らんかみち

童話から老話まで

生き返らせる

2010年01月31日 | 童話
   人物
 HAL(40)会社員
 HALの兄(43)
 HALの姉2号(45)
 HALの姉1号(48)
 
○村の小さな公会堂(昼)
   祭壇が飾られ、満員の参列者。
   父親の眠る棺に釘が打たれようとしている。
   キョロキョロと落ち着かない兄がHALの手を引いて棺から離れ、耳打ちする。
兄「携帯が見当たらんのや、鳴らしてみてくれ」
HAL「そんなことが、この場でできるかい!」
   声をひそめ、眉間にシワを寄せながら応えるHAL。
兄「これがラストチャンスかもしれへん。な、この通り」
   兄がHALに向かって手を合わせ、頭を下げる。
HAL「何が起きても知らんぞ」
   HALが喪服の胸ポケットから携帯を取り出し、送信ボタンを押す。
   次の瞬間、「ワ~ハッハッハ、ワ~ハッハッハ」と、笑い声の着信音が   
   棺の中から聞こえ、館内にこだまする。
姉1号「お、お父さん!」
姉2号「い、生き返った!」
   のけぞる参列者たちをかき分け、棺の蓋を開ける姉二人。
   兄が駆け寄って棺の中で笑っている携帯を取り上げる。
兄「もしもし?」
   兄が参列者の視線に気付き、携帯を耳からゆっくりと離す。
兄「さ、さっき副葬品を入れたときに落としたみたいで……」
   携帯に張り付いていた花びらが一枚、ポトリと床に落ちる。
   失笑に続いて怒号が飛び交う中、HALが忍び足で出口に向かう。

タラ間、今治風

2010年01月30日 | 酒、食
 かつて「美しい国、日本」と叫びつつスピンアウトなさった方がおられましたが、我が今治市は「焼き鳥の町、今治」を叫びつつ衰退の一途をたどっております。「美しい国、日本」の頃を懐かしんでも仕方ないけど、当時はリーマンショック前でもあり、中国需要のおかげて今よりずっと景気が良かった。
 
 不景気ついでに、母がまた「物を盗られた」と、夜中に出ていこうとするので往生します。何が無くなったのか聞いてみたら、実につまらん物なので、「あれは出てきた」と言えば安心するみたいだけど、母の言うことはあながち間違いでもないので、ややこしくてしかたない。
 
 面白くないことばっかりなので、今日は焼き鳥に逃避してみました。スーパで初物のタラの芽が売っていたので、今治風ネギ間の代わりにタラ間……ワケ分からん。
 タラの芽天ぷらは今年になって買って食べましたが、タラの芽って天ぷらにすると風味を損なってしまうと思うんです。なのでフライパンにバターをひいて今治風に熱をかけ、塩コショウだけのシンプルな味付けにしてみました。
 タラの芽のほどよい苦味と肉みたいな風味がビールのお供に美味しい。ちょっとの間いやなこと忘れられる。

中学生たちと窯出しの儀

2010年01月29日 | 陶芸
「それではこれより、窯出しの儀を執り行います」と要釉斎先生が高らかに宣言し、先生のこよなく愛する旧窯の扉が開けられるや中学生たちからどよめきが起きました。要釉斎先生と、そのしもべや学校の先生の手で一つずつ慎重に取り出されるたびに作者の子が歓声をあげます。
「きゃ~、買ってきたみたいに綺麗」って、学校の先生や校長先生まで興奮してますが、そんなに喜ぶほどのもんかなぁ。
 
 窯出しの儀っていやぁ、思い出した! 自分の作品が初めて窯から出されるのに立ち合ったのは一年と一月前。「一番楽しみにしているのはこの人だから、本人の手で出させてあげて」と先輩に気をつかってもらい、初めて自分でこしらえた作品を窯から出した喜び。あれをどうして忘れてしまったんでしょう。
 
