らんかみち

童話から老話まで

生魚が大好きな犬

2009年09月30日 | 暮らしの落とし穴
生魚が大好きな犬

 生魚が大好きな犬が当たり前にいるこの村です。この雌犬が食べているのは小鯵ですが、クサフグは決して食べません。毒があるって、本能的に分かるんでしょうか。
 
 ある日ふらりと村に現れたこの犬、やがて近所の雄犬のケンネルを間借りするようになったとか。大人しいやつで、避妊手術をされているから飼い犬だったらしい。散歩にも着いて来るので、いつしか雄犬の飼い主も二匹分の餌をやるようになったんですが、名前は与えられたものの依然として野良犬扱いされていました。
 
 しかしいくら野良犬とはいえ餌を与えている手前、予防接種などは責任を持ってやっておかねばと、雌犬を車に乗せようとするのに頑として拒絶する。ははぁ~さてはこいつ車に乗せられて捨てに来られたな、というわけで飼い主も気の毒なことに歩いて保健所まで連れて行くのです。
 
 二頭の犬が仲良く暮らして数年経った頃、寒い夜だというのに雌犬がケンネルに入らない。どうして外で寝るのだろうと不思議に思っていると、朝になって雄犬が死んでいた。
「昨日まで普通に食べて普通に散歩していたのに、満月の夜は生き物の身に何かが起きるっていうけど、本当なんじゃんねぇ! それと、犬は誰かが死ぬ前には寄り付かないっていうけど、あれも本当なんじゃねぇ!」
 飼い主は言い、雌犬と二人してしばらく落胆する日々をすごした後、正式に飼ってやることにしました。
 真新しい首輪にマジックで名前を書く飼い主を座ってじっと見つめていた雌犬は、やがて飼い主が首輪を広げると自ら首を通しました。リードを付けられ、尻尾をふさふさと揺らしながらいつもの散歩道を先導するその姿は、いかにも誇らしげでした。

陰陽師の力をもってしても魔女の呪いは

2009年09月29日 | 童話
 昨夜はお坊さんのとり行う仏事、今朝は神主さんのとり行う神事、とまあこの季節にはお祈りやらお祓いやらの行事が目白押しですが、それからもう少ししたら牧師さんとか神父さんとかっていう方々も参入してくるんですよね。それが済んだら恵比寿さんとか……。
 
 写真は空き家の神棚に向かって宮司さんがお祓いと祝詞を上げてくださっているところです。田舎の人は信心深いので、空き家になっていても家主さんはこうして御神楽と書いた熨斗袋に千円を入れてお祓いしてもらうんですね。
 
 
 

 話は変わるけど、お師匠さまの新刊が2週間前に発売されたんですが、売ってないんですよ、今治には。早く買わないと「弟子の分際で!」どころか「それなら進呈しましょう」とおっしゃりかねないお師匠さまなんです。それこそ弟子の分際で言わせることじゃなかろうと探すのに、しかも青い鳥文庫みたいなメジャーな本なのに、どこにも置いてない。
 
 
 
 ぼくは常々「お師匠さまは魔女なのではなかろうか?」と訝ってきたんですが、いくら田舎だといって新刊書が見つからないなんておかしい。ぼくが入選した文庫本ですら出版直後はこの田舎の本屋でも平積みになっていたことを思うと、お師匠さまは何らかの魔法を自著にかけたのではなかろうか。
 
 この期に及んで、お師匠さまはやっぱり魔女なんだ、と確信しました。というのも、徳の高いお坊さま、強力な呪術を持つといわれる陰陽師と付き合っている甲斐も無く、魅入られたように2時間もかけて童話講座に通っているからです。
 思うに、魔女の呪いとか魔法を解くことができるのは「愛の力」と相場が決まっているなら、お経や護符、結界みたいなものは何の役にも立たんのじゃないでしょうか。

 妖であるとか魑魅魍魎といった類は国産の魔物としたもんで、あちらの国の、しかも生きている魔女いうのは一筋縄でいかない。べつに呪われているとは思っていないんだけど、あぁそうか、気がついていないのは既に呪いをかけられている証か! 愛の力よ、そは何処に……。

今夜はおたっきー

2009年09月28日 | 暮らしの落とし穴
 お焚き上げというのはきっとあれだな、男を作って家を出て行った女房がクレーンゲームでゲットしたぬいぐるみとか、他の兄弟に比べて不当に少ない遺産を分与された腹いせに、親父の仏壇を焼き払ったりして精神的勝利者たらんと目論む連中のための行事、と思っている人がいるなら、それは間違いでしょう。でも、お寺のお焚き上げに家庭ごみを持ち込む不届き者がいるのは事実のようです。
 
