針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

 レッドクリフを早く見てみたい。(その3)

2009-02-02 06:53:29 | 漢詩・古典・エトセトラ

 当時、水鏡(すいきょう)先生(司馬徽(しばき)の門下には徐庶(じょしょ)の他、臥龍(がりゅう)、鳳雛(ほうすう)と並び称される知者がいました。臥龍とは諸葛孔明の事であり、一方の鳳雛とは龐統(ほうとう)という人でした。

 臥龍先生の孔明が書生風(しょせいふう)なのに対して、龐統は風采(ふうさい)も上がらず、顔があばたが酷かったらしく、最初は、呉の国の孫権にまみえますが、孫権からはこれを理由に退けられたとあります。

 その後、魯粛(ろしゅく)の薦めにより、また、諸葛亮の請いによって蜀にきますが、劉備にも好かれず要職に付けられずに、地方官位にしか付けなかった。その後、劉備が自分の不明を詫びて副軍師(ふくぐんし)の職に付きます。あやうく逸材(いつざい)を野に放してしまうところでした。

 その昔、水鏡先生(司馬徽)に「臥龍・鳳雛の一方でも得る事が出来れば,容易く、天下を得る事が出来る」といわれた劉備(りゅうび)ですが、その両方を得る事が出来たわけです。(但し、龐統が劉備の配下に入るのは赤壁の後、蜀攻略の頃です)

 話を元に戻して、魏は大軍を擁(よう)して、呉に襲い掛かってきたわけですが、折りしも、天候が悪く浪は高く、風は逆巻き、船団も大揺れになった。ただでさえ、船の生活に慣れてなく、あっと言う間に、体調を崩す者が続出し、疫病まで流行り出した。

 そこにこの鳳雛先生が来て、船団を太い鎖で繋ぐ連環(れんかん)の計を進言しました。魏の軍団は大地に居るが如くになり、戦意が復活した。でもこれも策略だったのですね。

 また一方で呉の老将・黄蓋(こうがい)が投降をすると魏に偽りの話しを持ちかけた。わざと棒で背中を叩(たたか)れて傷を負った。(これが「苦肉(くにく)の策」の語源になったと言われているんだよ。)

 魏の船団が大地の如くゆれが止まって攻めてこれないのは良かったが、こちらも(蜀・呉の同盟軍)攻め手が無いのが頭痛の種だった。

 周瑜と孔明は知略を巡らして、お互いの心に思っている事を手の平に書いてみようと言う事になった。同時に手をあけてみると、そこには「火」の字が書いてあった。つまり、火攻めの事をさします。

 しかし、今の季節は魏から呉の方へ吹く北西風で、下手に火を射掛けるとこっちが危ない。孔明はここで周瑜に言います。「我に天を(気象)変える力有り、祈祷(きとう)によって東南の風(たつみのかぜ)を呼び起こして御覧にいれます」周瑜は唖然とした。そんな事が出来るのか!?。と。勿論、莫大なるデータを集めていた孔明ならではの事です。

 孔明は祭壇を構築して天幕を張り、北斗の足取りで、7日間祈祷し続けます。周瑜も魯粛と顔を見合わせるばかりだ。でもなかなか、東南(辰巳)の風は吹かない。しかし期が迫ったある晩、にわかに風が吹き始めた。周瑜は一時は孔明を尊敬したがここに到っては、尊敬から恐怖に変わり、ますます、孔明を殺そうと思い直すのであった。勿論孔明はこの季節に1,2日必ず風が変わるのを知っていたわけです。

 機は熟した!。老将・黄蓋は舟に硝煙(しょうえん)を満載して、その東南の風に乗り、魏の船団の中に突入した。木と皮で出来た船はあっと言う間に、燃え広がり、鎖で繋いであるが為に一艘が沈むと隣の船も引っ張られて沈む。最初は曹操の軍80万あった軍勢も1/3になったとあります。

 陸地に上がった曹操ですが、烏林(うりん)等、とかで蜀の猛将、張飛、超雲子龍、関羽等の伏兵にさんざんに叩かれてしまいます。曹操以外に25騎しか残らなかったともあります。

 これが赤壁の戦いのあらましです。三国志読むと、とっても面白いですぞ。針は中学の時にこれを読んでからというものの、中国古典の虜になってしまいました。

 違う著者で、3,40回は面白さも手伝って読み直したよ。なんでかって言うと蜀の国に曹・孫という姓も出てくるし、呉の国にも劉・諸葛亮の兄諸葛瑾(しょかつきん)もいるし、当然魏の国にもね。

 最初は読んでいるうちに「何が何だか分からなくなっちゃった」んです。三国志を読むと大概ここで躓(つまづ)くんですよね(笑)。

 中国の古典は漢文で書いてあるから、読むのが難しいと思うでしょ?。でも書き下し文を読むと楽ですし、とっても面白いんですぜ。(こういう針だって原文は読めません)←なんでぃー!。

コメント (2)
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