らんかみち

童話から老話まで

判官びいきのぼくだから、今後は自民党を応援します

2009年08月31日 | 社会
 朝に一票を投じ、夜には選挙速報を観ながら一杯また一杯と、今回は酒が進んだのなんの。不謹慎といえばそうかもしれないけど『24時間テレビ』などはるかに凌ぐ大イベントだったかな。アポロ11号の月面着陸ほどではないにしろ、未曽有のエンターテインメントかいな、とテレビにかじり付いておりました。
 
 麻生さんが総理就任後ただちに解散しておけば自民の大勝だったか知れないのに、と落選した大物現職もチルドレンも恨んでいるでしょうね。そんな自民にあって、島出身の現職は議席を守りました。これも驚きですが、善戦した対抗馬の美人が民主だったら結果はどうなっていたか……。
 
 それにしても台風11号、いくら恒例といってもあんなイベントはできることなら避けて通りたい。幸いにも被害のニュースは聞かれませんが、台風シーズンに入るので注意が肝要です。
 あ、しかし待てよ、台風が来ないと松茸が育たない、みたいなことを聞いたことがあるけど、本当だろうか。もしそうなら、自民党も下野して台風になって下さったらどうか。

 政権を運営する上で野党は困りものの台風みたいなものであっても、その存在なくして政治が正い有り様を保てないとしたら、自民党の存在意義は与党であったときよりも大きくなるかもしれません。判官贔屓のぼくだから、これからは自民党を応援しますよ。

駆地兵衛(またの名をプチな)が来ました、ミニ耕耘機を比較の末に

2009年08月30日 | 暮らしの落とし穴
 蕎麦の種を播くのにご近所さんの好意に甘え、畑を借りて自力で耕してみて初めて理解したのは、鍬なんかで荒地を耕せるもんじゃないってこと。南米移住一世の皆さんがジャングルの木を切り、切り株を掘り起こして作物が植えられるようにするまでにはどれほどの労苦が伴ったであろう、あるいは掘っても掘っても石ころだらけの荒地をあてがわれた人たちも多かったなら、それを人力でやり遂げるなんて気が遠くなりそうだ。肥えた土地が待っていると思って移住した人たちは絶望したんじゃなかろうか。
 
 希望を抱いてブラジル丸に乗り込んだ人たちに思いを馳せながらよく考えてみると、うちの家庭菜園みたいな狭い畑でも耕すのは結構大変なんだ、生きているだけで奇跡みたいな90歳の母がどれほどしんどい目をしているかなんて考えもしませんでした。ときどき認知症の症状が見られる母があと何年畑をやれるか分かりませんが、耕耘機を買おうということになって調べました。
 
 耕耘機(こううんき=カルチベーター)とはいうけど、ぼくが買おうとしているのは管理機と呼ばれる、小規模の土地を耕したり畝を作ったりする機械です。この前初めて使わせてもらって、小さくて軽い管理機はかえって扱いづらいと気がついたので、まずは乳母車のような機種について考察してみました。
 
      
 
 左のパステルブルーのはクボタの『菜ビFTR3500』\145950で、右の赤いのがマキタ沼津の『こまどりFRC3』\145950です。色が違うだけで外見はそっくりですよね。たぶんマキタ沼津(元ロビン)が製造し、クボタにOEM(相手先ブランド)供給しているんだろうと思います。
 15ヤード×30ヤードの草だらけになっている蕎麦畑を耕すならこれくらいはほしいところですが、母の手入れする畑にこれを持ち込もうとすると、段差を超えるのに何か橋渡しのようなものが要りそう。それに数種類の作物を植えているので、一気に耕せないとしたら小さい方が扱い良さそうです。
 
 次に調べたのが、左クボタの『ミディTMA350M3TU』\107940と、ホンダの『こまめF220』\101640です。
 
       
 
 どうでしょう、見た目は若干異なってはいるものの、ホンダ製のものをクボタがモディファイしたと見ました。
 買うならこれだと、ホームセンターに行ってホンダのを担いでみたら、27kgはよっこらしょと車に積めるくらいですが、クボタの33.5kgはそこそこ重そう。性能はいろんな仕様があるクボタに軍配が挙がるものの、ネットで調べる限りクボタは定価売りが常識のようで、JAとか地元の農機具屋さんからアフターサービスを期待して買うのが一般的かもしれません。
 
