らんかみち

童話から老話まで

遠い彼方の約束

2006年10月31日 | 男と女
 田舎から外にでて暮らしたことの無い同級生が、目出度くもこのたび結婚したと、風の噂に聞いた。
「ぼくを置いて結婚するんじゃないぞ」
 互いにそんな不文律を取り交わした間柄であっても、彼の裏切りを糾弾する気にはなれない。羨ましくはあっても「ついに人生の墓場が見つかったんだね」などと嫌味の一つくらい……いや、やめておこう。なぜなら相手の女性というのが、驚くほどの年上だったから。

 ぼくが生まれたのは愛媛の片田舎で、蜜柑農業とか繊維産業で隆盛を極めた時代もかつてはあったが、今は地方自治体の破産といわれる財政再建団体への転落も噂されるほどの田舎町だ。

有効求人倍率が1を切った生活が苦しい町だからといって、アワビ、サザエ、鯛といった海産物の密漁に手を染める人ばかりではない。そういう人も入るにはいるだろうが、そんな人はおおむね豪邸に住んでいてクルーザーまで持っていたりする。

 都会に職を求めればいいじゃないかと思うかもしれないが、親類縁者のしがらみを断ち切ることのできない軟弱、いや、心優しいからこそ田舎にとどまった者がいる。ネオンの光になれた頃のぼくは、そんな彼らを一段下の者、志の低い者のように見下した時期もあった。

つづく

メディアは、まずはいじめの構図を明らかにしてほしい

2006年10月30日 | 社会
 連日のように子どもの自殺が報道され、教育委員会や学校の対応が非難の槍玉に上がっているけど、テレビに出て利いた風な事をしゃべれるようなコメンテーターが、いじめを苦に自殺する子どもの心理を心底から理解できるんだろうか。あの人たちがいじめる側に立てる人だとは言わないまでも、いじめに対して敢然と太刀打ちできるような人だからこそ、あの席に座っておれるんじゃないだろうか。

「いじめられる方にも何か問題があるんじゃないか?」というのは正論だろう。何もなければ嫌われることも、恨まれることも、やっかまれることも無いに違いない。だが、いじめの根本的なものが何かを知っているなら、そんな”正論”を軽々しく口に出来るだろうか。

 仮に生徒たちが全員テレビで喋り捲っているような、かしこくて美人ばかりだったらどうだろう。それでもいじめは無くならないどころか、頭が良いがゆえに凄惨かつ陰湿な上に巧妙で、徹底的ないじめが展開されそうな気がする。彼らはそういった激戦を勝ち抜いてきた人たちなのだ。

 政治の世界でも、反旗を翻した議員には刺客が送られて弾圧されるように、派閥同士の馴れ合い政治を破壊した小泉さんの功績は少なくないと思うが、強権的で封建的な概念を教育の場に持ち込むなといいたい。学校というのは元々そうなんだから。

 統治出来ない無能な為政者が反体制派を力で封じ込めるように、教育の現場では言うことを聞かない生徒を屁理屈や体罰で屈服させてきた構図自体は、今も昔もそう変わらないはずだ。自殺した子どもに対して同情するのは徹底的に取材してからでも遅くない。メディアはいじめの構図をあからさまにするのが先だろう。

神様、自動車学校さま お許しください

2006年10月29日 | 童話

 また罪を犯してしまいました。神様、今私は悔いております。私は激しく泣いております。どうか私を、この涙のゆえにお許しください。どうかもう一度私に振り向いてください。

 酒盗り友の会の連中を「昼飯を食いに行こう」と、そそのかしましたら、ある者はタクシーで、ある者は電車とバスを乗り継いで、ある者は自転車で駅前に集合したのです。それだけでも大きな罪に問われそうですすが、まだそこから20分もバスに乗って、さらに10分歩かせました。