 思いのこもる遺品、霊魂が宿っているであろう人形、怨念の居座る仏壇などなどから、故人を偲び礼を尽くして魂を抜き、浄火によって天界へ還す行事、と考えていいのでしょう。早い話が、不用品処理に手を下すのをはばかる場合に、お寺さんの助けを借りようということでしょうか。今夜も菩提寺には塔婆やら仏壇を運び込んだ人たちの前で和尚様が経を唱え、お焚き上げは厳かに執り行われたのでした。
 
 お寺の世話人を賜っているからといってお焚き上げにぼくが出る必要はありません。しかし和尚様とはときどき酒を酌み交わす仲というだけでなく、勝手にエッセイに登場させていただいたりといった罰当たりをしているので、浄火していただこうかなと写真など撮影してみました。
 ただでさえ蒸し暑い夜なのに、業火のように燃え盛る前でのお勤めはご苦労様でございます、というか、ボランティアで寺男役をしてくださった方々にお礼申し上げます。

武蔵の引退試合を観損なって飲んでいたのはスダチ酎

2009年09月27日 | 酒、食
 K1にはあまり興味がないので観忘れてしまったけど、武蔵の引退試合だと知っていたら必ず観たのになぁ、残念! 武蔵とは会ったことないけどお父さんとは場末の飲み屋の飲み仲間でした。彼は武蔵の試合の前にはたいがい飲み屋に来て「息子の試合を観てやってね」と告知して回ってた。それでも観忘れたぼくだから今回も失念して当然だけど、お父さんの姿が映るとしたら「オヤジさん、よくぞ息子を育てた」と、テレビの前で一言ねぎらいたかった。
 
 武蔵のお父さんはいつも生ビール、秋から冬場はときどき焼酎のお湯割だったかな、よく覚えていないのは、群を抜く体躯をしている割には経済的な酔い方をなさっていたからでしょう。
「オレを中傷するのは聞き流すが、息子を貶めるのは許せん」
 ある程度の酔いが回わったころ、酔客にからまれて激昂していた姿を思い出すなぁ。有名な息子を持っているがゆえに暴れるわけにいかないのを見越して喧嘩を売る、卑劣な酔っ払いどものやっかみから開放されるのを祈ってます。
 
 秋から冬場の酒といえば思い出すのは「スダチ酎」で、2003年に遍路道を歩き始めた秋の吉日、徳島でお接待にいただいたのはレジ袋にあふれんばかりのスダチでした。
「なあテルさん、こんなに持ち歩けんよ。だからといってお接待にいただいたものを捨てるわけにもいかないしねぇ……」
 一緒に歩いていた、金の使い方を知らない、資産家にして倹約家のテル爺に言いつつふと見ると、水道水にスダチをしぼって旨そうに飲んでいるじゃないですか。物をもらうのが大好きだった彼はその後もスダチ袋を抱えて歩き続けたたものの、ついに音を上げて喫茶店の店主にもらっていただきました。
 
 そんなエピソードを、夜になって徳島の飲み屋のママさんに話したところ、「徳島県人はみんなスダチ中毒なんですよ」と。もちろんこれは、それくらいスダチが好きだという軽口ですが、愛媛県人もどうして捨てたもんじゃありません。ただいまぼくんちに大量のスダチがあちこちからやって来るもんだから、始末に困って思い出したのがスダチ酎。
 
 市販のスダチ酎を買って飲んだことがあったけど、瞠目に値する不味さにショックを受けて場末の飲み屋に捨てに行ったことがあり、それ以来スダチ嫌いで今に至っている。そんなトラウマを克服するチャンスが到来したかな、と前向きに考えて山と積まれたスダチを前に、「芋粥、芋粥」と、芥川龍之介に思いを馳せながらスダチ酎を作って飲み、あれ? 美味しい!
 
 どうしてあのときのスダチ酎が不味かったのか、いや不味く感じたのか、恐らく期待に舌を膨らませて飲んだからでしょう。でも今回は、不味いかろう飲めなかろうと決め付けていたから美味しいと感じたに違いありません。いやそれとも、酒の味なんてどうでも良い歳になったんかなぁ……。

漁師をやるって大変なんだよ

2009年09月26日 | 暮らしの落とし穴
 お祭りの準備委員みたいな役を仰せつかっているので何かと忙しい中、釣り船を降ろすことになりました。釣り船にも「船検」というのがあって「車検」よりいい加減で馬鹿馬鹿しいものを受けた後に船を海に浮かべることが許されるのです。
 