 念のためにもうひと回り小型の管理機も調べてみました。左はクボタの『ミディTMB250』\78750で、赤がホンダの『プチなFG201』\70140です。
 
      
 
 これはまた色が違うだけでほぼ同じ物だと断じてかまわないのではないでしょうか。クボタとしてはこんな小さい物を作っても儲からんから、ホンダから仕入れてラインナップに加えたんでしょう。ホンダとしてもクボタのブランドと販売ルートを使う方が良く売れるのでしょうか。
 
 悩みました。これらは17kgと、18リットル入り灯油ポリタンク一つ分の重さなら、もしかして母にも扱えるだろうかと。
 ホンダ製はネットでの実売価格が6万円を下回る価格で、一クラス上の『こまめ』は8万円を下回る価格。この2万円の差をどう考えるか。これくらいなら『こまめ』にしたいけど、同じ買うならクボタの『TMA350』の方が優れていそう。だけどクボタ製は定価売りなので10万円は下りません。
 
 悩んだ末にうちの畑を見に行きました。『プチな』で十分やんか! そば畑には少々厳しいけど、あれは年に一回、多くても2回使うだけだし、連続して耕していたらなんとかなりそう。というわけで土曜日にプチなを注文したら今夕に到着しました。
 開梱して組み立て、オイルやガソリンを入れてスタンバイの状態にするまで30分ほどかかったでしょうか。予想にたがわずちゃっちい感じのこやつを『駆地兵衛(かるちべ)』くんと名づけました。彼にはさっそく明朝からがんばってもらうつもりです。

自分の文体って、見つけるのは至難の業だね

2009年08月29日 | 童話
 去年と今年入選した怖い話の文庫本を読んでいて、『Dさん』というペンネームの方がぼくと同じように連続して入選しているのを発見しました。「私が30歳になったころ」という書き出しや、物語の内容から判断すると40台の女性みたいですが、「Dさん28歳」と作者が紹介されていて、なんちゅうええ加減な本かいな! 去年はぼくのペンネームも改変されたし、もとより年齢なんてでたらめ。文体もかなり編集されている本なので書き手の個性が感じられず、一様に嘘っぽい話のオンパレードとなってます。
 
 活字になって出版されているからといって信用しちゃいかんのだなって改めて思う。さくらももこさんのエッセイに、「女性雑誌のインタビューに答え、出版されたものを読んだら、まるっきりでたらめだった」とありました。
 さくらももこさんのエッセイは、なんといっても面白い。全部が本当の話じゃないなと思い、眉に唾しながら読んでなお面白いので、嘘を書いていても、というよりレトリックで自身や登場人物の人格を騙っても許せると思う。
 
 そのさくらももこさんにして、後に出版されるエッセイ順に面白くなくなったように思うのは、ネタ切れというより彼女が大人になってしまったからでは? 内容もそうだけど文体も切れを欠いているように思うのは、新しい文体を手に入れるまでの産みの苦しみでしょうか、それとも儲かったのでハングリー精神が無くなった?
 
 ぼくの日記は「ですます調」と「だ、である調」をスクランブルした文体で書いてますが、エッセイ公募に出すときにそんな冒険はしません。体言止めもひかえるようにしているし、わりとオーソドックスな印象を受けるよう意識しています。でも童話でそんな文体を使うと堅苦しくていかん。もっとそう、糸の切れた凧が冒険するような文体で童話を書いてみたいと思ってはいるけど、未だ入選実績が無いので一歩前に踏み出すのが怖い。自分の文体をモノにするって難しいなぁ。

ワード講座を受けながら、エクセル講座で夏が終わる

2009年08月28日 | 暮らしの落とし穴
 梅雨が明けたのすらはっきりしない夏が終わりを迎え、ワードの講座もついに終わりました。「お役に立てなくてすみません」といいつつ、講師のおばちゃんは最後の2時間を前に、やれやれ、ようやく鬱陶しい奴から解放されるワイ、と安堵の表情を浮かべておられます。
 
