らんかみち

童話から老話まで

他人の土地に勝手に植えるやつがいる

2009年07月31日 | 暮らしの落とし穴
 梅雨の幕間に空き地でヒョイと芽を出した草があって、カンナという花が咲くんだろうと思いました。
 ところが近所のご婦人が「奇妙な草が生えてるのよ、いったい何でしょうね、気味が悪い」とおっしゃる。カンナだろうというと、似てはいるが違うとおっしゃる。見ようによってはバナナにも思え、妙な期待をしながら「インターネットで調べてみます」と答えました。

「夏の草花」とか「夏の雑草」といったキーワードで検索をかけたらたくさんヒットすると思ったし実際そうだったんですが、類似のものを見つけるのは困難でした。
 もしも画像を入力して検索できるようにWEBが進化したなら簡単でしょうが、現段階では専門家に質問するか、図書館にでも行って植物図鑑を片っ端からめくるしか手はないように思います。

 わざわざそんな苦労をするほどのことでもなし、諦めよう思ったそのときでした。モニターにポップアップが立ち上がり、「ウコンの力」という広告を表示するじゃないですか。
 無料のセキュリティソフトを使っているので、30分に一回くらいの頻度で広告を見せられるのです。いつもだったらすぐさま×をクリックして消すんですが、駄目元で「ウコン」で画像検索すると……これだあ!
 しかしカンナとの違いはぼくには分かりません。それもそのはず、どちらもショウガ目の草だそうです。
 ならどっちだってええんじゃないか、とご婦人を安心させてあげようと思ったものの、なぜそんなものが? というのも、種が落ちて勝手に生えるのではなく、球根で増える草らしいのです。

 もしも誰かがこっそり球根を植えたとなると、あの草がカンナだろうがウコンだろうが、そちらの方が問題じゃないのか?
 報告するのはやめにして、空き地とはいえ他人の土地に勝手に草を植えるようなやつ、この村の住人に……と犯人探しを始め、しばらくするとまた、
「ウコンの力」
とポップアップが出て、じゃあウコンの力にはどんな効能があるの、とクリックしてみれば、「夜のおつきあいが多い方の健康維持に最適です」なんだとか。
 夜のおつきあいってどういいう意味か分かりませんが、「飲んだ次の朝スッキリ目覚められます」とも書いてます。まるで「酒を飲んだ翌朝」をほのめかすような能書きですが、主語、述語の関係があやふやで、「ウコンの力を飲んだ翌朝」とも解釈できそうです。

 まったくぅ、ええ加減なこと書きよってからに、酒飲みに効くならこのオレがとっくに…・・・と、ここまで考えてから、オレが自分でウコンを植えた、いや捨てたんだ! と思い出しました。いまは非常に恥じ入っておりますが、なぜこんなことになったのかは、いずれまた……。そんなことよりあのご婦人、ぼくが犯人であることをつきとめた上で? あぁ怖っ!

陶道は、ろくろのみにて成らずってか?

2009年07月30日 | 陶芸
 ろくろ指(腱鞘炎)が一向に良くならないので陶芸クラブを休もうと思ったんですが、ろくろを使わなければ大丈夫だろうと、手びねりで作品をこしらえました。
 それが、あらま、やってみて分かったのは、ろくろを使う方がはるかに楽だということ。
 そしてもう一つ分かったのは、陶芸クラブの席は厳格に決められているということ。すなわち、クラブの重鎮であらせられる、手びねり専門の要釉斎先生の横にしか、ぼくの座る席は無かったのです。
 陶芸クラブに入会して半年余り、うかつにも今の今までこの二つのことに気が付きませんでした。

「君ぃ、今日は手びねりかね、うむ、殊勝じゃ。陶道は、ろくろのみにて成らず。陶芸は手びねりに始まって手びねりに終わる、という人もおるのぅ」
 座るや否や、さっそく要釉斎先生の講釈、いやご指導をいただきました。
「心がけの良い君に、儂の作品を進呈しよう。作品のモチーフがモチーフじゃ、人様に差し上げるのは少々憚るでのぅ……」
 木の葉型のお皿をひねっていると、先生のお言葉を伴ってぼくの目の前に置かれたのが、写真のコーヒーカップです。