「これで飯が不味かった日にゃ、それ相応の覚悟は出来ておろうな?」

 三人さんは、お腹もすいていることもあり、苛立ちの声を私に浴びせてきます。人というのは、達成感の無い、目的の不明な労働ほど我慢ならないものはないのでしょう。彼らのもっともな憤りに、このとき私はどんな仕打ちをも甘んじて受ける覚悟をしたのでした。

 目的のうどん屋さんはすぐに見つかりました。田舎風の建築様式の、かなり大きな店構えではあるのですが、詳細に造りを吟味しますと、案外安普請であることが分かります。

 ところがこの店の最大の特徴は、いわゆる大広間のようなものが無く、4人から6人くらい入れるが個室いくつも用意されていて、見かけは長屋でもそれぞれは孤立しているので、入り口のカーテンを下ろせば誰にも邪魔されることなく食事を楽しめるというところなのです。

 4人部屋に通され、うどんを注文をする前に、初めて私は三人の会員に今回の目的を告げたました。

「この店が絵本の原稿を公募しておる。そこでこの原稿用紙に、私が諸君のために書いてきた童話を書き写すべし。あわよくば豪華景品の享受に与るであろう」

 これを聞いて、三人は激昂してテーブルをひっくり返すかと懸念しておりましたら、

「これをそのままコピーしたらええわけやな。これ即ちコピーライターという」

と、テーブルが作り付けでひっくり返せないこともあってか、それとも豪華景品につられてか、意外にも楽しそうに書いて、そのまま店に提出したのでした。

 うどん屋を後にしてその町を散策し、4時ごろに駅前の立ち飲みで豪華景品当選祈願をして乾杯しましたが、問題はその後なのです。ほろ酔い加減になったころ、さてどうやって我が街まで帰ろうかと思案することになりました。

 土曜日ダイヤでバスの本数は少なく、さりとて同じ程度の出費であっても、タクシーに乗るのは潔しと出来ない我々なのです。

「じゃあいっそのこと、自動車学校の送迎バスに乗せてもらいますか?」

 冗談のつもりで口を滑らした私が悪うございました。というより滑らせた相手が悪かったのでございます。

「それええやんけ! それでいこやないけ」

 かくして我々は、方角の違う一人を除き、夕闇にまぎれて恥知らずにも自動車学校の送迎バスにもぐりこんだのでした。酒臭い我々にとって幸いだったのは、我々の他にお客さんは一人(それも同じ駅で降りる)しかいなかったことでした。

 見ず知らずの振りをして、互いに分かれて椅子に座った我々のところに、運転手さんが行き先を尋ねてきたときはさすがにびびりました。どう見ても免許を返上しないといけないような年齢の御仁や、いかにも酒やけした赤ら顔の連中が送迎バスに乗っているなんて不自然極まりないことです。

 送迎バスがわが街の駅に着いて、運転手さんに丁重なお礼を申し上げてからバスを降りたのですが、何のお咎めも無かったのは「ついてる百回そんぐ」の霊験だったのでしょうか。

「馬鹿者! どこに引け目を感じることがあろうか。空気を運ぶよりマシな事ではないか。我々はたった今、地球温暖化防止に貢献したのである」

と、酒盗りの先生はのたもうて、まるで北朝鮮が核実験を強行して舞い上がっているように、誰彼無く勝ち誇ってかの暴挙を吹聴して回るのでしたが、私はあの自動車学校に足を向けて寝られません。バイクの大型免許を取りに行くときには是非あの学校にお世話になり、少しでも恩返しをしたいと思っております。ア~メン!


ついてる百回そんぐ そのⅡ

2006年10月28日 | 暮らしの落とし穴

「ついてる百回そんぐ」は、早くもうさこさんのところに「車を壊す」という霊験を現したらしい。ちょっと早すぎやせんかなと、思わんでもないが、純真な奥様のところに、そういうものは真っ先に駆けつけるのかもしれない。

 え~な~! ぼくんとこに何の霊験も無い。きっとそれは、まだまだ聴きようが足りないばかりか、歌ってないからではないかと気がついた。そりゃそうだろう、般若心経だって聴いてるだけじゃさっぱり何のことやら分からん。

まけてはいけません 

あきらめてはいけません

歯を食いしばって

がんばってるあなた

そんなあなたにつきがめぐるのです

ついてるひゃっかいそんぐ

十回歌えば涙が溢れる

 と、松尾泰伸さんがおっしゃっているように、ただ単に聴いてるだけじゃだめで、歯を食いしばって頑張らないと、つきはめぐって来ないということか。神座(かむくら)のラーメンだって10回くらい食べて初めておいしいと思えるようになったのだから、言霊も100回くらい歌ってこそだろう。


開運ソング いとをかし!

