らんかみち

童話から老話まで

童話公募の締め切りに思う

2007年11月30日 | 童話
 二度と再びやって来ることのない11月30日を、原稿用紙5枚の童話を2作品書いて浪費しました。数打てば当たる、なんて姿勢で良い作品が書けるわけもないのですが、未だ持ってぼくの場合は数も打てない有様ですから、それなりに意味のあることだと思ってます。

 そうはいっても入選しないとモティベーションも上がらんわけで、結果が3ヵ月後とかだと待ちくたびれてしまうんですね。昨日なんかその典型の出来事がありました。

「こちら○○です(○○で通用する会社)ご存知かと思いますが、あなたのエッセイが入選されまして……」
 知ってるいうねん! 発表があってから二月半も経って通知を頂くとはかつて無かったことです。
 だいたいは入選発表の前に通知があるのが普通で、これくらい遅れると落選の憂き目を見たのと変わらんくらい落ち込みますね。ありがたいことですが、今度は落ち込まないように、商品と賞金を頂いた時点で、喜びを噛みしめるとしますか。

年賀は断念して、寒中見舞い

2007年11月29日 | 社会
 つづき

 よおくよおく考えたら、今年の初めに伯母さんが亡くなっているんです。母のお姉さんですから、二親等の母にとっては問答無用で喪中です。しかしぼくからみると三親等に当たるので、喪中なのかそうでないのか微妙な心境でして、ひょっとして額賀大臣もこんな気分なんだろうか? なんてトンチンカンな物思いに耽っている場合ではありません。うっかり買ってしまった母の分とぼくの分の年賀葉書を交換して、喪中葉書を大急ぎで刷らないといけないのです。

 5時前に郵便局に行くと、窓口のお兄ちゃんはえらい忙しげに立ち回っていまして、葉書を交換してって言ったのに、それどころじゃないって顔をしてます。隣の貯金の窓口では、おじさんが忙中閑有りって顔をしてるなら、手伝ってあげれば良いじゃないって、でも良く考えたら民営化であの二人は別会社の社員なんですね。

 ぼくのそんな思いがおじさんに伝わったのでしょうか、胸の名札を指し示し「これが目に入らぬか?」って、偉い人なのかなと名前を見て驚きました。ぼくの同級生だったんです。
「いや~、女の子はね、何十年ぶりかで会っても分かるんだけど、男は分からんよねぇ」
「そうそう、名札を見るまで、オレきみのこと分からんかったもん。中学の頃はお互い丸坊主だったからなぁ」
 どうやら彼もUターン組らしく、そんな会話で盛り上がりました。

 それで、葉書の交換なんですが、書き損じの葉書は5円払っても年賀葉書には交換してくれないんですね、知らなかった。なら、10円出したら? それでもダメみたいです。
「だったら50円出すから年賀葉書に交換せぇや!」
 なんて凄んだらどうなるかって? そんな大人気ないこと……やってみたいけど。

 ある人が年賀葉書を買ったすぐその場で、「あ、インクジェット用紙が要るんだった、交換して下さい」と、突き返したら、一枚に付き5円の手数料を請求されたといいます。
 いくらなんでもそんなことあり得ないと、それはぼくも試してみたんですが、「今年のでしたら無料で交換します!」と、逆に凄まれてしまいました。
「相変わらずキミぃ、変人なんやねぇ」
 と、同級生に笑われましたが、彼だって未だに昔の癖を引きずってるそうです。人間そんなには変わらない、いや変われないんですね。なので、喪中葉書は出さず、寒中見舞いでお茶を濁してみようと目論んでます。

喪中欠礼につき、なんてこったい!

2007年11月28日 | 暮らしの落とし穴
 喪中欠礼の葉書やメールを頂く中で、「ペットが亡くなった喪中に付き……」というのを頂き、驚きました。親殺し、子殺しが珍しくないという人の命の軽んぜられる当世にあって、ペットの命が重みを増して来たとは感じていたけど、遂に人とペットの命はバランスしたようです。いや、もしかしたら当事者にとったってみると、ペットの方に天秤が傾いたのかもしれません。
 そんなことを考えていて、ハゥッ! と思い至ったのは、うちも喪中だ、ということでした。

 あまりのショックに、つづきは明日にでも……!