 あのころは湯飲み一つ作るのに半日、高台を削るのに翌週にまた半日と、非常に時間がかかったばかりか、削り終えてもまだサンドペーパーで修正してました。そんな命を削るようなことやってたから、焼きあがった一つ一つがいとおしく、約束していた友だちにあげるときの手離れの悪さといったらありませんでした。それが一年もロクロを回してみたら、今じゃ数分で湯飲みができ、修正もほとんど必要ないので、作品に思い入れちゅうもんが無くなってしまったんですね。
 
 中学生たちの作品は要釉斎先生の手で大きく修正されてます。もし彼らの作品をそのまま焼いたなら、今日のような喜びは無かったかしれません。遠巻きに撮影していたのでぼくの修正した作品を見ることはできませんでしたが、先生とは全く異なる高台にしてあるから、友だち同士で見せっこしたら楽しいでしょうね。
 最後に子どもたちの代表が御礼の言葉を述べ、要釉斎先生も合掌で応えて満足そう。なるほど、この窯出しの喜びを子どもらと共有できるからこそ心血注いで削っておられたんですね。来年はぼくも一期一会の気持ちで削ってみますか。

フィギュアの未来ちゃんのフィギュア

2010年01月28日 | 陶芸
「せ、せんせぇ、これぇはいったい?」
 本日の料芸クラブ、最後に残ったのはクラブのアンカーマンであらせられる要釉斎先生とぼくでしたが、先生の御手には何やらフィギュアのようなものが。
「君ぃ、知らんのかね、長洲未来ちゃんじゃ」
「みらいちゃん、ですか」
「うむ、日本人でありながら、米国のフィギュアスケート五輪代表に選ばれた女の子じゃ、快挙だとは思わんのかね」
「あ、あの娘のことですか、すごいことだとは思いますが、この作品は服を着ていない……」
「人間本来無一物。人は裸が最も美しいと、これは禅の教えじゃ」
 聞き覚えのある言葉ですが、ぇえ~そういう意味だったかなぁ。
「しかし先生、彼女はまだ16歳ですから、一糸も纏っていないってぇのは、いかがなものでしょう。荒川静香さんあたりではいかんのですか」
「荒川? もはや過去の人物じゃ。そこへいくと、未来ちゃんはカワユイのを」
 有り体に言うてもたら、ピチピチギャルが御好きってことですかい!
 先生を弁護するんじゃないですが、このフィギュアは先生が、しもべに乞われて作ったもの。であっても、念頭にあったのは新聞に掲載された長洲未来ちゃんの写真でしょう。先生が齢80半ばにして尚お元気な秘密を覗き見た思いです。
 
 腰に良くないのでロクロはやりたくなかったんですが、メンバーのお一人が電動ロクロの下に平台車のようなものを置いてくれました。これなら腰にも良かろうってわけで、せっかくだから使ってみることにしました。
「この前作っとったワイングラスみたいなん、あれ作ってくれん?」
 ロクロの前に座るなり、メンバーのおばちゃんの一人がぼくに耳打ちします。変な話です、だっておばちゃんは手びねり専門ですが、ぼくよりずっと上手なんですよ。
「こんなんで良いんですかねぇ、どういうのをイメージなさっているか分からないので」と、腰を傷める原因となったゴブレットを挽いて差し上げました。

 家に帰ると、あのおばちゃんが「お礼」と称して焼酎を持って来なさる。しかも粘土までくださって。
「大きな声では言えんけど、みんなHALさんのあの形のゴブレットが欲しいんよ。でも電動ロクロの先輩がいるから、あの人を差し置いて頼めんでしょう」
 あんな変な形のゴブレットのどこが良いのか聞いたら、ビールの泡が消えにくい、陶器なのでヌルくなりにくい、高い台が付いているので、結露してテーブルを濡らしにくい、ということらしいのです。
 そこまで考えて作ったわけじゃ決してないので、自分では実用性に疑問を持っていたんですが、思ったより使えるんだそうです。
 
「君ぃ、ワシのコーヒーカップはどうかね」
 家に帰る前に要釉斎先生のおしゃった言葉を急に思い出しました。例によってスケベなフィギュアの持ち手が付けられたカップを見せてくれたので、
「ああ、素晴らしいですね」と答えたんですが、「欲しけりゃやるぞ」って言いたかったのではなかろうか。
 でも要らんよなぁ、先生の作品はどれもこれも実用性を欠いているし、ああそうだ、鉛筆立てとかに使えばいいのか。
 ここまで考えてようやく気がつきました。あのおばちゃん、酒も飲まないのにゴブレットなんか要らんはず、あのゴブレットいったい何に化けるんやろ!

