らんかみち

童話から老話まで

イソモン食ってフードマイレージを考える

2010年04月30日 | 酒、食
 こんな田畑だらけの田舎でありながら、天候不順と火山活動の影響で野菜の価格は右肩上がりを描いております。今更ながらフードマイレージについて喚起させられながら、青物には手が出んからきのこでも買おうと思うのに、便乗値上げかい! 仕方ないのでうちの畑から成長途上にある玉葱やら明日葉やらを引き抜いたりしてやりくりしつつ、肉気の食材も欲しいなと思案していたら、海の虫をいただきました。
 虫といってはこいつらに失礼なら、魚介類とでも呼んでおきましょうか。しかしいずれにしても海岸に出たらそこらじゅう這い回っているんだから、陸上でいうならナメクジやらカタツムリに違いありません。

 和歌山の人たちはこれらをイソモン(磯物)と呼んでこよなく愛し、ぼくみたいな大阪南部から訪ねたのヨソモンにも、「旨いから食え」と付き出しに勧めてくれたりしたものです。
 大阪人はというと、南のほうではこれをガンガラと呼び、「金無いからサザエが食えへんのや」などと赤貧をかこちつつも、「サザエより旨めぇんだ」などと東京の人みたいに高楊枝などくわえたりしません。だって本当にサザエより美味しいから。
 
 厳密に言えば、ガンガラはイソモンの部分集合ではないか、つまりこれらバラエティー豊かな巻貝の中にガンガラという種類が含まれていて、そいつが一番旨いんだと思います。でもイボニシだって苦さで存在を主張しているし、その他のだって負けておりません。
 当地でもイソモンはスーパーを頼っていては、なかなか手に入りません。自分で採りに行くか、運がよければごこうして近所さんにいただけるって代物なんです。そらそうだわ、フードマイレージがどうのこうの言うても、オーストラリアから輸入した牛肉のほうが美味しいもん。というのは建前で、イソモンはひっそりチビチビ食べてこそ蜜の味ってね。
 
 と、ここまで偉そうに書いておきながら、うっかりゆで過ぎてしまって、身が抜けんがな! やむなくプライヤーで殻を割って食べるという不始末。情緒もへったくれもあったもんじゃないよ、トホホ。

しめサバの天ぷら

2010年04月29日 | 酒、食
 美味しい〆鯖を売っている店を見つけたので再び買ったんですが、こんな味はグルタミン酸でも添加しないと出せないよな、なんて食べながら、天ぷらにしたらどうなんだろうって思いつきました。
 やってみましたけど、なんて恩知らずなこと仕出かしたんだって反省しました。味の付いたものを天ぷらにするもんじゃないんですね。

目覚めるならモーツァルト、眠るなら……

2010年04月28日 | クラシック音楽
 早朝から携帯メールの音が鳴り、あぁモーツァルトで目覚めるのは気持ちいいもんだなぁって改めて感じました。呼び出し音も同じくモーツァルトのオペラからアリアを選択してますけど、モーツァルトならセラナーデ(小夜曲=さよきょく)やディベルティメント(喜遊曲)で目覚めても悪くないと思います。だけど、いくら好きでもショパンのノクターン(夜想曲)で目を覚ましたいとは思いませんね、たとえばこんな曲。

Chopin nocturne 48/2 - G?lsin Onay


 トルコ人のピアニスト、ギュルスン・オネイさんの演奏ですが、このお姐いさんが顔を歪めながら演奏する気持ちは分かります。上向する音形ならクレッシェンドしたくなるところを、ショパンはデ・クレッシェンドを指示し、ピークでピアニッシモを指定されたりすると、おお何でや! と欲求不満を感じて、「いやん、焦らさないでぇ~」と身もだえしそうになってしまいます。
 
 短調と長調が入れ替わり立ち代りして聞く側の脳を揺さぶられるのがショパンの魅力ですが、朝っぱらからこれをやられて目覚めの良かろうはずもありません。もちろんショパンだってシンプルで爽やかな名曲を書いてくれてはいますが、モーツァルトのウキウキ感を凌駕しているかってなると……。そんなこんなの物想う今宵です。

メタボ講座に出たら死ぬまでデーターを取られます

2010年04月27日 | 暮らしの落とし穴
「そのバロック真珠様の植物は、野蒜(ノビル)であろう」と教えてくれる人あり。ラッキョウや玉葱と同じユリ科の植物らしいですね。そう言われたらマイクロ玉葱にも見えてきました。
 これって美味しいんですけど、玉葱みたいなものと聞けば健康にも良さそうで、チマチマと食べていたらメタボもマシになるだろうか。と言いますのも、保健婦さんが家庭訪問に来て、「メタボ講座のOB会に来てくれ」と案内をくれるじゃないですか。もし郵送で案内が来たならスルーするつもりだったけど、手渡しされたら出席しないわけにもいかないので行ったところ、「メタボに戻ってます」だって!
 
