らんかみち

童話から老話まで

ゴングが鳴らされる前のタオル

2009年11月30日 | 童話
 童話キャンプを明日に控え、8作品の合評ともなると寸評を書くだけで一苦労です。それにしても皆さん上手い! 最も頭数の揃っている泉北ブランチ、今回も大挙して参加されるんですが、合評作品は二つ。ちょっと寂しいけど、口数だけは多勢に無勢の窮地にぼくらは立たされるでしょう。
 しかし広島ブランチの作品はどうよ、ぼくなんか既に鉛筆に白旗立てて振っている有様です。とはいっても戦いの場に赴くわけじゃなし、懇親会だし、再開の場だし、観光だし……と、早くも逃避を企図、ゴングが鳴る前にタオルを用意しております。

仲良きことは美しき哉、かな?

2009年11月28日 | 陶芸
 要釉斎一派の素焼きに屯する日、ちょいと顔を出して先生の急須を勝手に焼き上げたのを糊塗しないではおれません。
「先生、どうしても先生の急須が欲しくなって焼いてしまいました」といえば角は立たないけど、「では進呈しよう」などと本意でない展開になっても困る。いや本当に困る、っていうのは、あの急須で茶を点てて飲んでみたんですよ、そしたところ、先生が半世紀以上も陶芸家と茶人の草鞋を履いた甲斐も無く……早い話が使るような代物ではなかったのです。
 
 窯場をのぞいて驚きました。旧窯の前に先生が、新窯の前には手下二人が陣取って両方の窯を焚いているじゃないですか。二つの窯を稼動させるほどの数を作り上げているとは到底思えない、ということは、手下二人が旧窯をこよなく愛する要釉斎先生に反旗を翻し、新窯に自分たちの作品を詰め込んだに違いありません。
 
「せ、先生、実は先生の急須を勝手に焼きまして、そのぅ……」
 恐る恐る切り出したところ、
「ほぅ、そんなものがあったかいな……」と、気の抜けたような返事が。
 先生は惚けているわけではありません。実にかくしゃくとし頭脳明晰、口捌きの腕前も昔取った杵柄。とにかく黙ってやり過ごしてくれるとは思えないのに、一体どうしたことか。
 手下二人は先生に背を向け、先生は二人の背中に視線を突き刺し、微妙な距離感が醸されている、ということは、とんでもない緊張の只中にぼくは土足で踏み込んだのやも……。
 
 ぼくと先生との実りの無い会話が弾んでいたところ、手下の焚く新窯から黒煙が噴出しました。
「空気口をもっと開けたまえ!」と先生が激を飛ばし、
「いえ、空気口を開けてはいけません、ダンパーを閉めてください」とぼくが言うや、二人は先生の指示ではなくぼくに従うじゃないですか。もちろん正解はぼくの方、数日前に経験して冷や汗をかいたばかりなのです。
 そ、そこまで険悪になっているのか! とびっくりしました、がしかし、このハプニングで緊張していた状況が一変しました。手下は先生をねぎらい、先生は二人を激励する、というグルーミングのごとき友愛の光景が現出したのです。
 
 ま、なんにしても一派が仲直りできて良かった。これからは「仲良きことは美しき哉」と、窯場に張り紙をしておかねば。

孤高の窯出しに、乾杯!

2009年11月27日 | 陶芸
 素焼きは翌日に窯出しできますが、本焼き翌朝の窯はまだ100℃以上の熱を持っているので作品に触れることすら危険です。よしんば触れたとしても、窯を開けたことによって急冷され、作品にクラックが入る恐れがあるんです。翌日に作品たちと対面したいのはやまやまなれど、昨日のHALもじっと我慢の子でありました。



 今日は例によって独りでの窯出しですが、ぼくなら他人の窯出しにも立ち会いたいですね。どんな釉薬をどんな粘土にかけて窯のどこら辺りに置いたか、焼成温度のグラフはどんなカーブを描いているか、窯の各部分の調整はどれほどか。その結果どんな色調に焼きあがったのか、などなど学ぶべきことはいくらでもある、なのに誰一人として窯出し立会わないとはこれいかに。

 それはさておき、徳利、ぐい飲み、ビアグラス、ゴブレットなど窯から出るのは酒器ばかり。自分で使いたいものだけを作っているので勢い酒器ばかりとなるんですが、1年前はぐい飲み一つこしらえるのに1日がかりだったし、徳利なんて夢のまた夢だった。徳利を作れるようになっても実用的なものはなかなかできなかった。でも今日窯から出した徳利はちゃんと使えるものです。