五嶋龍が来日か、聴きたいぞ

2010年01月27日 | クラシック音楽
 バイオリニストの五嶋龍くんが来日するらしい。朝日新聞によれば、「演奏は奔放でよどみない。ほとばしる思いやひらめきを随所に感じさせる」とあるけど、彼の演奏って雑っぽくないかなぁ、奔放っていやそうなんだけど。
 演奏技術の面では、もしかしたらお姉ちゃんを凌いでいるかも知れない。だからといってミドリの尻ぃ追っかけても仕方ないってことかな、演奏スタイルがお姉ちゃんと極端に異なっているのは。
 
 偉大すぎるお姉ちゃんと比較されて苦しんできたんじゃなかろうか、龍くん。佐藤栄作元首相が子どものころ、兄の岸信介元首相と比べられて劣等感を抱いていたと聞くし、誰に言われなくても龍くん本人が一番意識しているのは世界のミドリでしょう。
 当面はお姉ちゃんを超えることはできないだろうし、本人もそんなつもりは無さそう。それでいいんじゃないでしょうか。彼にしか出せない音、雰囲気みたいなのを獲得すれば良いんでしょうし、既に身につけているかも。
 一度聴いたら忘れられない、クラシック界のロビー・ラカトシュみたいな演奏家になってくれんかな。こちらの方のような演奏スタイルは、彼女に任せておけばいいのです。

Mayuko Kamio - Bach Sonata No.1 Adagio and Fugue


 チャイコフスキーコンクールで優勝した時の一次予選らしいですが、小ミスをやらかしているので、演奏を終えて拍手をもらった時の表情がなんとも初々しいぞ。

 しかし何でこの方やねんって? それが龍くんと大いに関係が、というか大阪は豊中市つながりでして。え、それだけでここに持ってくるのは唐突すぎる? はいそれでは、二人の師匠を手繰っていきますと、最後には東儀祐二先生にたどり着くのですぅ。そしてぼくのバイオリンの師匠の師匠もまた東儀先生なのですぅ、はぃ~。

 演奏しているのは バッハ作曲、無伴奏バイオリンのソナタとパルティータから、ソナタ第一番、アダージョとフーガです。ぼくも発表会でアダージョだけ演奏しましたが、凡そ1000人近くの聴衆を前に足はガクガク喉はカラカラ。出番直前にオシッコちびりそうになって、本番で弓は震えるし音程は狂うしで、まるっきり音楽になりませんでした。
 ゴルァ師匠、自分が好きな曲やからいうて、バイオリン習うて1年目の初心者にむちゃやらすなぁ! ←師匠に責任転嫁も情けなや。

ガド・ガール、見えぬけれどもいるんだよ

2010年01月26日 | 暮らしの落とし穴
 コメントに書き込んだように、今日は「ガド・ガール」であらせられるバジル王さんについて言及してみたいと思います。
 ガド・ガール? バドワイザーの服を着たバド・ガールと間違えとりゃせんか、いわれましたら、ずーっと昔にそんな飲み屋に行ったような行ってないような。いやそれじゃなく、ザ・ガードマンの女の子のことですがな。
 
 昨年、友人の墓参りと、お父さんを亡くされた知人のお見舞いとかで大阪に行きました。場末の飲み屋で暴飲暴食の翌朝、高速バスに乗ろうと慌てて大阪駅に向かったら30分の余裕ができ、本屋さんに入りました。
 大きな店ではないけど立地条件の良さからか、かなり混み合っていましたが、お客さんの中にすごい美人を発見。20代後半かと思しきその出で立ちや清楚にて、しかしながらファッションセンスと風貌は群を抜いており、普通のOLさんが仕事の合間に来たようには見えない、何者?