 船に乗るというのは車を走らせるのよりずっと危ないといってかまわないでしょう。いろんなケースがあるにしても、車が故障したって止まるだけで死に直面するわけじゃない。でも船が止まるというのは、漂流、沈没の危機に直面しているのです。
 
 車なら「車検を受けたのに止まった」と主張すれば自己責任は回避できるかもしれないけど「船検」は小型船舶検査協会の品物を揃えているかどうかの検査に過ぎません。要は小型船舶検査協会なんて、○○省からの天下り受け入れ機関以上のものではないとしたら、早い話が自分の身は自分で守るしかないのです。
 船底塗料というのを必死で塗ったんですよ、寝そべって。船らしくなったものの、炎天下の中、この時点で死ぬかと思ったんですが、まあとにかくがんばってみます。

年寄りと暮らす日々の反省、嘘を質そうとするな

2009年09月25日 | 暮らしの落とし穴
 母が「捨てた」と言い張っていた裸麦が流し台の隅から見つかって、「ほれ、こんなところに仕舞い込んで忘れとるんじゃないか」などと詰っても意味はありません。混乱する頭で考えた末の「捨てた」という出まかせなら、言い訳するためにまた嘘をつかせることになってしまいます。
 
 全ての年寄りがというつもりはないけど、総じてお婆ちゃんはとっさの言い逃れが実に上手い。一見すると理路整然としたもっともらしい「わけ」を瞬時に返されるもんだから、ついつい騙されてしまう。しかし良く検証してみると、どこかに欠陥のある論理の上に構築されている「理由」など底が浅い。それを追及すると、次から次へと新しい「理由」を考え出すのでいくらやってもきりがない。
 
 1年くらいこういったことを続けてみて、母が嘘をつかないといけない状況に追い込んでいるのは、ぼくじゃないか。いくら問いただしても分からないものは分からないし、嘘をつこうと思って嘘をついているんじゃなく、怒られるから嘘をつくことになる。嘘がばれて怒られるからまた嘘の塗り重ねをする。その繰り返しを断ち切れる、もしくは悪循環の発生を回避する権限がぼくの側に委ねられていたのだとしたら、なんという愚かな振る舞いをしてきたんだろう!
 
 反省はしてるんですが、日々の暮らしの中では腹立たしいことも少なくないので、毎日のように反省しなきゃいけないのです、はい。そんな罪滅ぼしじゃないけど、母にご指導を仰ぎながら今日も麦味噌つくりをしました。本当のところ母は味噌つくりを教えたくはなく、自分でつくり上げて賞賛されることによってアイデンティティーを確認しているんですが、材料の増減に対応できないのでやむを得ないでしょう。
 
 今回の材料比は、麦:650g、米麹:300g、麦麹:60g、大豆:500g、塩:230gです。残っている材料を使い切ろうとするからこういう中途半端にことになるんですが、凡そ2,5kgの出来上がり予想で、大豆の煮汁はそのときの気分で増減させるつもりです。
 今日のところは麦の蒸しから麦麹の種菌付けで、種菌は昨日使ったやつの残りです。いつも使っている麹菌は農協で買っているんですが、専門店の菌はかなり違う趣の菌みたく来年まで取って置こうかなんて考えてます。

手造り田舎味噌を仕込んでみました

2009年09月24日 | 酒、食
 母の醸した味噌は案じていた通りカビが生えて失敗に終わりました。有毒なカビじゃないらしく、食べてもどうってことないしカビの生えた味噌で漬物を漬ける人もいるんだそうです。とはいっても失敗は失敗なので、塩の分量がわからなくなった母の落胆することもはなはだし。しかし失敗したのは塩分濃度の問題ではなく、別の要因であろうと思われます。というのも、ぼくが1kgだけ取り分けて別の方法で仕込んでいる味噌は健全だからです。
 
 自家消費のだけでなく依頼を受けて仕込んでいる分もあるなら造り直さないといけないのに母いわく「残りの麦は縁起が悪いから捨てた」と。急きょネットで味噌屋を探して麦麹を発注しました。
 昨日頼んで今日の到着なら、大豆は前日から水に漬けておきましょうと、そして今朝から圧力鍋で煮たんですが、鍋が小さいので往生しました。
 
 
 
 米麹は前に醸した残り、そして今回買った麦麹と塩を混ぜておき、煮大豆をつぶしてさらに混ぜ込みます。分量は乾燥米麹1kg、生麦麹1,2kg、乾燥大豆1kg、塩450g、大豆の煮汁200ccです。
 
 
 
 これでちょうど5kgの味噌を仕込むことができました。塩分濃度は9%ですので、やや甘めでしょうか。これを団子状に丸めて隙間ができないようにタッパー容器に詰め込んでおしまい。
 