2006年10月26日 | 童話
 童話教室に2枚作品を3作品提出したら、その場で読み上げられて断罪された。感性は人それぞれなので、全ての人に共感してもらえなくてもかまわないが、ストーリーが分からないといわれたら辛い。それもたったの2枚で! いや、わずか2枚だからこそ起承転結をつけるのが難しいともいえるが。

 それにしても、3作中一つだけ皆さんにケラケラと笑いをとったのがあった。そこって笑うところかい? といいたくなるのだが、下手糞で笑われているのか、作中のキャラが面白いのか、あるいは書いた本人が笑われているのか、それともその全てなのか分からない。まあ、何にしても笑いを取れたのは事実なので、この路線で公募に出してみたい。

「公募に入選するかしないかは、単に運が付いているかそうでないかにすぎない」
 先生はそうおっしゃって、開運ソングなるCDを皆さんに下さった。なんでも、これを聴いていると、自然と運を引き寄せられ、やがては入選すること間違いないのだそうだ。

「♪ついてる~、ついてる~、ついてる、ついてる、ツイテル、ツイテル、バンザ~イ、バンザ~イ」
 と、これが百回も、いや、延々と歌われるのだが、一回通して聴いたら、単純なリズムとメロディーのせいか耳に付いて離れなくなる。
 明日の朝、目が覚めたら変なモノが憑いていても困るので、般若心経も同時に唱えておいた。食べ合わせみたいなことにならねば幸いに思う。
 願わくば、この功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我等と教室の仲間と皆共に童話道を成ぜん。

北が飼っている犬

2006年10月25日 | 社会
 核実験を強行して「誇りに思う」と、北朝鮮籍の人は言っているらしいが、それって猛犬のドーベルマンを、友だちにけしかけるいじめられっ子に似てないか? だれもお前をいじめてないだろうが。
 そう書いておきながら気がついたのは、かつて軍用犬や番犬として重宝された獰猛なドーベルマンだったが、今は介助犬として活躍するまでに品種改良が進んだらしい。すると北朝鮮は闘犬に使われる土佐犬を飼って喜んでいるみたいなものか。
 
 獰猛なといえば、場末の飲み屋に集う連中も危険な連中が多い。現役のやくざもいれば元やくざもいる。不思議なのは、そういった人たちは案外紳士的な飲み方をして、面倒を起こすのはたいてい素人というところだ。
 面倒な連中と飲むくらいなら元やくざと飲んでいるほうがずっと安心なので、二人だけでフグのコースを食べた。といっても一流料亭のフグなんて食べたことが無いので、カワハギを食わされていてもぼくは気がつかないし、酒代込みで一万五千円が安いのか高いのかも良く分からなかった。
 
 なんで元やくざと二人でテッチリをつつくことになったかといえば、場末のマスターがトランペッターなので、ぼくが持っていたアルトサックスを譲ったのだが、マスターは一向に練習しないばかりか、博打に呆けて半年間くらい店の片隅に放置した。
  猫に小判をやっても仕方ないので、元やくざに「あんたが一万円に換金してきたらマスターと三人で飲もう」と提案したら、本当に一万円に換えてきた。それでマスターと三人で飲むはずだったが、マスターがぼくに不義理を働いたので今回は遠慮してもらった。
  