「ワード中級はもういいので、エクセルやりますか、しばらく使わないと忘れるんですよね」
 もひとつ助け舟を出してあげたら、薬でもやっとるんか? みたいに妙にはしゃぎながらエクセル初級講座の開講です。
 
 エクセルで見積書とか作れる人ってすごいな、と思っていた時期もあったんですが、今思えばあれは初級だったんだ。もっとも、エクセルを使うにはパソコンがある程度使えた上でのことなので、あの頃のぼくにしてみればやっぱり大した人たちだったんですね。
 
 童話講座で共に机を並べて学んでいる方は60台にして「童話を書くためにパソコン塾に通い始めたんです」と、もう10本の指でもってキーボードを打てるようになったとか。すごいですね、向上心が。ぼくなんて何か不純な動機でパソコンに熱中したんですから、純粋な動機で覚えたパソコンの夏はきっと素敵な思い出になることでしょう。
 
 それにひきかえ、ワードが終わったのやらエクセルが始まったのやらわからないぼくの夏、講座の最後はエクセルで作ったシートを印刷して終了。ストレスと消化不良の夏だけど、これはこれで記憶に残るのだろうか。

陶芸作品に美というものなど存在しない

2009年08月27日 | 陶芸
 先日焼いた作品群を陶芸クラブに持っていったのは、出来が良くて見せびらかしたいからではありません。窯の温度管理はどうやったか、どの位置にどんな作品を置いたか、釉薬は何をかけ、その結果どんな焼き上がりになったか、といったデーターをクラブ員に提供するためです。こっそり焼き上げたからといってだれも文句はいいませんが、童話講座にたとえるなら合評みたいなものでしょう。他者からの評をいただくことで、次回作への踏み台とさせていただくのです。
 
「ふむ、若い者は他人の評価を気にしすぎていかんのぅ。人の評価がどうあれ、君の場合はひたすらろくろを回し続けるのみじゃ」
 クラブの重鎮、要釉斎先生のおっしゃる若い者とはぼくのことかいな? それはさておき、ぼくの場合は人に良く見られたいとか自慢したいという気は毛頭なく、向上心あるのみなんですがねぇ。
「うむっ、木の葉形の皿はまずまずのできじゃが、茶碗らしきものは茶の湯での約束事が守られておらん、評価の対象外じゃ」
 木の葉形の皿というのは、要釉斎先生の横で先生の口出しを受け止めつつ手びねりした物、先生が一枚かんでりゃ低い評価もせんわな。

「茶碗のように約束事ばあるなら別じゃが、そうでないなら独善も可なり。他者の評価に一喜一憂することの愚かさを、君もいつか知るときが来よう」
 先生のおっしゃることは解ります。陶芸作品を鑑賞するのは、自分自身の内面からの欲求と作品の放つオーラとのコラボレーションが全てであり、言い換えればこれまで培ってきた己が美意識と作品との蜜月……自分で書いていながらよう解らんなってきた。
 要するに、麺の不味さに定評のある尾道ラーメンを支持する人がいるからといって、その人が味音痴というわけではない。絶対味覚というものが存在しない以上「うまい」という人がいればそれはうまいのである。つまり尾道ラーメンは万人受けする凡庸な味を目指したのではなく、瀬戸内のイリコ出汁と豚の背油のコラボレーションで100人のうち1人を虜にできたらそれで良い、というスタンスなのです。陶芸作品も万人が良いと評してくれる物なんてできっこないなら、100人の内1人が惚れ込んでくれたらそれは傑作なのでしょう。
 
