らんかみち

童話から老話まで

村人の寛容に支えられての一年だった

2011年12月31日 | 暮らしの落とし穴
 大つごもりが月隠り(つきごもり)の意味であることは誰もが知りながら、当地では「大・つ・も・ご・り」と訛るのはなぜだろう。この件を子どもの頃から何度も追求してきたわけだが、いまさら蒸し返して年寄りの不興を買っても仕方あるまい。
「つもごり蕎麦を買いに来ました」と、昨日スーパーでお会いしたおばちゃんに答えてふと見るれば、「山芋入」と書かれた地元産の蕎麦が! 山◯製麺さん、やるじゃないか。

 山◯製麺さんも、スーパーの外でソースオムそばを焼いている鉄兄ぃも島おこしのメンバー。従って、昨夜は鉄兄ぃの焼き鳥で痛飲し、本日は山◯蕎麦で年を越そうと目論んでいたのに、無い、無い、山芋入の蕎麦が売り切れてしまっている。
「先日から一族郎党が勢揃いして製麺してますよ」という情報を聞いてはいたけど、まさかこれほどの人気商品とは。かくなる上は自分で蕎麦を打ち、な~んて無粋なことはやらない。大晦日は山◯製麺の蕎麦で年を越すのが昔からの習わしなので、普通の山◯蕎麦を買った。

 思えば、損長職と島おこしに明け暮れた一年。ていうか、まだどちらも幕が閉じたわけではなく、シームレスな感じがズーッと続いて新しい歳を迎えねばならず、仕事納めって感覚が無い。
 他人様に「良いお年をお迎え下さい」と、つもごりの虚礼をする前に、来たる年がぼく自身にとって良い年であれかし。自身が息災でないと、他人様への奉仕もままならないのである。
 とはいうものの、他人様の寛容に助けられてこその一年であることは疑いようもなく、皆々様方におかれましては、来たる年が無上の年でありますように<(_ _)>

愛液の作り方

2011年12月30日 | 暮らしの落とし穴
 愛媛県のことを愛姫県と書いても手紙は届くが、みかん県と書かせようとしたら和歌山県や静岡県からクレームがつくかもしれない。「愛媛県産には愛がある」と、県職員の名刺には書いてあるが、「愛知県産にも愛はあるでかんわ!」というクレームは来なかったのだろうか。
 ちなみに「愛姫」で画像検索すると「めごひめ」がヒットするのだが、「愛液」で画像検索するのは、たとえセーフサーチを「強」にセットしていても推奨できるものではない。



 ここでいう愛液とはLove juiceのことではなく、Love's fluidと訳せるかも知れない。しかし愛といっても愛媛の愛でもなければ愛知の愛でもなく、愛華さんの愛なのだが、漢字で書くとあらぬ誤解を招きそうなので「AI」と名付けたかも知れない。
 すなわち、納豆菌・乳酸菌・酵母菌のパワー菌液「えひめAI」について言及するつもりである。というか、「えひめAI」で画像検索すると数多くヒットするので、自主的に調べてほしい。

 この液体が何に効果を発揮するのか、ぼくには定かでなく未だ作っていないけど、(故)坪田愛華(享年12歳)さんの著した「地球の秘密」は読んでみたいと思う。
 えひめAIを開発された元愛媛県職員の曽我部義明さんは、この絵本(漫画)に触発され、作者の環境を思う気持ちを微生物に託したのだとか。「地球の秘密」を読まずに言うのもいかがなものかと思うが、著者が今年の原発禍を目の当たりにしたらどんな物語を書いたろうか。

 個人的に緊張が続く事態を迎えているので、あちらこちらに逃避している体たらくだが、ようやくテレビとパソコンがしっくりといくようになった。大画面でブラウザを開いて作業するのはとても快適で、文字を大きくしなくても自動的に読みやすい。
 ということで、画像検索もサムネイルだけで良く見えて楽になったわけだが、念のために申し上げておくなら、賢明な諸氏におかれてはLove juiceで画像検索するのも、お勧めできない。

走馬燈を見て生きていることを喜び

2011年12月29日 | 暮らしの落とし穴
 スーパーの駐車場内を運転していたら、トラックの陰から出てきた車に運転席側をぶつけられそうになり、出来の悪い小ぶりの走馬燈を見てしまった。階段から転落したり自転車でこけたりと、子どもの頃のように一連の動きがスローモーションで見えたのは久しぶりで、こんな危機的状況に陥ったとき、生きていたんだなぁ、と実感する。