 元やくざがアルトサックスを本当はいくらの金に換えたか知らないし、聞く気にもならない。あの楽器を一万円に換えたなら立派なもんだ。ネットなんかで調べても今は中国製の安価なものが売られているし、二十年以上も前につぶれた会社の製品には質屋でも値は付けないと思う。それを金に換えられないぼくがトロイのだ。
 一万円以上の金に換えた元やくざの才覚に嫉妬しながら飲んでいたら、問わず語りに本当に一万円で売ったと言った。どうせ二千円や三千円は抜いているに違いないと勘ぐっていた自分が恥ずかしい。
 
 北朝鮮は国際社会からの援助でながらえている国家だというのに、なんで近隣諸国を信用しないのか、あるいは勘ぐって敵視するのか。女子高校生の援助交際だって信頼が前提にあるというのに。
 

グーグル・アースの記憶

2006年10月24日 | エンタメ
 ゴルフのお誘いをいただいたので、Google Earthという無料のソフトを使って調べたら、どうやら兵庫県の山奥にあるゴルフ場らしい。ここからだと2時間近くかかるだろう。また遠いところを選んだものだが、選んだ人の家からはそんなに遠くなさそうだ。ついでに枚方市にある樟葉ゴルフ場を見て驚いた。駅前にあるゴルフ場とあって衛星写真の解像度がとても良く、プレーをしている人影のようなものまで写っている。
 これなら富士山さぞ美しかろうと、静岡県側、山梨県側からの眺めを斜めから見たら、その高さがどれほどすごいか分かる。でも山肌は赤茶けていて綺麗とは言いがたい。ニュージーランドの北島にある富士山に似た山のほうがはるかに美しかった。
 
 あ、そうだ、毎日自爆テロが起きているイラクはどうなってるんだろう、と思ってバグダッドに飛んでみたら、とても美しい町並みを車が沢山走っている。ということはイラク戦争の開戦前だから、アフガニスタンはきっと穴だらけだろうと思ってカブールを見ると、ここも整然として見える。なら世界貿易センターもまだあるに違いないと、ニューヨーク上空を飛んでさがしても見つからないかわりに、グランウド・ゼロが見つかった。
 全ての写真が同じ時期に撮られたかどうかは不明だが、少なくともニューヨークに関しては4年半前ほどのようだ。
 
 よその国のことはさておいて、自分の足元はどうなっているか調べたら、ああ、なんと! 今はもう廃車になった前に乗っていた車が駐車場に写っている。もちろん車種が特定できるほどの解像度ではないが、駐車場の位置からしてぼくの車に間違いない。
 アルバムの写真をみて昔を振り返ることは良くあるが、それはあくまでも個人的なノスタルジーであって他人様にはどうでも良いこと。なのに、この場所の衛星写真を見る人は、必ずぼくの車がそこにあったことを知らしめられる。それなのに世界貿易センターはグーグルの地図上にはすでに存在しないのだ。次にこの地図が更新されるときに、北朝鮮という国があるだろうか。そして日本が穴だらけになっていないことを願う。
 

タイトルでブログの価値が決まるのだろうか?

2006年10月23日 | 酒、食
 コンビニの惣菜売り場で「鯖の焼いたん 酢橘付き」と、「野菜の旨煮」をかごに入れ、酒のショーケースの前にたたずんで「○○の辛口純米吟醸 半年生貯蔵」を選び、「☆☆生 深入り麦芽使用 限定醸造」の発泡酒を買った。
「鯖の焼いたん 酢橘付って、そのまんまのネーミングやないか、芸が無いな」
 初めはそう思ったのだが、よくよく考えてみればこの名前は、コンビに側が計算しつくして与えたものなのだから、それなりの勝算があってのことに違いない。
 
 ある人気ブロガーによると、ブログを書く時の三原則なるものがあって、まず第一に、タイトルですべてを表現してしまうこと。たとえば「北朝鮮の核実験は、ならず者国家が崩壊する予兆であろうか?」みたいな感じだろうか。
 第二に、知っていることでも知らないふりをして書いたり、あえて間違ったことを書いて、突っ込みどころを用意して置くこと。第三に、結論を出さないことだという。これはブログという読者参加型のエッセイの特質に即したもののようだ。
 