 こ、これぇわぁ……取っ手に関するポリシーの問題もさることながら、幼心にもこのカップのバランスは悪過ぎやせんか?
 作品を前にぼくが固まっているところへ、
「もろとけ、もろとけ、何があってもありがたく頂戴するんぞ」
と、前の席に屯する要釉斎先生の手下二人が、先生の補聴器をスルーしてぼくに呼びかけるじゃありませんか。
 一触即発の空気もきな臭く、「そ、それでは僭越ではありますが、ぼくの手元に……」と、オレは人扱いされてないのか、みたいな疑問を持ちながらも押し頂きました。

 このカップ、見かけほど重くはないんです。が、やはりバランスの悪さは否めません。帰宅してコーヒーを淹れて飲んでみましたが、何かしらしっくりこない。当然というか、コーヒーの味にも微妙な影を落としました。
そういやクラブに初めて顔を出した日も先生の横のあの席で、皿みたいな丼みたいなものをこしらえたっけ……と、不味いコーヒーを口にしながら昔日を振り返って、ろくろしか回してこなかったのに、なぜか手びねりが上達していることに気がつきました。
 きっと土扱いに慣れたってことなんでしょうが、「陶道は、ろくろのみにて成らず」とは要釉斎先生もええこというなぁ! 
 手びねりからろくろに戻ったとき、果たしてぼくはろくろが上手になっているのでしょうか。何か一つの結論が導き出せそうな楽しみがあります。

 あ、陶芸を長くやっている人は、たいがい作品が多く貯まって始末に困ってるんですよね……。

グレン・グールドブームがマイブーム

2009年07月29日 | クラシック音楽
 グレン・グールドといえば稀代のバッハ弾きとして名を馳せ、没後30年近く経ってなお映像入りの新譜DVDが発売されたりしている、カラヤンなどと並んで耐用年数の長い演奏家です。右肩下がりの音楽業界にあってはありがたい存在ですが、皮肉な見方が許されるなら、当代には彼ほどの魅力を満載したピアニストがいない、ということなのかもしれません。

 そういうわけで今グールドブーム。NHK教育テレビ「こだわり人物伝」で「グレン・グールド 鍵盤のエクスタシー」と銘打って彼の魅力を探る番組が8、9月と放送されるらしく、テキストを買ってしまいました。
「声部を明晰に弾き分け、しかもほどよい叙情性を伴いながら音楽は疾走する。そのスピード感や躍動感は、少なくともバッハ演奏としては人々の予想を裏切るものでした」
 ゴールドベルク変奏曲の演奏を評したテキストの一部を引用してみましたが、これはピアノを習う人ならだれでも避けて通れない練習曲 インベンションにもいえるでしょう。ぼくもグールドのインベンションを真似して、どれだけピアノ教室の先生に小言をいわれたことやら。

映像はバッハのトッカータホ短調BWV914、チェンバロで演奏しているものです。
J.S.Bach : Toccta e-moll BWV914-中田聖子


 チェンバロの屋根に鍵盤が写っているので、フィンガリングが良く分かります。鍵盤の上を軽やかに優雅に指が舞っているように見えますね、でもこの曲とても難しいんです。
「HALさん、指は楽譜に明示された時間だけ鍵盤を押さえなくてはいけませんわ」
 ぼくの師事したピアノの先生はこの演奏家のようにお嬢様育ちの麗人で、物腰も柔らかに指導してくれたもんです。
「でも先生、それを守るとすごく窮屈なんですけど……」
「バッハを弾きたいんでしょ、だったら厳密に……はぁ、ペダルを使う?」
 ペダルを踏めるショパンなんかの曲なら鍵盤から指を離してもへっちゃらですが、ことバッハに関してはそんなこと許してくれません。
「HALさん、あなたねぇ、バッハを弾く姿勢がどうのこうの……」
 先生が変なところにこだわるB型人間だったからではなく、バッハはかくあるべし、と約束事が多いんです。

さて次はグレン・グールドの演奏です。
J. S. Bach - Toccata for Clavier in E Minor BWV 914 - Glenn Gould


 これって叙情性を伴った躍動的な演奏に聴こえますかね。むしろ叙情性を排したストイックな演奏じゃないでしょうか。これはたぶんこの曲自体の、旋律同士の対話がエモーショナルだからかもしれません。チェンバロのために書かれた曲をそのままピアノで弾くと、表現過多になるということでしょう。強弱を弾き分けられないチェンバロの演奏の方が、ダイナミズムに富むピアノの演奏より激情的に聴こえたりするのは、アーティキュレーションの不思議でしょうか。