 ここに至るまで1年の時間が必要だったことを思えば祝杯もの、なのに今は断酒中ときた。せっかくの断酒なのにここで止めては……しかしこんな日のために酒器を作っているんじゃないか、そうかそうだよね、じゃあ乾杯!
 独り芝居ってのも侘しいもんですが、酒は不味くない。自分の酒器に盛ったからといって安酒が美味しくなるはずもないので、断酒明けだからでしょう。
 写真の急須は、ぼくが勝手に焼いて勝手に修理した要釉斎先生の茶器です。先生は明日が素焼きだけど気がつくかなぁ、余計なことやっちまったなぁ……。

発情犬のいる陶芸クラブ

2009年11月26日 | 陶芸
 陶芸クラブに顔を出すなり、オス犬がぼくの足にグヮシっと絡んできました。いつもなら適当に距離を保っているやつなのに、どうやら発情期とみた。
「あんた生理きたんか?」って、飼い主のおばちゃん。
「はぁ?」
「じゃなかったらメス犬なでまわしたか?」
 どっちでもないって、いうか男の更年期じゃ!
 猫かわいがりされているバカ犬の毒気に当てられ、本日はロクロを回す気がそがれてしまい、手びねりでぐい飲みを一つこしらえただけで、あとはおしゃべりの相手をして終えました。

「残念じゃが、中学生は新フルエンザで学年閉鎖じゃ、フォッフォッフォ」
 本来なら中学生の陶芸授業を受け持つはずだったクラブの重鎮、要釉斎先生としては、したり。感染したのか回復したのか分からない中途半端な状態が最も危険であるとのお考えのようです。といっても一か月延期されただけで、危機が去ったわけでなし、先生もぼくも最終的には染るんでしょうね。

 ぐい飲みは国宝の井戸茶碗「喜左衛門」の写しですが、手びねりでもやっぱり難しい。売っている「喜左衛門写し」にしても似ても似つかないものだったりするから、プロでも難しいんだろうか。クラブのメンバーとその辺のことを話してもかなりずれている、というよりほとんど感心がないのか議論にすらならない。茶人を謳う要釉斎先生にしてもロクロに関心がないし、スケベ・マグカップに夢中なので国宝なんぞクソ食らえ。犬には絡まれるし、どっか陶芸教室の門でも叩こうかしらん。

童話窯の詰め物としてのぼくの作品

2009年11月25日 | 童話
 窯のある小屋に横殴りの秋雨が打ち付けた昨日、素焼き作品に釉薬をかける作業は厳しかった。小物がたくさんあったのでしんどかったんですが、それでも窯の半分程度しか埋まりません。前回の焼き直しのために識って空けておいたのですが、いざ焼き直しを詰めてみたところ依然として余裕、というより無駄な隙間が残ります。
 陶芸窯というのは満タンに詰め込んで始めて本領が発揮できるように設計されていて、空きスペースは禁物です。どうしても作品で埋められないなら、石ころとかレンガといったもので空間を満たしておかねばなりません。
 
 焼き直したいのはいっぱいあるんだよな、全部持ってくりゃ良かったけど、一度焼いたものに再び手をかけるなんて、ふられた女に未練がましく付きまとうようなもんなら、ぶざまなマネができるかい。

 詰め物は棚板の足でもかまわんけど芸がないなと、ふと見れば要釉斎先生の急須が足元に転がってるじゃないですか、それも釉薬をかけたままの。先生が自身で急須の取っ手をポロリと折ってしまって以来ほったらかしている作品です。
「先生、どうしてあの急須を放置しておられるのですか」
 邪魔になるってこともないんですが、足元に転がしていると割ったりする恐れがあるので、気になって聞いたことがあります。
「あれかね、あれは戒めじゃ! 下手な造作をした自分自身への戒めとして置いておる。あれを目にするたびに身の引き締まる思いをするでな」
 そういうことなら、戒めの呪縛から解いてさしあげようじゃないか、というわけで窯の詰め物にしてやりました。
 