 一年の総決算とばかり、テレビはどこの局も3.11の映像を流してくれるけど、それこそ走馬燈のように昔の出来事に見えてしまう。3,490人といわれる行方不明の人たちは今も冷たい海の底に瓦礫と共に眠っているはず。堆積する泥に守られながら、ポンペイの遺跡のようにいつの日にか発見されるだろうか。

 10日ほど前うちの島に漂着した女性遺体の身元は未だ不明で、警察が人相書きを回覧させている。誰にも知られず極寒の水底で朽ちるのも嫌だが、引き取り手が現れず荼毘に付されるのもまた哀しい。とか考えていて、自分は生きているんだって実感は湧いてはきたけど……。

 さて今年も残すところ3日。地元の企業も昨日が仕事納めだったかして、村は静寂に包まれている。そことの懸案だった問題もようやく解決のめどが立ったかな。自分たちは世界企業だ、というプライドのある人たちを相手にするとき、ぼくの軽い頭ならいくらでも下げるけど、村の頭を簡単に下げるわけにいかんので難儀する。
 
 来年の3月には村で大きな問題が発生する予定なので、そこに向けて1年前から段取りをしてきたし、なんとかなると信じている。ただ、「当てと越中ふんどしは勝手に外れる」とも聞いているので、年明け早々からふんどしを締め直しに行こうと思う。いくら生きているのを実感したくても、こういうので危機的状況に陥りたくはないからね。

テレビの設定に1日がかり

2011年12月28日 | PC WEB
 テレビの設定を進めたらフルハイビジョンでパソコンが使えるようになった。文字が滲む感じがするのはフォントサイズが大きくなったせいだろうか。パソコンが画面の大きさについていかないもどかしさもある。

 設定でまだ良くなるのでは、という希望は捨ててないものの、このテレビは東芝レグザのような人気機種ではない。ネットのクチコミで設定の方法をカンニングしようにも、クチコミ数ゼロではいかんともし難し。
 

テレビにパソコンをつなぐのはいかがななものか

2011年12月27日 | 暮らしの落とし穴




 テレビは無いしパソコンのディスプレイは小さいのを二つ並べて使っている現状で、テレビを買ってディスプレイにしたら全てが解決するじゃないか! コロンブスの玉子よりはるかに簡単なことなのに、すぐに思いが至らなかったのは我ながら理解に苦しむところ。
 ではそういうことが本当に可能なのかどうか検証するために電気屋に足を運んできたけど、パソコン売り場では「きれいに見えませんよ」とディスプレイを勧められ、テレビ売り場では「できないことはないですよ」とテレビの購入をそそのかされた。同じ店で矛と盾を売ってんじゃねーよ!

 いろいろ調べてみて、絶対にできるはず、という確信を得たのでテレビ選びを始めて3か月。上手くいきそうな機種が見つからなかったけど、この秋に発売された日立製のテレビが上手くいきそう。そいつの価格に目を光らせてきたけど、まあ値下がり率の激しいことったらない。そうとう人気のない機種のようだが、値下がりする魅力に抗えず、5万円を切った時点で発注。

 本日届いたのでセットアップしてみたら、1280×1024ピクセルの解像度でのみ使用が可能だった。普通のディスプレイが大きくなった感じで全く違和感がない。1920×1080にすると、画面が荒れるしパソコンのパワーが着いていかない。そいうことは32インチのフルハイビジョンテレビでなくても良かったんじゃないか。
 しかもパソコンとテレビの2画面表示だと、実質的にはパソコンが使えない。まだまだ設定の余地があるはずなので試してはみるけど、画面がでかすぎるとパソコンとして使うには非情に疲れる。目を動かす距離が延びてしまうから。今は24インチ相当の画面で作業しているけど、これで十分だと思う。
 にしても、2兎を追う者は1兎を得ずとはよく言ったもので、パソコンはディスプレイ、テレビはテレビで見るものなんだ!

日本列島に鎮守の撚りを

2011年12月26日 | 暮らしの落とし穴


 しめ縄は奉納するものなのか、飾るものなのか、それとも別の呼び方があるのかどうかすら知らない損長で申し訳ない。どうせこの程度だろうと、宮司さんが祝詞をあげるときに飲んだくれて寝ていたぼくを、村の誰も起こしに来てくれなかったのは寂しい限りじゃないか(日曜日の朝)。

 しめ縄というのは、三本の藁束に撚りをかけているのだが、このうちの一本は作り直していなければぼくの作。これらに撚りをかけるには、しめ縄の太い側三本をまず束にし、電柱のようなしっかりした構造物に針金などで固定する。そうしておいてから男たちが一本ずつの縄に撚りをかけながら三本を一つに編み上げるのだが、かなりな力を要する作業だ。

