中学校を挙げて「少年式」という行事をしているのは愛媛県だけらしい。「立志式」なと呼んでいる県もあるらしいけど、つまるところ昔の「元服」か。その式に陶芸作品を焼いて展示するのが当地の習わしで、我々陶芸クラブはそのお手伝いを長年してきた。
とりわけ、クラブの「マザー・テレサ」を自負する要釉斎先生は、中学生たちに陶芸の手ほどきするのを天命としてきた。「金などは要らん」と、高潔な情熱を注ぎ、無償のライフワークと位置づけてきた。
しかし、中学生と陶芸の一期一会について無理解なクラブ員や、無償の行為に不満な部員もいる。加えて、「生きておるだけで精一杯じゃ」というお歳なので遂に今年、陶芸指導から引退なさった。
ぼくはといえば、鎖骨を折ってクラブに顔を出すのもままならない容態だったので失礼してしまった。せめて撮影などしようと作陶の当日に顔を出したところ、入門の手ほどきもせずに土いじりをさせるじゃないか。
彼らの人生における最初で最後の陶芸となるかも知れないのだから、陶芸のなんたるかを5分語ったところでバチは当たらんのに。
ごく基本の部分を教えていなかったのと、スタッフによる素焼きにも問題があったようで、例年になく爆発した作品が多かった。1個の作品の上と下で焼けムラがあったら、そりゃ破損もするわい。
手伝えなかったぼくが偉そうにもいえないけど、「窯出しの儀」も執り行わないとはどういうことだ。中学生たち自身の手で作品を窯から出す行為。この瞬間こそが陶芸の醍醐味であり感動的であるのを知らないわけじゃなかろう。
中学生たちも先生方も忙しいし、スタッフだって窯出しの儀に時間を合わせるのは面倒だろう。しかしそれをやらないと、陶芸の喜びを伝え切れるものじゃないだろうに。
最近の子どものなかには、米が木に生っているとか、白い状態で収穫されると思っている子もいるらしい。刺身が海に泳いでいると思い込んでいるなら、それはお魚さんに失礼だろうが。
土をこね、素焼きをしてから絵付けをし、釉薬をかけて窯で焚いて初めて作品に命が吹き込まれる。これを教えずして陶芸クラブの存在価値はない。
こんなばかげたことことやめてしまうか、さもなくば要釉斎先生の指導要領を踏襲すべきだ。できないというなら、オレがやってやる。