 グールドを語るとき「叙情性と躍動感」みたいなキーワードはワンセットですが、そうとばかりもいえないでしょう。
「大人になるとモーツァルトが弾けなくなる」といったのはピアニストの宮沢明子さんですが、グールドの弾くモーツァルトを聴いたら、この人の頭の中ではバッハが鳴っているんじゃないか、なんて思えることがあったりするんです。

「HALさんねぇ、楽譜に書かれてないことはやらないの。あぁ、グールドだぁ? 足を組んでどうすんねん!」
 グールドかぶれのぼくに先生の厳しいことといったら、
「内声を意識せな、声部を弾き分けんかい!」
と、だんだんと機嫌が悪くなって、河内のお嬢さんが丸出しになったこともしばしば。
 そりゃぼくもグールドみたいに鼻歌で内声をうなりたいですよ、でも到底無理でした。今思えばあのころバッハを弾いていたのが夢のようです。

キャットフード出汁巻、変だと言うのが間違ってる

2009年07月28日 | 酒、食
 かつて足しげく通っていた堺市にある場末の飲み屋のカウンターに、ある夜キャットフードの缶詰が並べられていて、さすがのぼくも抗議しました。
「マスター、なんぼなんでも客をなめとりゃせんか!」
 値の張るシーチキンを節約して、こっそりキャットフードで代替するならともかく、客の目の付く所へ、さありげに置くとは許せません。
「あぁこれ、お客さんが間違えて買うてな、あげるからどうにかしいや、いうから……」
 客であるお爺ちゃんの一人が奥さんに先立たれ、自炊を始めたものの上手くいかない。飲み屋に行かない独り酒の夜は缶詰でしのごうかとスーパーに行き、買ったのがキャットフードであったといいます。

「食べてみたら悪くないねん。只であげてもええねんけど、おれも一応商売やし……」
「分かったマスター、みなまで言いないな、お得意のシーチキン玉子焼きやってぇな」
 玉子焼きだけで酒の肴にならんこともないけど、ボリュームに物足りなさを感じる酒飲みは付加価値を求めたがるもんなんです。
出来上がった玉子焼きはいつもより色が濃いものの、カツオのサラダオイル漬けを使ったのと味は変わりません。油ギッシュでないのがむしろ好印象でしょうか。

 ここまで読んで、ゲロゲロ、こいつはゲテモノ食いか! と吐き気を催した方に申し上げたい。人間の食えないものを可愛いペットに食わせますか? いやイグアナにミミズを食わせるからといって、飼い主もそれを食えと言うとるんじゃありません。物事の順位について考察してほしいんです。
 たとえばある日、冷蔵庫の隅で眠っていたチーズが見つかった。いつのか分からんけど、まだいけそう。でも愛犬にやるのはどうよ、なら旦那のサラダに入れてみるか。

 普通の主婦の感覚ならそうなるんじゃないですか? もしキャットフードの注意書きに「子どもの手の届かない所に保管してください」とあったら、だれもそんな不気味なペットフードを買いませんよ。そう書かれていないということは、キャットフードを人間が食べたって、なんら問題はないということなんでしょう。
 どこか重大な欠陥がある論理のような気がしなくもないけど、キャットフードに関しては人も食えると言いたいわけです。

 わざわざ写真をアップしたりしませんが、往時を偲んでキャットフード出汁巻きをこしらえてみました。中国産のペットフードでアメリカの犬や猫が大量に死んだ記憶も新しいので、国産と表示のある缶詰を使いましたが、場末のマスターの味には遠いものでした。只のものを金に換える、錬金術根性をぼくが欠いているのかと思います。

麻生さん、無理してでも視察すれば

2009年07月27日 | 社会
 九州道の土砂崩れ、あんなのに巻き込まれて亡くなるなんて、被害者になんの落ち度があるというんでしょう。「前世で何かあったに違いない」と、前世占師なら導き出せる結論もあるか知れませんが、ぼくなら神も仏も有ったもんじゃないなと悲観します。

先だってあの辺りをバイクで走ったのもあって衝撃的に受け止めてますが、もう1日豪雨が降り続いていたら当地も危なかった。大潮の満潮と豪雨が重なったので、そこいらの畑は水浸しです。真水ならまだしも、海水が逆流しての浸水が堪るかい! もっとも専業農家の畑ではなくて趣味の園芸みたいなものなので、あるいは被害金額をはじき出せないかもしれません。

