで歩いた峠では大栗峠と木住峠だけである。この二つの広場は明らかに人の手によって平らにならされた形跡がある。洞峠も北側が広くなっていたと思うが、自然の広場ではなかったか。

大栗峠地蔵さま向かい側の広場と和知道六地蔵(今は一体のみ)の広場、共にベンチがしつらわれている。
 人が休憩するだけならさほど広い場所は要らない、やはり牛馬、荷車で休憩するならそれなりの広さが必要となる。木住峠の場合は峠自体も狭いので、広場もさして広くはないが、それだけに場所の確保は余計必要となるだろう。もうひとつの考え方は物資の保管場所、デポジットである。物資輸送の盛んな大きな峠では峠の付近に石室があり、麓の村から運び上げた物資をそこに保管し、後日反対の側の村人が登ってきて受け取るというシステムがあったそうだ。時代が下がれば専門の輸送業者も現れ、分業で峠間の輸送を請け負っていたかもしれない。そういう物資の保管場所としてあの広場があったのかもしれない。いずれにしてもあの広場は、両峠の輸送力の大きさを物語っている。

木住峠、狭い峠だが向こう側(岸谷側)の右手に小さな人工の広場がある。
 小栗峠を後にして和知側に下っていくと、山田道とは明らかに違った道のあり方に気づく。それは道幅の取り方とでも言おうか、道の整備の仕方が違うのだ。弓削道について聞いたことなのだが、村人による道造り、いわゆる道の整備の際に牛に横にした角材を牽かせて道をならしたと言うことを聞いた。その方法が弓削道と和知道に残っている。両脇が小さな壁になっており、中央が平らにならされているのだ。これも明らかに牛馬荷車による輸送を意識した索道といえるだろう。

牛に角材を牽かせてならされた和知道、弓削道にも見られる。
 もう一つ和知道で気づいたことは、急峻な箇所などではもう一本別に間道があるようなのだ。時間的に余裕がなかったので一つ一つ確認は出来てないが、いつか歩いてみたいと思う。このことは登り下りの専用道、或いは牛馬荷車道と人のみの道を分けたものかもしれない。

右が本道、左に間道があるようだ。
 6年前山田
道から弓削道に下りた記録を見ていて貴重な写真を見つけた。今年木住峠清水道に要った際に地蔵堂上で見つけた奇妙な平行道路(2018.4.2参照)と同様の平行道路が弓削道にもあることだ。これは明らかに荷車がすれ違うか、追い越しの為の道と思われる。清水道、弓削道が近世の産業道路であり、牛馬荷車が通行し、しかも相当の通行量があったことがうかがえる。

左は清水道地蔵堂、屋根に隠れているがもう一本道がある。
右は弓削道の平行道路。
【今日のじょん】GWはよい天気が続いてワンコもたくさん来じょんしてくれた。全部は紹介できなくてゴメン。

5月5日ポメラニアン ベルちゃん 4才

ミニチュアダックスフンド りゅう君 16才

トイプードル ラテ君 1才

みんなドッグラン喜んでくれてありがとう。

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バスで行く大栗峠-3 5/3

2018-05-03 | 山・峠

2018.5.3(木)曇り 大栗峠考(44)

 地下足袋登山は50年近く登山をしていて初めての経験である。ウオーキングを研究し始めて、5本指ソックス、地下足袋、金剛杖が最も理想的な歩きであることに気づき、実験的に今回歩いたのだが、実際の山行について問題点となる事項を挙げておこう。
 1.舗装道路には合わない。
 人間の本来の歩きに最も近い歩きが出来るが、舗装道路は自動車や自転車のタイヤにあわせた道路であって、地下足袋で歩くのは痛める可能性が大である。従って今回の場合もウオーキングシューズを別に持参しアプローチ等では履き替えることとした。
 2.防水性はゼロ。
 積雪期には絶対無理。無雪期の短期間の登山に限られる。
 3.耐久性に注意
 靴底の接着性、布部分の耐久性、コハゼの留め糸など着用前に確認しておく。古くなって危ないようなら新品に換える、代用を持って行くなどの対策が必要。
 4.ダニ、毒蛇対策には抜群
 12枚ハゼを使っているが、足首からふくらはぎを覆うのでダニ、マムシ対策には効果的。登山靴の場合スパッツを着け、ダニよけのスプレーなどしていたが地下足袋だと不要である。マムシも噛まれるのは踏んづけた際に多いようだが、地下足袋の分厚さなら大丈夫かなと思う。
 歩行についての効用は別項で紹介したい。