ママの残り香の中で

2007年11月27日 | 暮らしの落とし穴
 つづき

 A君と遊んでいると、一足お先に大人になっているんだよ、という意識が言葉の端々に現れているようで、ぼくはなんとな引け目のような、劣等感のようなものを感じたものですが、理由は彼が村でも有数の富豪の一人息子だったからです。貧乏人の子沢山の末っ子に生まれたぼくとは明らかに違う家庭の香りを放っていました。

 家庭の香り……。それは実体の無い観念的なものではなく、本当に良い香りが漂っているような家だったのです。
 彼は華道をお師匠さまである「ママ」と二人で暮らしていましたが、当時ママはまだ30台半ばの、とても艶かしい女性でした。
 小学校の女教師はA君自身に男を見て惚れ、男性教師はA君の後ろにママの姿を見て、ただでさえ出来の良いA君を更にえこひいきしたしたものです。

「ここがぼくの部屋。それからここがママの寝る部屋」
 ある日、A君に誘われて家を訪れたら、美人のママはおらず、ぼくは少なからずがっかりしたのですが、その代りママの寝室へ案内してくれました。
 ママの寝室は和室でしたが、部屋の奥の一段高くなった所にはシルクのカーテンがかかったベッドがあり、今にもクレオパトラが起き上がってきそうな雰囲気でした。

 未だかつて見たことの無いオンナの部屋で、言いようの無いほど胸を高鳴らせ、あれがベッドというものか、ベッドとはこんなにも人をワクワクさせるものなのか、大人になったら絶対にベッドに寝るんだ! とママの残り香の中で誓ったものです。
 
 そうやってベッドに憧れ、実現はしたものの、これまでに一体何度ベッドから転がり落ちたことでしょう。それなら枠の付いたベッドにすれば良いようなものですが、ママのベッドにそんなものはありませんでした。

 所詮、人は番付を背負って生まれてくるもの。ぼくはA君にはなれないし、ついぞママのような女性とめぐり合うこともかなわず、今の体たらくです。身の丈に合った畳の上の布団がぼくには似合っていると、ようやく認めることができたのです。

 おわり

人は番付を背負って生まれる

2007年11月26日 | 暮らしの落とし穴
 昨日のつづき

 女性の寝室を覗いた、といっても隠れて覗き見したのではなく、招待されたといった方がいいかもしれません。
 あれは小学5年生くらいの頃だったでしょうか。クラスにA君という背が高くてハンサムな子がいたのですが、後に彼は野球選手として強豪高校に入学したほど運動神経も抜群でした。顔だけでなく頭も良かったし、歯並びが美しく、歯ブラシや歯磨きのテレビコマーシャルに出演させたいくらいの美少年でした。

 ぼくとは4年生の頃から同じクラスになったし、彼とは家が離れていたので大の仲良しというほどではないにしろ、わりと良く遊んだものです。でも心の奥ではどうしても打ち解けることは出来ないなって痛感するほど、彼とぼくは境遇が違いすぎました。
 それはまるで、雑種の野良犬とドッグショーの覇者くらいの違いで、「人は生まれながらにして平等である」とか「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なんて言葉は、願望でしかない、と達観する術を教えてくれた友だちでもあったのです。

 づづく

ベッドから転がり落ちて思う、日本人なら布団だ!

2007年11月25日 | 暮らしの落とし穴
 瀬戸に揺蕩う島々が紅葉に色付き始め、来島海峡大橋の上から眺めると、あたかも壮大な日本庭園を、錦帯橋みたいな橋上から見下ろしているみたいで、中国は杭州にあるという西湖の庭園に想いを馳せてしまうぼくです。
 
 しかし論理的に考えて、こんな眺めはぼくが子どもの頃には無かった筈です。もちろん橋は当時ありませんから、島々を神のごとく見下ろした記憶が無くて当たり前ですが、あの頃の島の木の多くは松でしたから、こんなに紅葉していた筈が無いのです。

 それが20年ほど前に松食い虫の被害を受け、松という松が倒れて禿山となったのを受け、広葉樹が勢力を伸ばしての今ですから、この山々の美しさは松食い虫のおかげ、と言えばあるいは言えるのかも知れません。
 我が島も寒暖の差が大きくなり、紅葉が加速し始めると海も冷え、野生種の小振りな牡蠣も身が締まり始めました。

 実はこんな冷え込む夜に、掛け布団ばかりか、ぼく自身がベッドから転落するという忌まわしい災難が降りかかり、腹いせにベッドを分解してしやりました。
 そもそも日本人なら畳の上に敷いた布団に寝るべきなんです。それが古式正しい伝統なのです。布団の上げ下ろしが面倒だと言うなら万年床にしておけばいいじゃないですか。ベッドだって所詮は万年床なのですから、ベッドに寝る理由が西洋かぶれだとしたら言語道断です。