 ああしかし見とれている時間はない。とりあえずバスの中で読める軽い文庫本を探そうとして、偶然に手にしたのは自分の作品が掲載されている文庫でした。おおそうだ、これともう一つ別の作品が掲載されたのを贈り物にしようと探し始めました。あの麗人と再会しないか期待しながら。
 
 もう一冊はマイナーな出版社のでしたから、探すのは大変でした。そうやって店内を文庫本片手にウロウロしていたら、あの女の子にまた出会ったのです。おお、やっぱえぇ女やわぁ~。すれ違って振り返ると彼女の方も振り返る。ドキドキ! 文庫を求めて棚の裏側へ回ったら、そこにまた彼女の姿が! 
 彼女、本を立ち読みするわけでなし、かといって新幹線の時間待ちでもなさそうだし、もしかしてオレに気があるのか、なんて思い上がれるような若い時代は過ぎ去っておりますわな。

 本は見つからず、とりあえず精算を済ませながら、店員さんに出版社とタイトルを告げると一緒に探してくれるじゃないですか。その瞬間からあの女の子はぼくの視界から遠ざかり、所在無げな様子でまた店内を回っている。服装は派手じゃないけど、立ち居振る舞いがえらい目立やん。
 
 バジル王さんは私服プレイにこだわっているわけじゃなかろうけど、先日の日記を読むと、私服で万引きの現行犯をとっ捕まえたらバッグの中から戦利品がザックザク、こいつぁちょいと出来心ってぇもんじゃないぜ! 
 これを読んで、あの大阪の本屋で出会った彼女はガド・ガールであると確信しました。フーテンのHALさんは彼女に「こいつぁ万引やりよるで」と目を光らされておったという次第です。

 ガド・ガールという話は聞いたことあったんですが、ずっと軽視しておりました。でも実在するんですね。それにしても美人やったなぁ、いま思えば万引きしとりゃ良かったか。

ケイシー療法? いやケイシー商法かも

2010年01月25日 | 暮らしの落とし穴
「ヒマシ油湿布が良く効いたから、あんたの椎間板ヘルニアにも効くに違いない」と、上の姉がまたまた奇妙なサジェッションをしてくれます。変じゃないですか、病院でもらう湿布より、ヒマシ油湿布の方が良く効いたなんて。薬品メーカーの湿布開発者が聞いたら「オレの人生は何だったんだ!」と、世を儚んでしまいそうな話じゃないですか。
 なので調べてみようと、グーグルIMEで「ひまし」と入力したらヒマシ油湿布がサジェッションされ、ググってみるとエドガー・ケイシーにたどり着いたのです。

 エドガー・ケイシーといえば、UFOや超常現象を扱うメディアでもしばしば「奇跡の予言者」として、ノストラダムスなどと並んで取り上げられます。ぼくも姉に「本を貸してやるから読め」といわれて読み始めたものの、途中から眠たくなって、姉ちゃん、年甲斐もなくこんなこと信じてるの、といいたくなったんですが、ぼくはこの姉とは議論をしないことにしてるんです。というのも、姉と議論しているのを他人様が見たら、どちらがより人間離れしているのか分からない、というのです。
 
 全否定しているんじゃないんですよ、それどころか哲学者、あるいは宗教家としてならエドガー・ケイシーには興味を惹かれます。ですが「ケイシー療法」と称してヒマシ油を売ったり、怪しげなな機器を販売したり、あろうことか医院が彼の名声に便乗して宣伝しているのを見ると、いかがなものかって思うわけです。ケイシー療法というより、もはやケイシー商法じゃないの、と失望を禁じ得ません。
 
 姉の主張するように、肉体的疾患をスピリチュアルな面から癒そうという取り組みはある程度理解できるんですよ、病は気からと申しますから。しかしそれと、「空海すなわち弘法大師は、イエスキリストの高弟であったヨハネの生まれ変わりである」を同列に置いて説くからワケが分からんなるんです。
 