 今治(イマバリ)市には「バリッと元気体操」という、イマバリらしいネーミングのゆる~いご当地体操があります。今日はメタボ講座後のデーターを収集された後みんなでその体操を練習したんですが、はっきり言って動くストレッチに過ぎず、今治哲学とかコンセプトみたいなものは感じられません。当たり前ですね、体操に哲学なんぞ持ち込まれたらやる気をそがれてしまうでしょう。
 でもねNHKの教育でやっている「アルゴリズム体操」みたいに楽しそうなもの考えてもいいかなって思うんです。
 
 それにしても、メタボのデーター取りにいつまで協力しないといけないんだろう。
「お上のすることを甘く見てもらっては困りますね。決められたことは粛々と実行するのが我々の務めなのですよ。ええ、それがたとえ悪法であろうと何であろうと」
 保健婦さんたちの実直は良く理解できましたが、ぼくたちの健康を気遣ってくれているのかっていうと、さてどんなものでしょう。ああでも、おかげさまで再び減量に取り組むきっかけとなったのは間違いありません。要はこちら側の受け取る姿勢次第ってわけですね。

生海苔を食べたかったけど

2010年04月26日 | 酒、食
 海苔養殖業者のおじさんに言わせりゃ、「韓国海苔なんぞ海苔の内に入らん」のだそうです。たしかに韓国海苔を等級分けしたら最低ランクに値するらしいですが、韓国海苔を食べたときの口の中で解けてしまいそうな、あの儚さがぼくは好きなんですよね。韓国海苔だけで酒が飲めるほどです。
 
 当地は海苔養殖のバンクーバーなので……メッカなんて使い古された表現できますかいな、といって表参道ではさっぱり意味不明だし……まあちょいとした産地なんですね。だから去年はときどき生海苔をもらったんで天ぷらにしたもんですが、今年はありつけなかったです。
 
 朝市ではたまに見かける生海苔ですが、養殖業者もチマチマしたことやりたくないんでしょうね、でも島民への奉仕で出品してくれているんだろうと思います。一般の人の感覚では、海苔というのは乾燥しているのが普通ですから、生なんて気持ち悪くて食えないと思います。でも天ぷらにしたら美味しいんですよ、田舎に住んでないとこればっかりは味わえません。言うてしまえば海の草なんですけどね……。

教えてください、真珠のようなこの植物

2010年04月25日 | 酒、食
 リオ・デ・ジャネイロっ子がカーニバルのために一年間働くように、この島の人々は遍路市のために一年間働いているのです。そりゃ言いすぎだろうって声はあるかしれませんが、あながちオーバーだとは言えないほど島一丸となって三日間のお接待に明け暮れるのです。
 
 今年の遍路市は五月の二、三、四なんですが、当日に向けて花の苗を一年かけて用意する人、手造りの竹人形を削る人、ぼくみたいに蕎麦を打ってみようかと考える人(腰を痛めたので断念した)などなど、一年の総括というか、日ごろの想いをこの三日間に収斂して結実させるんだな、と思うほど島民は気合を入れるのです。
 
 本日はそのための草刈や溝掃除を村人こぞりて実施したんですが、ぼくも草刈機を振り回して、ただでさえ陶芸で酷使している腰にダメ押しを与えました。そのご褒美ってわけで、肉なんぞ食べて我が身をいたわってやろうと考え、牛タンのスライスを買いました。
 清水の舞台から飛び降りるつもりでステーキを買いに行ったまでは初心を覚えていたけど、帰ってみるとなぜかステーキでもローストビーフでもなく、牛タンだったのは情けない限り。でも焼肉とかに比べたらなんとなくヘルシーな印象じゃないですか。
 
 写真の真ん中にあるのは渋柿の若芽をてんぷらにしたもので、牛タンにトッピングしているのはバロック真珠……んなわけない。ニワトリじゃないんだから真珠なんか食えるかっての。
 ていうか、真珠ってニワトリが食って良いんだろうか。貝が作るんなら貝殻と同じてカルシウムかなって思いますが、だったら真珠玉子とか銘打って、真珠を食べさせたニワトリの玉子をプレミアム付きで売りたいよね、真珠どころの愛媛県人としては。
 
 どうでもいいことで悩むぼくですが、トッピングしているのはパールではなくラッキョウの一種だと思います。エシャロットをあげた人からお返しにもらったんですが、なんというものか名前は分かりません。至るところに自生しているようで、味はエシャロットの濃い感じで野趣にあふれています。柿の若芽ってのは特に味は無いんですが、揚げたてのサワサワ感はたまりません。
 この時期しか食べられないものって、それがたとえ草であっても、なんだか幸せ。只で手に入るから? ん~、それもあるかも!