 
 
 でもこれは伝統を踏襲した母の手造り麦味噌とは全く異なったレシピで、合わせ味噌と呼ばれるものじゃないでしょうか。去年ぼくが作ったのと同じ中途半端な味が見込まれるけどそれでかまわない、合わせ味噌なんだから。それに去年のを冷蔵庫から出して母の味噌とブレンドして一月経ったら全く別物のように美味しくなったんです。熟成が進んでいなかったんですね。
 問題は去年もそうだったけど、うちの麹菌と別の麹菌を混ぜ合わせてもいいのかなぁ、人間で言えば肌の色が違うくらいだとして、ここは一ついいことにしておきましょう。「混ぜるな危険」とは明記していないのだから。

環境保全と、環境保護は違うものなの

2009年09月23日 | 社会
 自然保護と自然保全という二つの言葉は、字面が違うだけで同じようなもんだろうと思ってきたんですよ。
 ダムとか埋め立てとかの公共工事に面と向かって楯突いて「トラスト運動をしましょう」みたいなことを血管が切れそうになりながら叫ぶ人たちって、なんだか近寄りがたいところがあるじゃないですか。
 寄付とかボランティアとかに縁の無かったぼくとしては、保全か保護か知らんけど、できることなら避けて通りたいし友だちにもなりたくない人たちなんですが、いざ自分の村に災難が降りかかると頼りになる方々です。
 
 詳しいことを書く気はないんですが、田舎とか離島とかって所はゴミ捨て場にうってつけなんです。息子は都会に出て働いているし、老い先短い身で蜜柑つくりなんていつまでやれることやら、ならいっそのこと田畑を売り払って余生を楽しもうじゃないか。そんな心理を巧みについてかどうか、産廃の処分場みたいなものを島に作りやすいわけです。
 
 そんな行政と業者の蜜月の犠牲になって苦しんでいた我が村も、環境活動家の援助もあって平穏な暮らしを取り戻すことができました。当時ほくは島におらず、陰ながらの応援を余儀なくされた悔やみから、寄付金だけは続ける幽霊会員として名を連ねているんですが、つい先ごろ実際の活動に引っ張り回される羽目になりました。
 
 今回の活動は「瀬戸内海における海岸生物の生息状況調査」ですが、瀬戸内法という法律の定義する瀬戸内とは、九州の一部及び山口から和歌山までを含むんだそうで、非常に広範囲の調査になるんだそうです。何をするのかといえば、イボニシのように環境の変化で性転換する生物や、海の富栄養化によって増減する生物の数を数えること。そんな潮干狩りみたいなことに県会議員や市会議員が来られたのには驚きました。
 
 議員さんや専門家と磯を歩きながら、カチカチとカウンターでもって数を読んでいくのはしんどいけど、田舎に生まれながら名前すら知らなかった生物についての講義を聞いたりするのは結構おもしろい。
「お金が儲かるわけではありませんから、環境活動というのは楽しくないと長続きしないのです」
 専門家の言葉を聞いて、なるほどって感心します。怒りや恨み、妬みや嫉みという感情も人を突き動かす原動力にはなるでしょうし、生きる支えにもなるのでしょう。
 
 民主政権に変わって、ダムなどの大型公共工事が頓挫して反発も起きているようですが、これらの善悪は今の時点で誰にもわからないと思います。いま必要のないダムを建設する愚は明らかでも、将来は必要になることだってあるか知れない。それに、鉄鋼スラグのようなゴミ処理に大型公共工事はうってつけなんです。
 
「あなたの書いたエッセイを読ませてください」
 議員さんはおっしゃるけど、ぼくが書いて入選したエッセイは必ずしも環境保護とか保全の立場から書いたものじゃない。保全、保護、開発、それぞれ対立するアイデンティティーを持ちながらも皆それなりに歩み寄れるのではないか、つまりは気合の入ってない幽霊活動家の立場から書いたものなら、恥ずかしゅうて見せられるかい!