今回はまだ風が無かったので助かったんです。あれで海からの風が吹いていたら容易に床下浸水していたでしょう。過去に例があるので島役場から視察に来てくれました。彼らが避難勧告を出す以外にどうすることもできなかったとしても、そこはかとなく心強い思いでした。

二次災害の恐れがあるのを理由に、麻生首相は土砂崩れのあった九州道の視察を中止されたとか。賢明な判断かもしれませんが、選挙での劣勢がもっぱらのなか、無理してでも即座に行ったらどうだったでしょうか。麻生セメントといえば地元なんだし、けったいな失言も帳消しになったかもしれないのに。

キリンさんビールを想う

2009年07月26日 | 酒、食
 神社関係の総会があって、最後に直会(なおらい)という酒席が設けられていました。本来は御神酒(おみき)を頂く神事の一つ(今日まで知らなかった)なんですが、供されたのは日本酒ではなくビールでした。

「どうぞ一杯」とビール瓶を傾けられて「すみません、車なので」と無粋な嘘をつく男ではないにしても、運転してくれる人に気を遣って遠慮しました。
「昔は一升瓶がどんどん空になったものですが……」と、飲酒運転に寛容だった往時を懐かしむのは、神職も住職も同じのようです。

 ぼくが日ごろ飲むのがビールもどきとなったのは尿酸値を意識してのことですが、それは酔っ払ったらモドキでも平気だと分かった上でのこと。時代が変わればビールが御神酒に取って代わるように、ビールがモドキになったとて何の不都合があろうや、とはいえ、このモドキを世界に誇れるならビールの本場ベルギーに輸出してみろ、といいたい。(ベルギーの修道院ビールなんかは、ゆっくりではあるけど日本に浸透しつつある。モドキと同じ雑酒に分類されるのに)

「美味しい味噌とそうでない味噌を混ぜてはいけない。不味いものにしかならないから」
 母は、同じ種類の味噌同士を混ぜ合わせるぼくに警告しました。それを無視してみて納得です。不味いもの同士を混ぜ合わせて美味しくすることは可能ですが、美味しいものと不味いものを混ぜ合わせて、元の美味しいものを超えるのは至難です。

キリンとサントリーの提携話が進んでいるとか。だけどもし「キリンサン」なんて銘柄のビールが発売されたら、往年のファンは呑む気がしないでしょうね、どうでもいいことだけど。。。

公募の賞金って、源泉徴収されているんだ!

2009年07月25日 | 童話
 出版社から「怖い話の賞金を振り込みました」と、支払明細書が送られてきました。なんだか中途半端な金額なので良く見たら、消費税と源泉徴収税を差し引いてポッキリになるような金額の設定でした。
つまり「賞金は○万円」と公募でうたえば、出版社が消費税と所得税を支払った上での金額なんですね、知らなかった。

 いつだったか、国税庁職員が納税相談のために島役場にきたとき、連中があんまり暇そうにしていたので質問したことがあります。
「公募に入選したら賞金がもらえますが、申告はしなくてもいいんですか?」
 小銭ばっかりしかもらったことがないので、たぶん必要なかろうと思ったんです。ところが、
「それは一時所得として申告しなければなりません」と、所得隠しを指摘するじゃありませんか。
「え、そうなんだ、じゃあパチンコで勝っても?」
「もちろんです」
「なら賭けマージャンで儲けたのも?」
「それも一時所得となりますね」

 私設賭博は違法なんだから、用心棒代とか縄張り代とかの名目で寺銭をピンはねする組織と、国税庁はどう違うんだろう。
そんな素朴な疑問も湧いたんですが、彼らの態度にどこか身構えるものを感じ取ったので、「さっきゴルフクラブを振るジェスチャーやってたあんた、賭けゴルフで儲けて申告したことがあるんかい?」みたいな追及はしなかったんです。

 賞金が源泉徴収されているということなら、一時所得として申告する必要なんてないはずですよね。サマージャンボ3億円は、消費税と源泉徴収税額を含めると、3億3千3百3十3万円くらいになるんでしょうか。宝くじが当たったと吹聴する人はいますが、一時所得を申告したという正直者に出合ったことはありません。ひょっとしたらあの国税職員たち、鬱陶しいやつを早く追い払いたかっただけなのかも。