 ならどうして我らがご先祖さまは面倒くさい布団の上げ下ろしなどを始めたのでしょう。思うに、押入れに布団を出し入れするのは、一見すると不合理で無益とも思える労働ですが、その対価として快眠が約束されるのです。こうした一連の運動こそが就眠のための儀式であり、それこそが日本人のアイデンティティーなのではないでしょうか。

 縄文人の住んでいた竪穴式住居にはベッドがあったとされ、それらが復元されています。我々のご先祖さまは地べたに寝ていたんじゃないんです。やがて低い床の住居に住むようになり、畳が発明されたからこそ日本人はベッドを廃したのです。こうして、まずは貴族階級で布団の上げ下ろしという儀式が成立し、庶民に伝播されていったと思われます。

 こんなこと言うのは、なにもベッドから転落した腹立ち紛れに詭弁を弄しているのでは……って、それもちょっとあるかな。まあとにかく、布団の上げ下ろしというのは日本人の衛生観念にぴったり合ったんだと思います。
 そんなこと考えていて、女性の寝室を初めて覗いた小学生の頃を思い出してしまいました。

      つづく

満月が魂を呼ぶのか

2007年11月24日 | 暮らしの落とし穴
 11月24日の今日は、旧暦でいうと15日に当たるようです。15日というのはつまり十五夜ですから、過疎の進む暗い田舎の空には、不気味なほど大きく見える満月が東の空を照らし始め、今宵はライト無しで外を歩けます。

 狼男は満月の夜に変身するのが常であるように、満月の夜というのはいにしえより不気味な出来事が多く発生するとされており、地球上に生きとし生ける者の生死は月の満ち欠けに影響を受けるというのです。つまり美しい月を愛でる我々の魂もまた月の力によって天空に召されると考えられるのです。

 人が死ぬのは満月と新月の日が最も多いのだそうです。どこのどなたが統計をとったか、はたまた迷信か俗説か知りませんけど、ぼくは何となくこの説を妄信しております。それを裏付けるかのように今日、ご近所の飼い犬が亡くなりました。

 享年14歳だったといいますから、あの犬は人年齢に換算すると80~90歳といったところでしょうか。でもついこの前まで人を見て吠えていたし散歩する姿を見かけたのに、数日前から体調を崩したかと思うと、今日になって容態が急変したらしいのです。

 やっぱり月に呼ばれたもようで、同じ犬小屋に住んでいるもう一匹の犬はそれを感じ取ったのか、昨夜は冷え込んだにもかかわらず犬小屋に入って眠らなかったといいます。
 飼い主はまさかその翌日に死んでしまうとは思っていなかったというのに、人知を超えた何かが犬には分かっているのでしょうか。いくら科学が進歩したからといって、人が分かっている事なんてたかが知れていて、犬にさえ及ばない場合もあるんですね。

こんな所でくじけないでね

2007年11月23日 | 社会
舛添厚労相、火消し躍起 「不明記録出てくる」は公約違反ではない(産経新聞) - goo ニュース

 個人的には好きでも何でもない、とすら言えないほど舛添厚労相には馴染みのないぼくですが、この逆境の中で良く仕事してるな、という印象を受けます。歴代の大臣の中でも出色の仕事振りなんじゃないでしょうか。

 でもそれだからって、限界が無いって訳じゃないでしょう。半年やそこらで社会保険庁職員の意識改革はいうまでもなく、システムの一部だってそう易々とは変わるはずもありません。

 というのも先日のこと、社会保険庁から国民年金の「催告状」なるものを頂きまして、請求もされていないし、振込用紙ももらってないのにどうやって払ったらええねん、というか高飛車にも催告状とは何様のつもりか! と、ただちに社会保険庁に出向いたんです。

 場合によっては暴れてやろうかと思いながら扉を蹴破って入るなり、「いらっしゃいませ、ご用向きを賜ります」と、受付の女の子が立って出迎えてくれるじゃありませんか。これですっかり初心を忘れ、でれでれとご用向きを話しましたら、係のおじさんが対応してくれました。

 ですがおじさんが出てきた時点で、またもやぼくの腹の虫の居所が悪くなり、事と次第によっては……。と構えたのに、窓口のおじさんは怒鳴られ慣れしているのか、このとき既に逃げの体勢に入っていました。