梅華皮(かいらぎ)を削りで出すのか、塗りで出すのか

2009年09月22日 | 陶芸
 前回の窯入れテーマは「削りでカイラギ出し」でしたが、今回は「塗りでカイラギ出し」がテーマです。焼きは前回同様、素焼き無しの釉薬生がけです。
 削り出しというのは、作品がかなり軟らかいうちに高台を削ることによって器胎の土表面が荒れ、釉薬がくっつきやすい部分とそうでない部分ができる性質を利用している、らしい。プロ陶芸家の受け売りをするならこういうことですが、要は削るタイミングと道具でカイラギが出るかでないかが決まるようです。木を削るカンナと同じ向きに刃を削ったカンナを使ってもカイラギは出ないようです。
 
 今回は塗り出しですが、釉薬の塗り方のことではなく、素焼きしてない器胎に異物を塗りつけることによって、釉薬の乗るとこ乗らないとこを作り出してみようと目論んでみました。
 歯磨き粉、クレンザーなどなど色々と試した結果、何を塗ってもカイラギは出ました。いうまでもありませんが、撥水剤を塗れば100%出ます。しかし異物を塗っても出ない場合があって、それが削り具合なのか窯の温度なのか、あるいは釉薬の種類と掛け方なのか、要因は定かではありません。そうはいっても、削り出し技法と塗り出し技法を併用したものの全てにカイラギは出ました。
 
 不思議なのは、異物を塗った部分にカイラギが出なくて、そうじゃない部分に出るものがあったこと。写真のゴブレットがそれで、下半分に蕎麦粉を水に溶いて塗ったのに、上半分がカイラギ化してやがる。しかも上半分は削りもしていないのに。
 
 それと今回の温度設定は1230℃でしたが、おおむね焼けすぎ。茶碗は釉薬に白萩を塗って白くなるはずだったのになんでぇ、薄かったのか? 平津土灰、天目はカイラギにならず、逆に蕎麦釉は飛びまくりで釉薬をかけてないみたいな焼き上がり。しかも溶けて流れた釉薬がシャモットにくっついたやつがあってサンダーで削る羽目に、ショック甚大!
 
 今回は隣の新窯に入りきらなかった他人様の作品も収容したので、そちらに配慮した設定温度と上昇率を心がけたゆえの失敗と思われます。ただし焼き物の完成度という点でなら、生焼けの前回より上出来であることは叩いた音を聴いて疑いようもありません。
 なので今回と前回の中間の焼きを実現してなおかつ品の良いカイラギが出てくれたら最高なんですが、カイラギばっかり追求して出来損ないを大量生産するわけにいかない。あと少しというところまで来ているはずなのに、ここで一旦ピリオドを打つかどうか、悩ましい。

梅華皮(かいらぎ)の出し方、レッスン2

2009年09月21日 | 陶芸
 小春日和の今朝は待ちに待った窯出し。ティーグランドに立つ前はアンダーパーを目指して意気揚々とプレーを始めるものの、帰る頃にはすっかり落胆しているゴルフと同じで、陶芸も窯を開けるまでは期待に胸を膨らませているのです。
 
「うむっ、君の作品群の中に一つだけ茶を飲んでみてやっても良いかなと思う作品がある」と、ぼくが窯から作品を出し終えるや、テストピースをこっそり窯の隙間に仕込んでいた陶芸クラブの重鎮、要釉斎先生がおっしゃいました。
「そ、そりゃ本当ですか先生。で、その茶碗はどれでしょう?」
 要釉斎先生が他人の作品を褒めるなんてことは滅多にないことですから、ぼくも浮き足立って聞いたのですが、
「それは自分で考えてみるが良かろう、君の勉強のためを思うて言うておるのじゃから」と、もったいつけてぬか喜びをさせてくださいます。
「う~む、ラーメン鉢もたくさん出来て、君もラーメンを食べるのが楽しみじゃのう」
 結局はぼくの井戸茶碗群をラーメン鉢呼ばわりして帰って行かれたんですが、敬老の日だからムカつくところであっても穏便に済ませておこうと思いました。
 
 そういや敬老の日を迎え、下の姉からひ孫の写真やらなにやら、母へのプレゼントが贈られてきました。上の姉からも母へのプレゼントが届き、いそいそと開封した母が、「ゴキブリ・ホイホイ……?」と固まってしまいました。
 そうなんです、出てきたのはゴキブリ・ホイホイ。もちろん新品で、ゴキブリが捕獲された形跡は無いけど、何ゆえ? 不可解な物を送ってくる上の姉ですが、とりわけ奇妙なプレゼントです。敬老の日を前に母の顔が頭に浮んだからといって、どうしてゴキブリを連想したのでしょう。今日一日ぼくが頭を悩ませて出した結論は、ぼくの日記ネタを提供してくれたのでないとしたら、姉は何も考えていないのだ、ということでした。ぼくにはそれしか思いつきません、だって熟考の末にチョイスしたのがゴキブリ・ホイホイでは、余りにも姉が可哀想で……。
 
 陶芸作品の梅華皮(かいらぎ)の出し方について考察してみたことを書こうと思ったけど、今日は色々と疲れることがあって明日に回します。