 写真では見事に直線美を保っているが、実は縄の中では一本の竹が中心で頑張っている。ただ単に縄を吊しただけではこの均整美は保てないのだと、今回初めて知った。
 一見すると2メートル余りのちっぽけなしめ縄だけど、元の藁束は4メートル近くもある。それぞれに強い撚りがかけられ、短くなることを加味して菰を編んでいるわけだ。

 苛烈を極めた日本列島の一年が過ぎようとしている。当地では震災の影響というほどのものが無く、なんだか世間様に申し訳ない。被災地に対して何の力にもなれなかったばかりか、ほんの9か月前のことを忘れかけ、年が明けたら全てがリセットされるんじゃないか、なんて正月気分に浮かれかけている。
 政治的にも経済的にもユルユルになった今年の日本列島。しかし被災したゆえに、日本人の絆に鎮守の撚りがかかることを願いつつ、本年の最後の週を過ごしたい。

いかがわしいキノコでクリスマス

2011年12月25日 | 酒、食
 黄金タモギ、ハナビラ茸、とき色ひら茸、などと耳に馴染みのないキノコが堺市のスーパーで当たり前のように並んでいた。中国から来日した人が多い地域なので、もしかしたら地域性の強い食材なのかもしれない。これらと出会うためにオレは堺市まで来たのではなかろうか、とキノコと目が合った気がして買い込んだ。

 昨夜は鶏と玉ねぎとキノコたちを使ってクリームシチュー風にしてみたが、それぞれ異なる食感が素敵じゃないか。本日は豚バラ肉と共に塩コショーで炒めてみるが、天ぷらにして蕎麦のお供に良いかも。でもキノコの天ぷらは案外難しいんだよな、好きなんだけど。



 とき色ひら茸は羽根が生えて飛んでいきそうだったから昨夜使い切った。ピンク色なので色彩的には重宝すると思うしグミグミ感があって素敵だった。だけどブナシメジで代用しても、そこそこいけるぞ! ただ、値段が高い……。



女の中では、やがて男が醸されると人の言う

2011年12月24日 | 男と女
 NPO法人の登記が完了したことを受け、昨夜は初の会議だった。社員が一堂に会し、設立を記念してのイブイブ・パーティーに近い気がしないでもない。酒食の合間にそれぞれの胸に秘めてきた島おこしへの思いをつまびらかにしたわけだけど、女性が少ないのはどうにかしないといかんな。
 ちょいとばかり若くて肉感的な女性が社員になってくれたなら、そうさな、男性社員があっという間に増えるに違いあるまい。ただ、煩悩だらけの社員ばかりが増えてもトラブルの元になるだろうから、愛想が良くて中途半端に色香のある女性が良かろう。

「50歳も半ばを過ぎた頃から、私の中にヲトコが出てきて……」いつぞや、中途半端に美人のご婦人からそんな話を聞かされたことがある。あまりにもショッキングだったので、「そ、そのヲトコいうのは、人面疽みたいなもの?」と確かめることはできなかった。
「ヲトコダッセェ~、ヲトコガデテキヨリマシタガナ~」と、中村玉緒さんの声で人面疽がしゃべったら、そうとうに怖いやろか、それとも笑うてしまうやろか。
「だから私、もう男はいらないの」という言葉が、肉体的な意味なのか精神的な意味なのかは終ぞ聞けなかった。しかし、自分の中に女が出てきたら……と、ちょっと想像してしまったのは正直に申し上げておこう。

「韓国では、女性は生涯にわたって美容整形を繰り返す」とい話を聞いたことがある。女性は肉体的にも精神的にも磨き続けていないと、ある時期を境にヲトコが顔を出すようになる、からだろうか。
 であるなら、男を磨き続けていないとヲンナが出てくるのだろうか。いや、その心配は無用らしい。
「男ってね、足腰が立たなくても、たとえ認知症を患っていても、男を忘れることはないよ」介護の現場で働く女性が、「しょっちゅう爺ちゃんに抱きつかれる」と述懐していた。
 人としての尊厳すら忘れるようになっても、かつて自分が男であったという事実は条件反射の形態で残るものなのだろうか。だとしたら、男って滅するまで不自由じゃないか!