異常気象下のしのぎかた

2010年04月24日 | 酒、食
 雪を頂いた石鎚山の上空には、積乱雲になり損ねたカのような雲が浮かんでおりました。昨日までの寒さが嘘みたいな陽気でしたが、せっかく植えたキュウリの苗は寒さのためか枯れるものが出てます。
 スーパーでは野菜の価格も急騰してますよね。なので昨日は明日葉と渋柿の若芽をてんぷらにしてみましたが、本日はカラスのエンドウなどをかき揚げにしてみました。

 カラスのエンドウは実が入ってしまうと硬くて食べられませんが、若いうちだと軟らかいんです。しかもてんぷらにすると青臭さも無くなって、美味しいとまでは言いませんけど、なんとか食べられます。安い野菜が出回るまで、しばらくはこうしてしのぎ切ろうかと考えております。

つぶやき効果

2010年04月23日 | 暮らしの落とし穴
「プリンターが古くて遅い」と日記に書いたら、近所のおばちゃんが4年物のプリンターをくれました。といっても、おばちゃんが日記を読んだというわけではなく、買い換えたから古いのをやろうという蓋然的な巡り合せに過ぎません。だけどこういう現象って良くありますよね、「噂をすれば影がさす」ということわざでも証明されてますけど。

 かつて勤め人をしていたある日のこと、「安来市に出張してたんだよ」と、後輩社員の前でぼくは地図を広げました。
「あき市って読むんですか」
 安来といえば安来節で有名ですが、あきといえば別のまちです。
「やすぎって読むんだよ。あきというのは広島じゃないか」
「ぇえ~? あきは高知じゃないですか」
「バカなことを言っちゃいかん、安芸の宮島って聞くだろう?」
「でも、阪神安芸キャンプって聞きませんか?」
 そんなことを話していたところ、
 プルルルル、プルルルル
 電話と取った後輩社員は笑いをかみ殺し、「○○さん、高知県立安芸病院さん、内線1番です」と呼び出してから、二人で大笑いしたことが思い出されます。
 
 当時、社員一人で広範囲な営業区域を担当していたので、営業車で日帰り出張というのは厳しいものがありました。そこで朝のミーティングが終わると、急な出張が入らないように願いながら仕事にかかるわけですが、営業マン同士が仲たがいなどしますと、相手に急な出張が入るよう呪詛に力を入れるのが通例でした。
「客、烈、恕、直、来、与謝の海病院、舞鶴病院……」
 陰陽師のやるように両手の指を合わせて印を切りながら、相手のテリトリーで最も遠路にある顧客の名を連呼するのです。
「お前、そんなえげつないことやるんか、それやったらこっちも承知せんぞ。機、破、損、客、猛、烈、恕、直、来、田辺病院、新宮病院……」
 そんなふうに陰陽師ごっこをやっていると電話が鳴り、
「こちらは○○病院ですが、担当の方に直ぐ来てもらいたい」
 などと、嫌いな上司が、担当する病院から呼び出され、
「お前らのせいやからな、帰ってきたら覚えとれよ!」みたいに捨て台詞を残して出張に旅立ったものです。

 こういった法則にはかねてより興味を持っていたんですが、本日より「つぶやき効果」と命名して欲しいもの名をを連呼しようと目論んでおります。しかしながらこの法則もたった一つ適用できないものがあるんです。女、女、女といくら叫ぼうが、彼女ができたためしはありません。この不可思議こそ目下の研究テーマです。

チンチン型急須とはこれいかに

2010年04月22日 | 陶芸
 バラ祭り2010で販売する陶芸作品を焼こうにも、まだ窯が一杯になるだけの作品ができておりません。かくなる上は大作を一点でもこしらえて誤魔化すしかないのに、急須みたいな面倒なもの作ってたら間に合わんがな。
「その急須の注ぎ口、まるでチンチンみたいやな」
 平べったい方の急須を組み上げて眺めていたところ、おばちゃんがいちゃもんを付けてきました。陶芸クラブに入って1年半、ようやく気がつくなんて自分でも相当鈍いなと思うんですが、うちのクラブって下品! 
 