 話は変わりまして、バイクのバッテリーがヘタってきて、この前の童話講座に行く朝も押しがけしなくてはエンジンが始動しませんでした。講座が一月に一回になるとバイクのバッテリーが充電できないんですよね。もちろんバッテリーが劣化しているからですが、新しいのを買おうにも車のそれの三倍から五倍の値段なんです。
 バイクって原チャリや車と違って、移動手段というより趣味の乗り物という位置づけだから仕方ないですが、なんとかバッテリーを回復させる手段はないものかと探していたら、ありましたありました。
 
 ホームセンターのバッテリー売り場へ行きますと、「バッテリー回復剤、有機ゲルマニウム配合」
 おおぅ、これじゃ! 有機ゲルマニウムが配合されているなら効かんはずがなかろう、っちゅうわけで買いました。(二本セットで589円)
 なんかねぇ、「コンドロイチン配合」とか「イブプロフェン配合」っていわれたら、そうかコンドロイチンか、イブプロフェンか、これなら効くに違いなかろうって、何の知識もないのにバラ色の未来が見えるようなアレですな。
 
 帰ってきてネットで有機ゲルマニウムを調べると、「癌に効く奇跡の薬」みたいなページばっかりヒットするじゃないですか。ぼくが知りたいのは、本当にバッテリーに効くのかどうかってことです。そこで「有機ゲルマニウム バッテリー」で検索すると、出ましたでました。
 
 なになに、「有機ゲルマニウムをバッテリーに入れると、死にかけていたバッテリーが回復します。バッテリーに効くのですから、人間に効かないはずがありません」って、なんじゃこりゃ!
 そうかキーワードが間違っているのかと、「バッテリー添加剤、有機ゲルマニウム」で検索をかけますと、なになに、「有機ゲルマニウムは癌に効くのですから、バッテリーに効かないはずがありません」って、なんじゃこりゃ!
 
 探せど探せどいかがわしいページばっかりヒットするので、最後に「有機ゲルマニウム、悪徳商法」でエンターキーを押したら、ああそうなの!
 詳しく書く気力もありませんが、バッテリーに関しては「理論上は回復するはずであるが、体感できるほどの効果は望めない」と結論が出ました。
 
 ケイシー商法だとか、散々姉をこき下ろしてきましたが、ぼくもバッテリーに輪廻転生の望みを託して騙され、初めて姉の心に想いを馳せることができました。人は誰しも、理解しようとする相手と同じステージに立たないで、自他を等しく理解出来ないものなんですね。

お師匠さまの写真集ゲット?

2010年01月24日 | 童話
「できれば避けて通りたかったが……」と、お師匠さまが自身のホームページにて何やら思わせぶりな発言をなさっておられました。
 秋篠宮妃紀子さまにお会いになって名刺を手渡しなさり、「まあ、トンボの絵でございますね!」と、妃殿下をして御尊顔をほころばしめた逸話を持つほど豪胆かつ磊落なお師匠さまにも怖いものがあるんかしらん、ひょっとして……。
 
 先の童話講座のおりでした。お叱りを覚悟の上で「お師匠さま、避けて通りたきこととはいかに。もしや、出版社からヌード写真集を出すようなオファーでも? 野村沙知代夫人も出されたことですしねぇ、いひひひひ……」と戯れるなり、無礼者そこに直れ手打ちにいたす! みたいな沙汰があるかと思いきや、「野村夫人? わたしの方が綺麗よ」と。こりゃ一本取られたわい。
 
 さて、そのお師匠さまのホームページが、もうそろそろ25万ヒットを迎えます。弟子の分際でぼくがキリ番を踏むような軽挙妄動が許されるはずもないので、当ブログの読者におかれましてもキリ番争奪戦に参加なさってはいかがでしょう。
 見事キリ番を踏まれた方は、カウンターをデジカメや携帯でで撮影なさって証拠として添付しても良いですが、ご存じない方のためにプリント・スクリーンの方法を書いておきます。
 