地下足袋は長所と短所をわきまえて利用すること、また、改良の余地もある。

 弓削道分岐から大栗峠への道は大栗山(わたしは大栗峠の頭と呼びたい)の下をトラバースする。この部分こそ山田道、弓削道が大栗峠の後進的な道であると言うことを示していると思う。綾部温泉の露天風呂から大栗峠の山並みを古代人の気持ちになって眺めたらすぐに理解できる。どこにも道が無い時代あの山を越えてその先の村に行こうとしたらどこを通るだろうか?志古田道に決まっている。志古田谷なら何も迷う必要は無い、ただひたすらに谷を詰めればあの山稜の一番低いところに到達できるのだ。大栗峠の峠名は志古田の小字大栗に由来する、大栗とは崩壊地名である。地滑り地帯であり、現実に現在も大規模な崩壊が有り通行不能である。直線的で最短である志古田道だが、崩壊が繰り返され傾斜もきついので牛馬、荷車が通行することは不可能である。そこで登場したのが弓削道である。弓削道は傾斜部分の距離は長いが緩やかである。尾根道だから水による崩壊は少ない。岩石の部分が無いので索道も容易である。人の背に担いで通行している時代には志古田道でよかったのだが、産業が発達し大量の物資運搬、つまり牛馬荷車による輸送が必要となったとき、志古田道では間に合わないので弓削道が作られたのだろう。ところが主稜線を越えた先はやはり大栗峠和知道を利用しなければならない。弓削道が主稜線に上り詰めた後辿ったのがこのトラバース道なのである。
 この関係は木住峠における遊里道と清水道と全く同じ状況である。田辺(西舞鶴)ー岸谷ー木住峠ー清水ー大町ー弓削ー大栗峠ー上粟野が近世後半の上林における主要産業道路であったと考えられる。ただ人物のみの移動であれば、
遊里道、志古田道が主流であったことは想像に難くない。
 トラバース道をすぎるといよいよ大栗峠に着く。いつ倒れたのか解らないが例の石柱が今回の整備で立てられていた。大変喜ばしいことだと思う。始めて大栗峠を訪れたときからあの石柱は立てなければと思っていたのだ。つづく

右わち 左志こだの石柱、文政7年(1824)の銘があり、倒れていたものが今回の整備で立てられた。
【今日のじょん】29日に来じょんの大
くんバーニーズの8ヶ月、でかいから大くんかと思ったら五山送り火の日に生まれたからだって。

一緒に来たのはご存じももちゃん。

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バスで行く大栗峠-2 5/1

2018-05-01 | 山・峠

2018.5.1(火)快晴

 10年近く綾部をめぐる山や峠をめぐっているが、公共交通機関を利用して行った憶えは無い。自家用車、チャーターされたマイクロバスがすべてで、公共交通機関を利用しようという意識が最初から無い。7年前に和知から大栗峠を越えて上林に帰ってきた際も佐々木さんの自家用車で上粟野まで送ってもらったものだ。モータリゼーションに毒されたこの山行形態はいかにもいびつである。便利に便利に楽に楽に山や峠を楽しもうという姿勢からは往時の山に生きた人や峠を越えた人の心情は理解できない。おおいに反省して今回の峠行を行った。先に紹介した行程と経費をよく観察して欲しい。車で行くとしたら、まず二台の車で上粟野まで行って1台を駐車しておき、上林に戻って登るという行程になる。その労力を考えればバス電車を使った山行がいかに効率的で有意義であるかが解る。最初から車を利用することしか考えていない山行を今一度考え直してみることが必要だ。
 さて、偉そうなことを息巻いたが準備をしていると山田さんから電話があり、観光センターまで車で行くから迎えに行くということだ。バスで5,6分のことだからまあいいかと甘えることにする。バスで行ったと同様の時間に歩き始めることとした。6年前山田道を歩いたとき(2012.5.18参照)は6名の人数だったのでアプローチもよく憶えていない。林道目白線の入り口が解らずに、谷の右岸の方まで行ってしまった。元々の道はそれでいいのかもしれないが、林道に入るには左岸のフェンスゲートを開けて入らなければならない。このあたりアプローチの道標が見当たらない。始めて来る人にはまず解らないだろう。それに地元では承知の防獣フェンスも、開閉の作法があるのでその辺も注意書きしておくといいだろう。

フェンスを開けて入る、「迷ワン」の絵文字石柱、道標はしっかり。
 山田道取り付きから先は植林の中の作業道を歩くのだが、実に立派な道標が分岐ごとに立っていて、間違うことはない。6年前は随分ルートファインディングに苦労したものだ。植林地帯を過ぎると気持ちのよい古道をキリキリと登っていく。竹原道の分岐を見つけたかったが解らずじまいだった。

気持ちのよい尾根道、道幅は170cm、展望台からは弥仙山
 やがて今回の整備で作られた展望台に着き、小休止。城山周辺の集落と上林川右岸の前衛峰、その向こうに弥仙山が見える。気持ちのよいところだ。その後も尾根上の気持ちのよい道が続くが、もう一つの目標の街道ウォッチングをする。「大栗峠考」で書いてきたが、弓削道、和知道は荷車の通る産業道路、山田道は城下をむすぶ政治的な道路、志古田道は本来の大栗峠道だと考えている。そのためには山田道は弓削道のように広い必要は無い、荷車通行の無理な部分があってもいいという見方が出来るはずだ。しかしながら領主の権威の道であるから貧相であってはならないとも思える。概ね予想通りの道だと感じられ満足する。
 この尾根道に気になるところがある。道の真ん中に実生の大木があるのだ。このような状況は他の道には見られない。これは山田道が荷車道ではなくて歩き道であったという風にとることも出来るが、明治以降いち早く使われなくなった道であると考えればよいかと思う。弓削以奥の集落では戦後まで大栗峠が使われており、上粟野、仏主(ほどす)などが通婚圏だったようだ。それに対して山田、石橋などのいわゆる城下(しろした)は上林街道、あるいは堀尾峠方面の利用が重きをなしてきたのでは無いだろうか。これは少し考えすぎかもしれない。
 思いをめぐらしているうちに弓削道との分岐にでる。「南無大師遍照金剛」の石碑のところで写真を撮る。初めての行者歩きの記念である。つづく

地下足袋に金剛杖

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