食い物に活路を、てか現実逃避だね

2011年12月22日 | 酒、食
 村を留守にしていたら水面下で問題が勃発していて、クソッ腹の立つぅ! ぼくが関西方面で遊蕩三昧という心無い噂もあるらしいが、それは事実無根……というわけでもないか。友人の墓参りもしたけど、確かに飲んだくれてはおったな。
 しかしまあ、飲み食いも修行のうち。つまり関西の最終日は有名蕎麦を食い、人々はどうしてこの店に通っているのか、謎の解明に勤しんでいたのが真相と申しておきたい。

 名前は伏せておくが、堺市にある蒸籠蒸し蕎麦の店は創業100年というから半端ではない。多くの人に「あそこの蕎麦を美味しいと思いますか」みたいにインタビューしてみたことがあるけど、「無上である」と賞賛する人もいれば「蕎麦に非ず」と吐き捨てる人もいた。
 蕎麦打ち仲間でもあった友人が亡くなる1年前、共に蕎麦を食った店だが、「蕎麦臭いうどんだな」と彼が評したように、蕎麦と呼ぶにはあまりにもうどんが勝っている。だが、汁は絶品と評せるのではなかろうか。

 熱々の蒸籠に蓋をされた状態で蕎麦が運ばれてきたとき、「汁の準備ができてから蓋を開けて下さい」と指示がある。そこでまず汁椀に鶏卵を割り入れ、チャカチャカと良く掻き混ぜてから徳利に入った熱々の出汁醤油をぶちまける。これは避けて通れない儀式で、ネギと練りワサビも入れたければ好きにしたらいいけど、あくまでも「付きもの」という認識を持つべきだろう。
 儀式を済ませてから蒸籠の蓋を取らねばならない訳は食べ終える頃に理解できるのだが、早い話、冷めて乾いたら麺同士がくっついてしまうんよね。

 全卵1個を使うので出汁醤油は辛口。出汁はイリコだと思うが、汁だけをなめてみると、なんだか生臭さを感じる。なのに玉子を混ぜると臭みが消えるどころか、えもいわれぬ風味が沸き立って魅了される。そう、そのときの幸せは玉子かけご飯を食べるときのそれに優るとも劣らない。
 恐らく、この汁にラーメンの麺を入れようがマロニーを付けようが、何でも美味いに違いない。だから蕎麦である必要もないのである。だからといって、もしうどんだったなら、お腹を満たすための1斤半の量で1000円などもってのほか! 原価の高い蕎麦だから腹が立たないだけなのである。
 
 もう1軒の蕎麦屋は「大名そば」で画像検索すれば数多くヒットする、こちらも人気店。今回は行けなかったので検証はできないけど、やはりうどんの勝る麺で、個性的かつ毀誉褒貶の著しさでは先に挙げた店と双璧だろうか。いずれにしても、一部の人を虜にできる蠱惑的な蕎麦であるのは間違いない。
 とまあここまで書いて、娑婆に戻って気づく非情な現実の憂さを晴らしたいから食い物の話に逃避しているんだぁ、そうだったんだ!

粉屋の娘の言うことにゃ

2011年12月21日 | 酒、食


 3日も留守にして戻ると、家の中の様子が一変しているのではないかとビクビクするのだが、今のところ大きな異常は認められない。母は冷凍食品を温めることもままならないので、「食べ過ぎてお腹が大きい」と聞くと、いったい何を食べたのかが気になるけど、「食べてない」と聞かされるよりは安心できる。

 そういった危険を冒しながら、たかが50㎏の玄そばを粉にしてもらうために堺市まで車を駆る愚を嗤うなかれ。玄そばを粉にするというのは、朝飯前にチョチョイのチョイでやれることじゃないのだ。
 石臼で玄そばを挽いたことはあるけど、その前の行程で石を選り分け、更に砂を落とす磨きの行程が非常に難しい、というより面倒なのだ。ここで手を抜くと砂っぽいそばを食う羽目になる。

 粉屋さんの工場内を見せていただくと、なるほど、こうやって石を選り分けるのか! 実に原始的な方法ではあったけど、目からウロコの大発見。大量生産をするときには、そうやって選り分けた玄そばをロール製粉機で粉にし、工場の4階から落として篩いにかけるのだとか。
 持ち込んだ玄そばが実際に粉になっていく姿を見ることはできないので、粉屋さんに任せるしかない。「丸抜きにして、ロール挽きではなく石臼で」とお願いしておいたからには、そうしてくれたと信じている。

「今日は2階で蕎麦会をやってますよ」と聞いたので顔を出すと、蕎麦打ちを教えてくれた懐かしい面々が!
「NPOのメンバーが100人に増えてね、我々が育てた20㎏のそばを粉にしてこれから試食です」とおっしゃるので、「我々はおよそ100㎏の収穫がありました」と答えたのはイヤミだったろうか。

 それはともかく、「玄そばはきれいな状態だったし、製粉を終えても良いそばだというのが分かります。地域おこし頑張って下さいね」と製粉してくれた粉屋の娘さんがおっしゃるので、なるべく早く蕎麦を打ってボランティアの皆さんに試食してもらおうと考えている。