☆まず初めにプリントしたい画面を前面に出しておきます。このとき余計なものが画面にあったらそれもプリントしてしまいますから、IEなどの画面を大きくしておきましょう。
 
☆それができたら、キーボードの右上の方にある「PrtSc]もしくは「Print Screen]と書かれたキーを1回押します。
(先にペイントを起動してしまったら、いったん最小化しておき、後でタスクバーから出します)
 
☆アプリの「ペイント」を開きます、スタート→すべてのプログラム→アクセサリ→ペイント。これでペイントが起動したはずです。
 ペイントの画面で、編集→貼付けを選びます(Ctrl+Vでも可)。これでペイントにプリントしたい画面が現れましたね。
 
☆つぎに保存です。ペイントのファイル→名前を付けて保存→保存先を指定(しなければマイピクチャに保存されるはず)→ファイル名を25万とかにする→フアイルの種類のプルダウンメニューからJPEGを選び→保存ボタンを押す。これで後はメールに添付するだけです。
 
 晴れてメールを送ることができたら、お師匠さまのヌード写真集著書から、欲しいものを一冊選ぶことができます。今開いているこのページで練習してみてくださいな、幸運を祈ります。

信じて騙され、愛して裏切られ

2010年01月23日 | クラシック音楽
 信じれば騙されるし、愛すれば捨てられる。世の中っちゃ、ままならんものよのう! 今朝の朝日新聞「うたの旅人」欄は、「愛され、捨てられた」と題してヴィヴァルディを取り上げております。何を隠そうぼくがバイオリンなどを手慰みにしておるのは、ヴィヴァルディの「四季」を聴いて感動したからでございます。
 クラシックレコード業界にあって最も多く発売されているのは、バッハでもモーツァルトでもベートーベンでもなく、ヴィヴァルディの「四季」ではないでしょうか。どんな演奏でもそこそこ売れるありがたい曲なんだそうです。
 
 ヴィヴァルディに足を向けて眠られない人は他いもいます。ソロ楽器としては顧みられることの無かったマイナーな楽器の演奏家に、重要なレパートリーを提供してくれているのです。ファゴット、ビオラ・ダ・モーレ(viola d'amore)、ハーディー・ガーディー(hurdy gurdy)といった、聞いたこともないような楽器のためにコンチェルトを書き残してくれているんです。

 それというのも彼が教会付属女子養育院オスペダーレ・デラ・ピエタの楽長を務め、子どもたちのためにコンチェルトを書いていたからなんだそうです。でね、ぼくもそういった曲をフルートなんかで演奏してみるんですが、当時の未完成な楽器でよくぞこれだけの曲を演奏した! すごいレベルだったってのを実感します。
 
 当時ヴィヴァルディは人気作曲家でしたから、バッハも彼の曲を編曲してますし、偽作もまた多いらしいのです。「ヴィヴァルディ先生の新作が出ました」と、無名の作曲家の楽譜を売るのに彼の名声にあやかろうとして、作曲家と楽譜屋が結託して出鱈目な宣伝をしたらしいのです。
 理由は違うんですが、19世紀と20世紀に亘って活躍したバイオリニストで作曲家のクライスラーも、「ヴィヴァルディ先生の曲を再発見して編曲しました」と、自分の演奏会で発表したんですなぁ。

 後年クライスラーは、「あ、あの曲? あれ、ぼくが作ったの」と白状したもんだからさあ大変。評論家たちから嘘つき、詐欺師とこき下ろされてしまいます。しかし彼を擁護する意見もあり、「確かにクライスラーは嘘をついた、それは悪い。しかし彼の曲を聴いて、いったい誰が損をしたというのだろう」と、実りの無い論争に終止符を打ったそうです。
 
 ではまずヴィヴァルディの偽作から「忠実な羊飼い」

Some Amazing recorder playing Vivaldi Sonata No. 6 in G minor


 しかしこれは恐らくヴィヴァルディの真作、バッハが編曲しているんです。偽物の中に真作が混ぜられているんですね、ややこしいでしょ。上下2巻になっている楽譜を買って練習したというのに、今更偽作といわれてもなぁ……まあ、良い曲集だから損をしたわけじゃないし。
 
 次はヴィヴァルディの真作「お気に入り」の1、2楽章。
 
Antonio Vivaldi:Concerto for violin,strings & bc in E minor,\'Il Favorito\' Op. 11 n. 2 (RV 277)-I.II.