 童話講座はお師匠さまという重石を頂いているので、チンチンのチの声も聞きかない上品なコミュニティですが、陶芸クラブには先生がいません。重鎮がいるとしたら86歳の要釉斎先生ですが、率先して下品な女体像作りにいそしんでおられる体たらく。おばちゃんたちまでたがの外れたことを言い出すのも無理からぬことです。

「君ぃ、注ぎ口がチンチンとは、どういうことかね」
 今度は茶人でいらっしゃる要釉斎先生がお出ましになられました。
「いや、そういうあれではなくて、どういったら良いか、注ぎ口を反り返らせてみたんです」
 急須の注ぎ口って反らせる必要はないみたいですが、反っているのも多いんです。だからといってチンチンに見えるかぁ? もしかしたらこういうものって、男と女では見え方が違うのかもしれません。
 
「急須は注ぎ口が命じゃ。君は命がチンチンで良いのかね」
 だからチンチンを作ったんじゃないって!
「うむ、チンチンとしてなら立派な形じゃ、がしかし、これでは小便の切れが悪かろう」
 そうおっしゃって、黒板に急須の分類を書いてくれました。
「君の作ったものは後手(うしろで)と呼ばれ、正式な茶会で使用するものじゃ。君は茶を飲まんなら、どうしてこんなものを作るのかね」
 横手という急須もあって、これでお茶を注ぐと急須の底がお客に見えてしまうので、尻を人に見せるように下品なことなんだそうです。

「年寄りの小便みたいに、垂れるチンチンはいかん、急須とて同じことじゃ、心して作りたまえ」
 ぼくはお茶を飲まないけど、どなたかにプレゼントするならコーヒーカップとか急須はまあ使い道があるかなって思います。でも注ぎ口がチンチンに見えるとしたら、人に差し上げるわけにはいかんがな。次回からは心して作る所存にございますぅ。

新しい物語が存在し得ないからこそ書く

2010年04月21日 | 童話
 とんぼっ子の合評会は、総勢9名で2時半に始まり7時半までみっちり。もう嫌! と音を上げてしまいたくなるほど作品を講評させていただき、してもらいました。飛び入りのプロも来てくださって深く鋭く温かく合評をしていただき、目からうろこの5時間でした。
 
 十人十色といいますから、一つの作品を読んだ感想は人それぞれで、「主人公のその態度は嫌いだ、いや好きだ」という個人的な趣味嗜好があります。独りで書いていると、ストーリーの論理的な破綻は客観視できても、好き嫌いの有無というのは独善に陥りやすいんですね。それを合評で指摘されるのは、ともすると自分自身の価値観を否定されたような気分にもなって、ぼくのいたいけな胸はおののくわけです。
 
 価値観が否定されることは、ままあっても人格まで否定されるわけではありません、つーか人格だって時おり否定されるかも……。だからって、そんなもん乗り越えられなくてどうするよ、たかが物語りじゃん。あぁ、されど物語、書いてみろと言われたら苦労するんですよ。
 
 だけどね、「日のもとに新しきものなし」って言葉のとおり、物語も新しいものなんて書けないと思うんですよ。
「偉大なベートーベンは音楽にできることを全てやってしまった、僕に何ができるのだろう」と、ベートーベンを畏敬していたシューベルトが苦しんだのと同じかもしれません。でもシューベルトは誰にでも歌える美しい歌曲をどっさり作曲したし、ショパンはピアノに詩を語らせました。
 
 今回の合評会で、ぼくの胸の内にモヤモヤと立ち込めていた、「シェイクスピアや紫式部を超える新しい物語はできないんじゃないか」という霧が晴れた気がしました。
 今まで聴いたことの無い旋律なんてものが今後も現れ続けるなんてこてとは無いのでしょう。詩と旋律とサウンドの組み合わせが新しい音楽であるかのように響くけど、全ては時代に沿った、おもねた、迎合した歌詞と旋律の組み合わせから生まれたものに過ぎないのです。
 
 でもね、当代に生きている者は、たとえ過去の作品に類似であっても、当代に受け入れられる作品を書きたい、書かねばならないって切迫感を誰もが感じているはずなんです。
 合評会に集った人たちも、ぼくと同じ思いを共有しているんだって実感でき、なんだか地球防衛軍の戦士たちが一堂に会したような錯覚をして、「一致団結して地球を救うんだ!」みたく、なんて御目出度くも有意義な合評会だったことでしょう。