 要釉斎先生のような山紫水明の心境、寒山拾得のごとく俗世と隔絶した生き様にして初めて、他者の評価や名誉欲に恬淡となれるのかなぁ。次回作へのステップなどと、酷評を恐れて予防線を張るぼくとしては、良いねと評されたらやはり嬉しいんだけど。
「ところで、この前いただいた先生のいかがわし、もとい、妖しいコーヒーカップですが、お盆に帰ってきた兄がたいそう気に入って持って帰りました」
「なにっ! それは嬉し、いや君のお兄さんの審美眼は確かなもの、あの作品の良さが解るとは、大したもんじゃ」
 なんと、霞を食って生きる仙人かと思いきや、要釉斎先生はいきなり還俗されました。先生もまた人の子、他者の評価を糧にしておられるからこそ、あのお歳にして陶芸を続けていけるに違いありません。

村上選手だけでなく、島は今とっても熱い

2009年08月26日 | 社会
 村上幸史選手、世界陸上槍投げ銅メダル快挙ですね、ちょっと遅れたけど、おめでとうございます。知らなかったんですよ、うちの島のとなりのとなり、そのまたとなりくらいの島で同じ愛媛県なのに。といっても生名島の人たちはきっと広島県向いて生活しているはず。それにフェリーに乗らないと渡れないとはいっても、離島っていう意識はあまりないじゃなかろうか、というほど交通の便は悪くないはず(一つの便は廃止になったけど)。
 
 降り立った記憶はないけど、あの島がスポーツ振興に力を入れている結果が出たということなんでしょうか。是非行ってみたいなと思うのは、あの島にはバイクのサーキットがあるらしいからです。もしかしてモトGPレーサーもあの島から誕生しないかな、そしたら玉田誠選手に次いで愛媛県出身では二人目の世界ライダーとなって観る方も力入るぞ。
 
 生名島もそう遠からず橋で行けるようになると聞けば、村上選手のおかげで観光客も増えるに違いありません。うちの島も村上ショージって有名人を輩出しているんだから、彼が島に来て『島にゃん』とか名づけた着ぐるみでもかぶってはしゃいでくれませんかね。ぼくが知る限りでは島に帰ってきて故郷に錦を飾るようなパフォーマンスをやった話は聞きません。そんな話があっても彼は断るのかな、もしかしたらいい思い出が少なくて。
 
 地域の活性化を図るのに有名人頼みも即効性があって良かろうとは思いますが、そんなの長続きするかどうか。地元の人がこつこつやっていればこそ村上選手の銅メダルに繋がったのなら、生名島の人たち全員におめでとう。
 そうそう、うちの島からもつい先だってのこと世界一の選手が誕生しました。重松 美里さんという中学生の女の子が空手の型の部で優勝です。今日も島は暑いぞ、いや熱いぞ。

お遍路さんのお接待に蕎麦を打つならまずは種まきから

2009年08月25日 | 酒、食
 四国八十八箇所といってもウドン屋巡りじゃなく、お寺の巡拝、つまりお遍路さんのことですが、かつて歩いて回ったとき多くの『お接待』に与ったものです。金銭であったり車に乗せていただいたりといったお接待なんですが、それはお遍路さんと同行二人(どうぎょうににん)で歩いてくれるお大師様=空海に対してのもだと考える人もいれば、今を生きて遍路道を歩いている一人の人間に対しての敬意と考える人もいるようです。(あるいは両方)
 
 そういうのが心の負担になるからといって断る人もいるし、何かプライドのようなものが邪魔をする人もいるでしょう。またお接待する側の気持ちに立って喜んで受ける人もいるでしょう。最初の頃はぼくも戸惑いましたが、いつしか喜んで受ける側に立つようになったのは、金銭ならいつかお返しすればいいことで、車なら歩き直せばいいんだろうと安易に考えたからです。
 
 ですが住所氏名も判らない方にいただいたものは返しようがない、かといって判っている方に返そうとしても無理なんです。やってみましたよ、下手なことをしたら更なるお接待で返り討ちにされるのが落ちです。
 
 それで、お返しするという考えは捨てました。だって「あなたにあげたんじゃなく、あなたと共に歩いておられるお大師様に差し上げたのです」といわれたからといって「じゃあぼくは、あなたの後ろに憑いている背後霊にお返しします」などと答えようものなら、これはもうほとんど売り言葉に買い言葉。喧嘩売りにきたんか!
 