 お気に入りっていうのは、どうも恋人の意味らしいです。で、最後にクライスラーが騙った曲の3楽章です。

3-Concerto in the Style of Vivaldi (orchestrated)


 なぁるほど、ヴィヴァルディやいわれたらそんな気もしますなぁ。続けて聴いてそんなに違和感ないし。信じて騙され、愛して裏切られ、ぼくの人生そのものやんけ!

流れ星についえた友

2010年01月22日 | 暮らしの落とし穴
 オリオン座の西を北から南に向って流星が現れ、わずか1秒ほど光の澪を引いたあと、まわりの星に比べてひときわ明るく輝いて消えた。流星の最後を見とどけ、西の空に目をやると上限の月が冷たく傾いている。
 
 いつだったか、「上弦の月って、弦が上にくることから呼ばれるんでしょ」と言うや友人は、「いやそれは違うと思う。弦が下にあっても上弦の月って呼ぶはずや」と応えた。
 場末で飲みながら、ああでもないこうでもないとやっていたら、「それやったら賭けるか」と彼は言いだし、喧嘩になりそうだったので話を変えた。いや、負ける喧嘩と援助交際は絶対にしない友人だったので、この賭けで深手を負うのはぼくの方かもしれないと、天から直感が降りてきて、ぼくからゲームを降りたのだ。
 
 あれは小学6年の今時分だったか、友だちの家で遊んでいて帰るタイミングを逃し、二人して夜空を見上げていたとき彼が声を上げた。
「あ、ジェット機が飛んどる」
 今の時代、夜空を見上げてジェット機の飛んでなかったらラッキーと思うが、当時はジェット機を見つけたら願い事をしたもんだ。ところがそのジェット機は、5秒ほど飛んでいたかと思うとキラリーンと閃光を放って消えてしまった。
「流れ星か、誰か死んだんじゃね」
 流れ星というのは、人が死んで天空に昇ったシルシだ、と半ば本気で信じていたぼくは言い、そっと手を合わせた。ところが次の日、学校でこの夜のことで騒ぎになる。
 
「おいHAL、おまえ昨日の晩UFO見たってホントか、どんなんじゃった、なあ、どんなんUFOって」
 登校するなり質問攻めにあった。
「え、UFOって?」
「ホラ吹きデコポンが、おまえと一緒にUFO見たって言うとるんよ」
 昨夜見たのは最初ジェット機だと思ったけど、やがて流れ星に落ち着いたはずなのにUFOとは……。
 友だちがホラ吹き呼ばわりされる片棒を担ぐのもできないし、流れ星をUFOとも言えない。でもあれが何だったのかだれにも分からないのだ。
「あ、あぁ、あれは間違いなくUFOじゃっと思うよ」
 嘘をついてしまった。
 
 弦が上にあろうが下にあろうが、昼間に出て夕方に夜空のてっぺんに位置し、深夜に沈む半月のことを上弦の月と呼ぶ。そう分かったのは、場末の飲み屋で友人と論争した次の日だった。それから何度となく彼に会いながら、ぼくが間違っていたことを白状せずじまいだった。
 
 流れ星を見るたびに、どうしてだか腹の底から鉛のようなものが浮き上がっきて喉を詰まらせる。願い事なんて、できたためしがない。
 飲み屋で論争した友人は一昨年の暮れに死んだ。オリオン座の横をかすめたのが彼の魂だとは思わないが、彼を想って手を合わせた。昨夜19時ごろの妄執である。
 

 下弦の月は深夜に出て明け方に正中し、昼間に沈む。