それは逢魔時の事故だったとか

2009年07月24日 | 釣り船とバイク
 JAFMate8・9号で、飲み残しのペットボトルを車内に放置しておいたらどうなるか、実験結果が載ってました。車内の平均温度27.1℃では、ミネラルウォーターで二日後、茶飲料で三日後に雑菌の繁殖が認められたものの、果実飲料では三日後でも繁殖していなかったとのこと。
昨日のビールの飲み残しを見つけて、捨てるか、いやとりあえずもう一度冷やしてみて、やっぱりだめか、とやっているぼくとしては、前日の車内放置飲料を前に固まることがしばしばです。冬場なら平気で飲んでいたんですが、どうやら夏場でも翌日はまだOKだと分かって一安心。

バイクで長距離を走っていて何が困るといって、咽が乾いても車のように簡単には水を飲めないということ。自転車のようにペットボトルホルダーを取り付けようと思って百均で買ってはみたものの、どうやって飲めっちゅうねん! よく考えたらぼくのヘルメットはフルフェイスじゃないですか。無理すればペットボトルから飲めないこともないんですが、水を飲む程度の行為に命もかけられず……。

実はこの二十日にしまなみ海道の来島海峡大橋で原付同士の接触事故があり、一人が亡くなられました。
バイク道は橋脚の部分を回避するようにカーブした設計になっていて、そこの見通しが実に良くない。ぼくのバイクは原チャリのように小回りが利かないので、そこにさしかかったらスピードを落とさざるを得ませんが、スクーターの皆さんは結構飛ばしてます。今回の事故もやっぱりそこでした。

事故の起きた午後七時といえばまだ暮れなずんでいる時分、つまり逢魔時(おうまがどき)ですね。暗ければライトで対向車に気付くでしょうが、薄暮ではそれも期待できず、かといって日中ほどの視認性は無い。しかも通勤時間帯でだれもが急いでいるとなれば、いままでこれほどの事故が起こらなかった方が不思議と言えばそうかもしれません。(事故の時は雷雨だったかも)
警察が橋の手前でバイクを止めて啓蒙活動をしているようです。ぼくも他人事ではないので、皆さんも徐行ライディングを願いたいもんです。

ところで今度の選挙で民主党が大勝したら、もしかして橋の通行は無料になるんでしょうか。そうなったらぼくが125ccのバイクにまたがっている意味が無くなるじゃないですか。250のバイクを買えば危険なバイク道を走らなくても、無料の自動車道を走ればいいからです。
その可能性をある程度の期待はしておきながら、うっかり125ccのバイクを買うとは、なんという先見性の無さ、見とおしの悪さは逢魔時の渦中にもがくがごとき。かくなる上は守護霊と友好関係を築いておかねば、と思ってはいるんですが……。

血だらけの幼子とか、偏屈爺さんにしがみつかれ

2009年07月23日 | 陶芸


 漁師の親方に4時半に起こされて釣りに行きました。写真はイソベラを釣り上げる寸前のもので、魚のお腹がプクンとふくれているのが分かるでしょうか。30メートルくらいの深さから引き上げるので、ほとんどの魚は潜水病を患ってしまいます。小さいのが釣れたからといって、「お父ちゃんとお母ちゃんを連れてこんかい」とリリースしてやっても死んでしまう確立が高そうです。
 そんなことより、船上でカメラを構えているぼくが水面に写ってますけど、その背中に血だらけの幼子がしがみついているのが分かるでしょうか。怖いですね、嫌ですね、でもこのネタで怖い話に入選しましたから、幼子ちゃんありがとう。

 幼子の次は偏屈爺さんです。陶芸クラブで井戸茶碗をいくつか挽こうと要釉斎先生に断りを入れました。
「君ぃ、茶をたしなむのかね、なに、やらない? ではなぜ井戸茶碗なぞ挽くのかね」
 そんな言いがかりをつけられるかと思いきや、
「あそう、君は何でも好きなように挑戦してみたら良かろう」
と、木で鼻をくくったようなあしらいをされてしまいました。

 お許しが出たと解釈して、1ダースほどの井戸茶碗風味のものをこしらえていたところ、
「井戸はスックとした立ち姿が肝要じゃが、それでは御本茶碗じゃ(←変換ミスではない)」とか、
「見込みが狭い! それでは大井戸でのうて古井戸じゃ(←変換ミスではない)」
と、なにやら横槍、いやコーチが入り始めました。
「え、でも先生、好きなように作れとおっしゃるから……」
「君ぃ、物には基本というもの、古典というものがある。いかに好きなようにといえども、茶人の志をないがしろにできるものではなかろうが!」