「機械的にこの葉書を出してしまうもので……。改めて別の案内を送らせていただく手はずになっております」
 と、1ヶ月余り待ってほしい旨を告げられました。自動的に一体何人にこんな葉書を発行しているんか知りませんが、なんて無駄で腹立たしいとをしてるんでしょうね。

 手違いだと認めてはくれたんですが、特に謝罪らしい言葉も聞かれませんでした。でもあんまりこちらの顔色をうかがうような仕草を見ていて気の毒になったので追求する気になりませんでした。

 それにしても、「回収は外部機関に委託しております」と、葉書にはあたかもサラ金の取立て屋に頼んだから怖いぞ、知~らんぞ、知ぃらんぞ! みたいな表現には少なからず憤りを覚えます。
 こういった不行き届きを改善するのに、舛添大臣にはもっとがんばってもらわないといけません。こんな所でくじけてもらっては困るんです。

盲導犬の一生は

2007年11月22日 | 暮らしの落とし穴
 寒さ対策には、首、手首、足首をしっかりと閉めておくのが肝要だといわれます。その意味では女子高生たちの発明かもしれないルーズソックスは、防寒のスタンダードを踏襲したのみならず、ファッション性にも一時代を築いた画期的な靴下といえるでしょう。

 それがどうしたことか、近年とんと見かけなくなってしまいました。大阪辺りではまだチラホラ生息を確認できたのですが、過疎の進む田舎ではそもそも生息していなかったのか、それとも既に絶滅したのでしょうか。

 移り変わりの激しい当世にあってわずか10余年とはいえ女子高生ファッション界を席巻し続けたルーズソックスですから、やはり防寒の機能は比類のないものだったに違いありません。でも冬場にミニスカートで足を冷やしつつルーズソックスで防寒するのはまだしも、どうして夏場にも足首を防寒する必要が女子高生たちにはあったのでしょう。

 それはさておき、この寒空の下、ぼくもルーズソックスを履きたくなってスーパーに行きました。もちろん女装したいのではなく、足が冷えるからですが、これが見つからないんですよね。まあ生息していなかったら足跡が見つからないのも必然ですが……。

 で、仕方なくレッグウォーマーを買いましたが、880円もしました。ただの筒のくせになんでこんな高値が? おかしいじゃないですか、ぼくは女子高生の履き古したルーズソックスの切れ端でも十分なんです。もちろんそれが至高というんじゃないす、ものの例え、言葉の綾ですよ。

 まったく人の足元を見るのも大概にしてほしいもんですが、こちらはリーズナブルな価格がつけられていました。写真の、お師匠さまの近著「引退犬命の物語」。副題「命のあるかぎり輝きつづけた盲導犬たち」です。

 盲導犬としての責務を全うした引退犬たちは、新たな飼い主の元で第二の犬生を送りつつ、人に生きる勇気と希望を振りまこうとする。ただ人のためだけに生きた切なくも誇り高い4頭の盲導犬たち。その老後に光を当てたハートウォーミングストーリー。レッグウォーマーが要らないくらい温まります。

田舎の季節感に驚き

2007年11月21日 | 暮らしの落とし穴
 先日の冷え込みで唐突にしもやけを患ってしまい、こたつこたつ! と騒いだんですが、母が仕舞い込んでいてなかなか見つかりません。やっと見つかったと思ったらお子様用サイズじゃないですか。ぼくなんか最近の体重増で、こたつに当たるというより足かせをはめられたみたいに窮屈です。

 そんなこたつが二つ出てきたので、これらを並べたら広々として良かろうと思ったのに、真ん中に二台の脚がある関係で、それをかかえるようにあぐらを組むと、股間に当たってじゃまでしかたありません。2台を分解して連結したら足が取れるんですが、運の悪いことに2台は形状が全く違うのです。やむなくヒーターの部分だけを取り外し、他の大きなテーブルに取り付けました。天板もちょうど良い大きさのものがたまたまあったので、ほぼ完璧な仕上がりです。

 さっそくこたつに当たってみたら、いや~温かいこと。やっぱり日本人はこたつですね。で、お決まりの蜜柑を、と探したものの見つからないので蜜柑泥棒に……ではなく、キンカンとスダチで代用してみました。
 でも食えないものを眺めていたって間抜けなだけなので、キンカンをむいて食べてみたんですが、なんと酸っぱい。そうです、キンカンは皮を食べるものだってのをすっかり忘れていたんですね。田舎に戻ってきて、季節感のある生活に驚く毎日です。