 要釉斎先生の急須を石ころ扱いしながら窯を焚き、8時間の長丁場に備えて持参した童話キャンプ向けの作品を読みました。ぼくのを含めて6作品ですが、そのうちの5作品は名前を伏せても作者を当てられます。「らしさ」とも形容される作風というのは、そうそう変わらないんですね。
 そんな中にあって、こりゃすごい! と思わず喝采を送りたくなった作品があるじゃないですか。気になる点はいくつかあるものの、「公募に入選した作品である」とハッタリをかまされなくても、合評の構えで読んでなお引き込まれたなら白旗を揚げよやないか、というくらい面白かったんです。
 
 ぼくも5枚作品を出しているんですが、合評という窯の中の空間を埋めるためだけの、要釉斎先生の急須みたいな位置づけになろうかと……。合評窯の中で焼かれてへたる作品は焼き直すに値しないのですが、下手な童話を書いた自分自身への戒めとして、晒し者に甘んじようかと思います。

お師匠さまもすなる「とり野菜みそ」なるものをしてみんとてするなり

2009年11月25日 | 酒、食
 お師匠さまによると、テレビのメジャー番組でテレビ金沢の美人局アナが「とり野菜みそ」を紹介したところ、売り上げが急上昇したとか。「とり野菜みそ」もついに全国ネットで知らしめられるほどにまで有名になったか、それともテレビ局もネタに困ったか、いずれにしても「とり野菜みそも」が関西方面でも入手可能になるのは、名古屋の味噌煮込みうどんがメジャーになった次にうれしい。

 能登の郷土料理「とり野菜みそ」は今から10年ほど前にもブームがあり、大阪のファミリーマートで「とり野菜みそラーメン」を謳ったカップ麺が発売されたものの、冬場の2ヶ月ほど売っていただけで、「カップヌードル」のようにロングセラーにはなり得ず終いでした。
 そりゃそうです、あれは単なる味噌煮込み、いうなれば豚汁みたいなものとさして変わらんのです。ただ、あの味はまつやさんの「とり野菜みそ」用味噌でしか味わえないのも事実。
 
「野菜をとる」の意味で名づけられたとのことですから、野菜は何をチョイスしても味噌に拒まれることはありません。地元能登ではキャベツで食べさせる食堂もあり、これがまた旨い。鶏肉は定番ではありますが、豚肉を使っても構わないどころか、オージービーフを奢ったからといって「うし野菜みそ」とは呼ばれることはありません。能登で「まつや」さんの「とり野菜みそ」用味噌を使う限り、どこまでいっても「とり野菜みそ」なのです。
 
 入手方法などは「まつや」さんのHPでつまびらかにしていただくとして、ぼくは下の姉から送ってもらって「とり野菜みそ」用味噌を常備しているので、通常のを母向けに作り、「ピリ辛味」をブレンドしたのを自分用にこしらえました。
 あり合せの野菜と若鶏のもも肉、トッピングには「とり野菜みそ」の尊厳を貶めない程度にキムチを頂き、キムチ・チゲ風を気取ってみることとしました。
 作るときのポイントは特にありませんが、味噌は能書きにある分量を使ってください。かなり味が濃いと感じるかもしれませんが、だからといって薄めると凡庸な味に成り下がるでしょう。スープを飲み干すべきか、やっぱり塩分取りすぎるから止めようか、とラーメンの麺を食べ終わってどんぶりに残された汁を前に考え込むような濃さがベターかと思います。

松方弘樹さんを目指して漁をしたいけど

2009年11月23日 | 釣り船とバイク
「わりゃぁ船を沖につないだままで何しょんぞ、ええかげんで漁に出んかい!」と漁師の親方がねじ込んできました。台風による風波、とくに三角波を舷側から受けるのを回避するために、沖に打ってあるアンカーに船をつないだのは確か10月の初めのころ。あれから二月近くも放ったらかしているぼくの体たらくでは、親方の頭に血がのぼるのもごもっとも。
 今朝からの素焼きを終えるなり2号艇を漕ぎ出して本船に乗り移り、そいつを引っ張り帰って桟橋につなぎました。本来なら2号艇は沖に残しておくものですが、どうも水漏れしている気配があるのです。
 
 本船の方はといえば、舵を取るアームが折れ、あわや漂流かというという試練を海神さまはさっそく与えて下さいました。親方は簡単におっしゃるけど、素人が一人で海に漕ぎ出すって易しいことじゃありません。瀬戸内海にはあちらこちらに暗礁があるだけでなく、潮流は怒涛のように渦巻く場所もあって、だからこそ「観潮船」なんて観光が成立するんです。はっきりいって、ハマチなんかの釣れる場所の激流に抗う馬力はぼくの船にはありません。
 