 ぼくの日記はといえば、この真逆(最近はNHKのアナウンサーまでこの言葉を使う)をいっているような気がする。タイトルは意味不明なものが多いし、よく分からないことは初めから書かないし、独善的な結論を急ぎたがる。こんなだから、ブログというハイテクノロジーの恩恵を活かせ切れているとはとても言いがたい。
 
 それで鯖の味はどうだったかというと、賞味期限は書いてあるが、いつ作ったのかが不明な上にとても不味かった。野菜の旨煮は、場末のおでんに軍配が上がる。発泡酒はやっぱりビールにはかなわない。辛口純米吟醸は単に辛いだけだった。
 タイトルで購買意欲をそそったところで所詮は一時力。要は中身が大事ということ。口先だけで、現実を把握していないテレビのコメンテーターが多いのに似ている。

エッセイストとしてのピアニスト 中村紘子

2006年10月21日 | クラシック音楽
ピアニストの中村紘子さんが堺市でリサイタルを開くという。プログラムを見る限りどうしても聴きたい曲目ではないけど、ぼくもあの人のファンなら一度は聴いてみたい。といっても、ぼくはあの人のレコードもCDも持っているわけではなく、エッセイスト中村紘子としてのファンなのだ。

 もっとも、エッセイストといっても本当に彼女が書いているのかどうか疑わしい、という人もいるだろう。それもそのはず、ご主人が芥川賞作家の庄司薫さんなのだから。しかし仮にそうであったとしても、さすがはチャイコフスキー・コンクールの審査員を務めるだけあって、内容がとてもおもしろい。それに文体に奇をてらったところがなく、言い回しも難解な語彙を使わずに読む人を惹きつけ、「エッセイとはこう書くのでございます」と、お手本を示されている気がする。

今、NHKの教育テレビのスパーピアノレッスンという番組で、ミシェル・ダルベルト先生なる御仁が講座を開いているが、驚いたことに、この一流の先生は、誰とは言わないまでも当代のピアニストをこき下ろしたりする。よほど自分に自信がある演奏家なのだろうが、正直いうとぼくはピアノの上手下手がバイオリンほどには良く分からない。それは自分の演奏技術が未熟だからというだけでなく、ピアノ曲をあんまり聴いていないからだろう。

 バイオリンの演奏はそうでもないが、ピアノの演奏は19世紀的な演奏がわりと好きだ。もったいつけた遅いテンポで弾くかと思えば大げさに強弱をつけて人を驚かせるのが楽しい。バイオリンでそれをやられると趣味が悪いと感じるが、どうしてだかピアノなら許せる。要は自分が好きならそれで良い。そんなことを考えつつ、こんど中村さんが演奏するバッハのパルティータ2番ってどんな曲だったかなと、楽譜を探そうとして気が付いた。もうピアノはもう売ってしまったのだった。ハァ~!

大阪 童話教室の陣

2006年10月20日 | 童話
たった2枚の童話が書けなくて、苦しんだ末に酒びたりになっている毎日が続く。もちろん何でもかんでも書こうと思えば苦しむこともないのだが、書いていて自分で嫌になるともうだめだ。モチベーションが下がって転がり落ち始めると早い。人間いったん底まで落ちると這い上がるのに苦労するもんだと思う。

 そもそもこれは、童話教室のだれも知らなかった、堺市近郊のローカルな公募に出すものだけど、教室のある奥様が「みんなで応募しましょう!」と、わざわざ申し込み用紙まで用意してくださったものだ。
 
 確かに教室ではみんな仲の良い同志ではあるが、ひとたび公募というコロシアムの舞台に立ったら、互いに血も涙もない争いを繰り広げる敵になる。
 そこんとこを承知の上で彼女は自信をもって宣戦布告したというより、単に育ちの良い奥様の、無邪気な博愛精神にあふれた行為だと思うので、敵に塩を送られた側としては誠心誠意答えないわけにはいかない。