 まったく、ああいえば要釉斎とはよくぞいったもの。その後も、
「茶溜まりが無い、高台が低すぎる、口造りが薄い」
と、茶の湯と茶器には一家言のある要釉斎先生のコーチはとどまる所を知らないかのようですが、他の人がいるときにはそううるさいことはおっしゃらないんです。なぜか二人だけになるとああだのこうだのと……。

               

 そんなこんなの試練の末に、なんとか井戸茶碗っぽいものが出来上がりました。
 どれもこれも歪んでいるように見えるかもしれません。下手くそだからじゃないんですよ、わざと歪ませてます、って嘘。これらの半分はまん丸にできなかったんです。物の本に書いてあったので、白土と赤土を混ぜ、砂を混入した軟らかい土で一気に挽き上げたものの、非情に難しかった。
 それで分かったのは、昨日の電話でロクロ子先輩のいった「未熟者が井戸茶碗など挽いていると、ろくろの上達が遅れる」の意味でした。

 傍目に見ると、この茶碗が下手くそだから歪んでいるのか、それともわざと歪ませているのか分からないばかりか、やがて挽いている自分すらどちらか分からなくなってしまう。井戸茶碗なんだから歪んでいようがどうしようが、かまやしないだろう。
 そうやって丸い茶碗すら挽けないのに歪んだものばかりこしらえていると、それがいつしか手になじんでしまい、いざ丸いものをこしらえようと思ってもできなくなってしまう。そういうことじゃないかな。

 危うく道を踏み外すところでしたが、要釉斎先生にしがみつかれたおかげで危地を脱することができました。人はいろんなモノにしがみつかれて成長するんですね。

童話蝕に気がついて

2009年07月22日 | 童話
「おおー、始まった」と整形医院の待合室から歓声が上がった皆既日食のまさにそのとき、「痛い~!」と悲鳴を上げながら、ぼくはろくろ指の治療で注射を打たれておりました。
 手のひらだけでも痛いのに、腱鞘という部分に針が達するので、日常生活に無い痛みも伴うのは、これはこれで新鮮なのでしょうか?

 腱鞘炎というのは治りにくいだけでなく再発もしやすいのだとか。
「そんなときは陶芸を一週間ほど休めばいいんじゃない」
 陶芸の先輩からメールをいただいたんですが、明日から新しい物に挑戦するので休みたくありません。
「大皿を挽くんじゃないし、井戸茶碗(いどちゃわん)を挽くだけだから大丈夫」と返信しました。
 すると、「ちょっと、聞き捨てならんな。なんであんたみたいな未熟者が井戸茶碗なんか挽くねん!」と、抗議声明もあからさまな電話がかかってきました。

井戸茶碗というのは、「一井戸、ニ楽、三唐津」と茶人が評するように、茶の湯で最も良い器とされるものです。形、色、大きさなど、井戸茶碗には多くの約束事があり、それらをクリアしてなおかつ偶然の産物である景色が必須とされている、難物中の難物なのだそうです。
「ある程度は知ってるけど、だからって作って怒られなあかんの?」
 なにも大阪から電話で叱り付けられるほどイリーガルなことじゃないと思うのに、
「早く上達したいのは分かるけど、あんたはまだぐい飲み作ってなさい。井戸茶碗なんかに挑戦したら上達の妨げ、遠回り。ぐい飲み、ぐい飲み、ぐ・い・の・み」と、ごり押しされてしまいました。

 そんな嫌がらせもあった後、たそがれ時に2時間ほど出かけて戻ってきたら、宮司さんや漁師さんとか、いろんな来客があったらしく、近所に住む叔母さんがぼくを責めるじゃないですか。
「昼でもない夜でもないこの時間帯は『逢魔が時』というて、出かけるもんじゃないんぞ!」
 子どもじゃあるまいし、うるさいのなんの。今日という日はたかが日食っちゅうだけなのに、まるで天変地異でも起きたみたいに回りの連中が興奮しているとはどういうこっちゃ! 
 憤慨していたぼくですが、いや待て、逢魔が時か、漁師と宮司と茶碗を絡めて怖い話の一つも書けやせんか? と、童話に蝕されて回帰しているいる自分に気がつくのでした。