 俳優の松方弘樹さんが325kgのマグロを釣り上げたと報じられてますが、マグロ漁専用の船から繰り出す鋼のワイヤーロープを、電動ウィンチで巻き上げながら釣り上げるんだと思います。20kgのハマチですら小船を引っ張るといいますから、ぼくの船にあんな大物がかかったら船もろとも海の底まで引きずり込まれないかしらん。
 そんなこんなで瀬戸内海の釣りも命がけ、えっ? もちろん黒マグロは釣れませんが、その子どものヨコワなら釣れます。ぼくの場合は、今のところ漁場に行くまでが命がけなんですけど……。

倒れたほうが立派に育つんだよ、人も

2009年11月22日 | 暮らしの落とし穴
 先週書きかけた「蕎麦を栽培して分かった意外な事実」とは言うけど、初めて栽培したので正しい現象であるか否かは自信がありません。ですが間違いなくぼくの畑では倒伏している蕎麦についた実は、倒れずに育ったものと変わらないのです。倒れたということは折れたということなんですが、死んだわけじゃなく、蕎麦の実が「ぼくがんばったんだよ」とでも言いたげにたわわなのです。
 
 倒伏はまぬがれたものの、水不足でへなちょこに生えたやつもあります。どっちみち枯れるだろうとそのままにしておいたら、真っ当に生えたやつよりも茎が太く、倒伏したやつと同じかそれ以上に、はちきれんばかりの実を結んでいる。信じがたいけど本当のことなんです。
 植物って過酷な環境でこそ実り多きものというじゃないですか。だったら最初から倒しておきゃ良いんじゃないか、という理屈はあるものの、曲がりくねった蕎麦が一本でも混じっていると後の作業性がよろしくない。やはり健全に育った蕎麦が扱い良いのです。
 
 明日は陶芸作品を素焼きします。皆さんに声をかけたのに、例によってぼくと一緒に焼いてやろうと言ってくれる人は現れませんでした。要釉斎先生は中学生を相手にした陶芸指導に気もそぞろ、というより彼らのまき散らすであろうインフルエンザのウィルスに決死の覚悟で立ち向かうとあれば、ぼくの素焼きに口出すどころじゃありません。手下どもにしても、鬼のいぬまに素焼き、とはいかないのは、彼らの作品のほとんどに先生の手がからんでいるからでしょう。
 
 陶芸クラブのメンバーの多くは鍛えた後の余力で作品を作っている、いわば年金で食っている(実生活も)ようなもんなので、新しいものにチャレンジなんて面倒なことには積極的になれないのでしょうか。たとえば作品の埃をとばすのにコンプレッサーを使えば短時間で終わるし、釉薬を混ぜるのだって電動撹拌器を使えばあっという間に終わる。それを口で主張しても聞いてもらえそうにないので、コンプレッサーや撹拌器を置いて帰ったら、ぼくを認めたわけじゃないけど機械の実力を評価して使ってくれているようです。
 
 つまるところ、どうやらぼくは異端の者。ゆるやかに落ち着いた枯れ野の風情と調和を乱すつむじ風みたいなもので、好きにさせてもらっているといえば聞こえはいいけど、実は疎まれているのだ、とようやく気がつきました。
 倒伏した蕎麦のように、陶芸クラブで粘土を練るみたいに揉まれてこそ立派に成長するってもんでしょう、ポッキリ折れてしまわない限り、というかロクロ腰を患ってポッキリ逝きそう!

練炭パーティやるからには

2009年11月21日 | 酒、食
 練炭自殺を応援する、といっても「決して自殺を幇助しようとするものではない」という但し書きが付いたサイトがあったりします。自殺を思いとどまらせたい、という趣旨でもないし、かといってそそのかしているわけでもない。強いて言えば、どうしても死にたい方が滞りなくあちらへ行けるように、失敗しない練炭パーティーのやり方を伝授してさしあげたい、なぜなら失敗すると死ぬほど苦しい目に逢うから、だそうです。
 