 ぼくにできることは、お接待をして下さった方々の志を継ぐこと。どこの誰か分からないお遍路さんに見返りを求めないお接待をすることで、名も知らぬ方にいただいたお接待に報いることにもなろうし、返り討ちにしてくださる方にも納得していただけるのではないでしょうか。
 
 そんなわけで、来年の島四国八十八箇所には手打ち蕎麦のお接待などさせていただこうか、と口にするや「お盆開けに植えなさい」と蕎麦の種を下さる方もあり、ご近所さんに畑を借りたいと申し出ました。すると快い返事をいただいたばかりか、ミニトラクターも貸してくださるし、一緒に畑を耕してくれたのです。
 
 
 
 畑を耕すのは草を刈ってミニトラクターで土を掘り返すことなんですが、勝手にトラクターがやってくれると思ったら大間違いでした。何年も耕してない畑は土が固くしまっていて、放っておいたらトラクターが何もしないで走り去ってしまうんです。最初は押さえつけておかないといけないんですが、3回目を走らせてようやく勝手に耕してくれました。
 
 
 
 夕方にはなんとか必要な土地の半分が耕せたのですが、熱中症になりそうなほど疲れました。お接待って、生易しいもんじゃないんですね。

童話もしくはシナリオを書くときのワードの設定

2009年08月24日 | 童話
 童話を書くのにあたって今よりもっと素敵なやり方があるんじゃないかとワード中級講座に通ってます。ところが講師のおばちゃんのスキルはぼくより少しマシな程度と思っていのに、ここに来て、ぼくより分かってないんじゃない? といいたくなりました。おばちゃんはぼくが一つ質問するたびにヘルプを参照して、2時間の講座の1時間は自習の有様。今更文句をいっても始まらないし、彼女も開き直ってしまっているから「二人の共同作業」でワードの解明にあたっております。
 
 まあそうではあっても何もしないよりはマシ。とても重要なことを自習していて発見しました、というのは、低学年向けの話を書くとき、これは3年生で習ってる漢字なのかなぁ、それとも……と毎回悩んで文章をコピーして別のソフトにかけて判別してたんですが、ワードにその機能があったんですね。
 
 ツール→オプション→文章校正タブ→文章校正→文章のスタイルで何を設定していても詳細設定をクリックして開く窓の、表記の基準→漢字レベルの▼から学年を設定して終了。
 文章校正に戻って自動文章校正にチェックが入ってなければ入れ、結果を示す波線を表示しないにチェックが入っていれば外す。こんな簡単なことだったんです。
 
 ちなみにぼくが書いているワードの設定はこうです。
 ファイル→ページ設定→文字数と行数で、文字数と行数を指定するにチェック。文字数は20字、行数は20行、字送りは21,25pt、行送りは32pt。フォントの設定はMS明朝21ポイントで、P明朝は使いません。Pはプロポーショナルの意味なので、設定したはずの文字数が変化してしまうから。もちろA4縦書きの、余白は上下左右30mmにとじ代は10mm左の設定です。
 
 さてワード講座も難易度を上げて、今日はシナリオのフォーマットの勉強です。講師を試してるわけでもないし嫌がらせをしているつもりもありませんが、ほとんど何も解決しませんでした。強いていえば、シナリオを書くのに少なくともワード2000を使うべきではない、ということがはっきりしただけです。
 
 シナリオの設定は結構むつかしい。改行して1字下げとか2字下げ、3字下げが混在しているのでワード2000の設定には限界があり、マクロを設定するしか方法はなさそうですが、ぼくにはできません。そんなことしなくても『VerticalEditor』という無料のテキストエディターがあって、こいつはト書きや台詞などを頼みもせんのに解析して、シナリオのインデントを自動でこなしてくれる優れものです。
 
 せっかく金を出して自力で解明したワードの設定だからといって、もったいつけて出し渋ったりするほどのことでもないし、この日記を読んでくださっている方々のなかには童話公募というフィールドで共に戦う未だ見ぬ戦友もおられることでしょうから、参考になれば幸いかな。それにワードが童話を書くわけじゃないので、敵に塩を送る慈悲には及びません。

梅華皮(カイラギ)出たには出たかな?

