らんかみち

童話から老話まで

血だらけの幼子とか、偏屈爺さんにしがみつかれ

2009年07月23日 | 陶芸


 漁師の親方に4時半に起こされて釣りに行きました。写真はイソベラを釣り上げる寸前のもので、魚のお腹がプクンとふくれているのが分かるでしょうか。30メートルくらいの深さから引き上げるので、ほとんどの魚は潜水病を患ってしまいます。小さいのが釣れたからといって、「お父ちゃんとお母ちゃんを連れてこんかい」とリリースしてやっても死んでしまう確立が高そうです。
 そんなことより、船上でカメラを構えているぼくが水面に写ってますけど、その背中に血だらけの幼子がしがみついているのが分かるでしょうか。怖いですね、嫌ですね、でもこのネタで怖い話に入選しましたから、幼子ちゃんありがとう。

 幼子の次は偏屈爺さんです。陶芸クラブで井戸茶碗をいくつか挽こうと要釉斎先生に断りを入れました。
「君ぃ、茶をたしなむのかね、なに、やらない? ではなぜ井戸茶碗なぞ挽くのかね」
 そんな言いがかりをつけられるかと思いきや、
「あそう、君は何でも好きなように挑戦してみたら良かろう」
と、木で鼻をくくったようなあしらいをされてしまいました。

 お許しが出たと解釈して、1ダースほどの井戸茶碗風味のものをこしらえていたところ、
「井戸はスックとした立ち姿が肝要じゃが、それでは御本茶碗じゃ(←変換ミスではない)」とか、
「見込みが狭い! それでは大井戸でのうて古井戸じゃ(←変換ミスではない)」
と、なにやら横槍、いやコーチが入り始めました。
「え、でも先生、好きなように作れとおっしゃるから……」
「君ぃ、物には基本というもの、古典というものがある。いかに好きなようにといえども、茶人の志をないがしろにできるものではなかろうが!」

 まったく、ああいえば要釉斎とはよくぞいったもの。その後も、
「茶溜まりが無い、高台が低すぎる、口造りが薄い」
と、茶の湯と茶器には一家言のある要釉斎先生のコーチはとどまる所を知らないかのようですが、他の人がいるときにはそううるさいことはおっしゃらないんです。なぜか二人だけになるとああだのこうだのと……。

               

 そんなこんなの試練の末に、なんとか井戸茶碗っぽいものが出来上がりました。
 どれもこれも歪んでいるように見えるかもしれません。下手くそだからじゃないんですよ、わざと歪ませてます、って嘘。これらの半分はまん丸にできなかったんです。物の本に書いてあったので、白土と赤土を混ぜ、砂を混入した軟らかい土で一気に挽き上げたものの、非情に難しかった。
 それで分かったのは、昨日の電話でロクロ子先輩のいった「未熟者が井戸茶碗など挽いていると、ろくろの上達が遅れる」の意味でした。

 傍目に見ると、この茶碗が下手くそだから歪んでいるのか、それともわざと歪ませているのか分からないばかりか、やがて挽いている自分すらどちらか分からなくなってしまう。井戸茶碗なんだから歪んでいようがどうしようが、かまやしないだろう。
 そうやって丸い茶碗すら挽けないのに歪んだものばかりこしらえていると、それがいつしか手になじんでしまい、いざ丸いものをこしらえようと思ってもできなくなってしまう。そういうことじゃないかな。

 危うく道を踏み外すところでしたが、要釉斎先生にしがみつかれたおかげで危地を脱することができました。人はいろんなモノにしがみつかれて成長するんですね。