 そういうわけで早速ホームセンターに行って練炭七輪とマッチ練炭を買いました。べつに自殺願望は無いけど「練炭、練炭」なんて連呼されたら「練炭萌え~」と、欲しくなるのが人の常じゃないですか。
 コンロが1080円、マッチ練炭1880円でしたが、硫化水素を発生させるのとどちらがより経済的で手間要らずに死ねるんだろうか。どちらも密閉された空間でないと効果がないばかりか、失敗したらどちらも脳に損傷を被って自殺どころじゃなくなりそう。てなこと考えながら、練炭って上から火を点けるのか! より安全に練炭を使うために、練炭自殺サイトを再読してしまいました。
 
 マッチ練炭という名にたがわずマッチ一本で着火するんですが、「1時間ほど外で燃やせ」と説明書にあるとおりにしても、異臭が激しくて屋内に30分も置いたら気分が悪くなって暖房に使うのは諦めました。
 昔々、祖母ちゃんは練炭火鉢で暖を取っていたけど、こんなには臭くなかったけどなあ、もしかしたら七輪に問題があるのか? 中国製の七輪とはいえ、珪藻土という植物の化石を焼成して作っているはずので、ようもや七輪の臭いとは考えにくい。するとやはり練炭の臭いでしょう。ウィスキーでいえば「タリスカー」や「ジョニーウォーカー赤ラベル」のフェノール香に近いものがあるんです。
 
 ウィスキーを呑まないで済むじゃないか、というわけにもいかんので外に出したんですが、練炭って火持ちが良い。いつまで経っても消えないのでもう一度部屋に入れたら、今度はそれほど臭くない。臭いの元が燃え尽きたか、それとも己の鼻が麻痺したか、いづれにしても暖房だけではもったいないのでヲデンを炊いてみました。断酒中だけどボージョレ・ヌーボーも呑んでしまったし、今夜も純米酒をちょこっと。

 死んだ方がどんなに楽か、死んで生まれ変わろうとか、腹いせに死んでやろう。さまざまな事情があって練炭パーティーに走る気持ちも分からんでもないけど、パーティーというからにはヲデン鍋でもかけてみてください。死ぬのがバカらしくなる、かどうか分かりませんけど……そうか、ヲデンが炊けたころには全てが終わっているのか、練炭を焚いてみて初めてそこに思いが至った。

モーツァルト、なぁにが聴く薬じゃ!

2009年11月20日 | クラシック音楽
 JAFMATE(ジャフメイト)12月号を読んでいたら「聴く薬」と題して、モーツァルトを聴いていたら病気の予防に効果がある、などと吹聴しているじゃないですか。埼玉医大の教授がおっしゃるならそうかな、とマジで読んだけど、嘘をつくなこらぁ! 
 教授という権威を笠に着て「身長が伸びる体操」とか「モーツァルトを聴けば病気にならない」だとか、人の弱みに付け込んだ商売すなっつーねん。オレは身長伸ばし体操でぎっくり腰を患ったし、モーツァルトのコンチェルトに苦しんで突発性難聴を患うたやないけ!
 
 牛にモーツァルトを聴かせたら乳の出が良くなるとか、魚の養殖場でもモーツァルト、漬物工場でもモーツァルト。漬物にモーツァルトを聴かせて美味しくなるわけがないだろうが、それはあんたの趣味ちゃうの、とテレビに向かって突っ込むぼくですが、モーツァルトマニアともなると他人の意見なんぞ聞く耳もたずに妄信してしまうのです。
 
Mozart Violin Concerto #3 Cadenza- Tessa Lark

 
 映像はモーツァルトのバイオリンコンチェルト3番K216のカデンツァです。カデンツァというのは、これ見よがしに演奏テクニックを披露する場面で、主に演奏家が曲の主題を盛り込んで作曲します。これの作曲が誰だったか忘れたけど最も多く演奏されるカデンツァで非常に難しく、ぼくもこれには苦しみました。揚句の果てに耳を患った次第ですが、この映像みたいに指使いをアップで見せてくれると参考になる、あのころに見ていればなぁ。
 
 そいつはさておき、教授によると「バイオリンコンチェルトの4番と5番がおすすめ」だとか。3番の、しかも誰が作曲したか分からんカデンツァ、それを弾くっていうのは体に悪い、とモー・コンの被害者として声を大にして言いたい。いまさら恨み言いうても始まらんが、モーツァルトで病んだらモーツァルトで癒せんのだろうか、騙されたと思って騙されてみようかと5番なんぞ……。