2009年08月23日 | 陶芸
 窯出しの儀に望む前夜「失敗だ、失敗だ、失敗だ」という声にうなされましたが、思ったほどではありませんでした。手びねりの木の葉皿もこの通り。
 
 
 梅華皮(カイラギ)は多くの陶芸家が最初に失敗する道を踏襲したかもしれません、この通り。
 
 生焼けなんですが、そこを狙ってのことなので、とはいってもやり過ぎました。
 
 ロクロ子先輩に「井戸茶碗のつもりだけど、梅華皮がうまく出なかった」とメールに添付したところ、「ロクロ子の作品を見んかい!」と写真が。
 
 な、なんすか、これはぁ? あ、花器ね、石かと思った。
「石に擬態させとるんや、この詫び寂びが解らんあんたはまだまだやね」
 なんかよう解らんけど、石で叩いてこしらえた作品なのだとか、こりゃあロクロ子先輩の尻尾は見えても、まだまだつかめそうにないわい。

ゴーヤ泥棒をやってみて解る、料理はハートだ

2009年08月22日 | 酒、食
 ゴーヤ泥棒に来てくださいな、とご近所さんに懇願されたけどゴーヤもさんざん食べたしなぁ、でも頼まれたなら仕方ない。というんで今夜はゴーヤチャンプル。といってもゴーヤがメインというわけじゃなく、うちの畑で採れた野菜の炒め物って感じでしょうか。豚肉も味噌味も飽きたので、バターと塩コショーを基本の味付けとし、田楽味噌をミリンで溶いて隠し味としました。
 
 シーチキンの缶詰を少し開け、その油をフライパンにたらして野菜を炒めた後にシーチキンを投入し、マイクロトマトをちりばめたらフィニッシュ。マズーってことはないけど、缶詰を良く見たらキャットフード、じゃなくてカツオのシーチキンでした。
 
 知り合いの一人暮らしの爺ちゃんはボケ防止のために料理教室に通ってるというんですが、大いに効果があるに違いありません。なんといっても料理を作るには頭を使うし手先も使うし、買い物に行くという行為そのものが頭も体も使うじゃないですか。
 でもそれは年寄るまで料理を作らなかった男に限っていえることで、長く料理というか食事を作り続けた奥さんにはほとんど効果が無いと踏んでます。
 
 ぼくの姉はそりゃ酒の肴を作るのが上手だったんですが、あるとき酒飲みの義兄が大病を患って長期入院して家に戻ると、「料理全般が極端に薄味になっとるんや、病院食の方がずっと味が濃くて懐かしいわ」なんてぼやいてました。
 これをどう解釈すればいいのでしょう。旦那の体を案じて塩分を減らした、というのが姉の主張に違いないのですが、鬼のいぬまに自分の好きな味付けになってしまったのでは? もしそうでないというなら、残るは嫌がらせとしか考えられませんが……。
 
「童話は頭で書くものではありません、ハートで書くものです」
 童話講座のお師匠さまはおっしゃいますが、この意味はおそらく、いくらテクニックを駆使しても子どもの心に届かない、いや届けられないとしたら、書き手が主人公の子どもと共に苦しみ、楽しんでいないから、ということではないでしょうか。
 ぼくの場合はまだ指先で童話を書くステージに立っているので、お師匠さまの言葉の意味を本当に理解できるのはまだ先のことでしょう。しかしながら料理はハートで作っている、というのは他でもない自分自身の酒の肴にするからです。
 
 ぼくの姉なんてのはすでに料理は体で作るから頭は使わないし、ましてハートなんて面倒なものは使わんのでしょう。もうほとんどリズムで作るか、流れに任せて無意識に料理ができあがってしまうに違いないなら、ボケ防止に料理なんて貢献できないに違いありません。主婦ってみんなそうなんじゃないかな、だから失敗もない、つまり職人なんですね。

「料理は創意と工夫だ」といった場末の飲み屋のマスターは、安い仕入れでごまかそうとテクニックを駆使した挙句、客にそっぽを向かれてしまいました。やっぱ童話も料理もハートだ!