らんかみち

童話から老話まで

ゴッキーくんとムカちゃんの、あくしゅ

2011年06月30日 | 童話
 ゴッキーくんは、ともだちのムカちゃんにききました。
「ムカちゃんの足はずいぶんたくさんあるけど、いったいなん本あるの」
 ムカちゃんは、ほそい体をクネクネさせながら、
「足がなん本あるかなんて、たくさんありすぎて数えたことないわ。ゴッキーくんは六本しかないから、数えやすいわね、ホホホ」
と答えました。

 笑われたゴッキーくんは、
「ぼくの足はムカちゃんのより長いから、頭のうしろをかいたりもできるんだよ」
と、前足二本で頭のうしろをポリポリかいて見せました。
「あら、わたしなんか、どの足でも頭をかけるのよ、ホホホ」
 ムカちゃんは、一ばん前の足から一ばん後ろの足までつかって、ツリリリリーと頭のうしろをかいて見せました。

「ふんっだっ! じゃあさ、ムカちゃんはどうやって歩くのか、口でいいながら歩いて見せてよ」
 そういわれたムカちゃんは、ちょっと考えてからいいました。
「まず、一ばん前の右足を出すでしょ、それから左を……そのつぎに後ろの右足を……あれ、どうしたのかしら」
 ムカちゃんはしゃべりだしたのに、足がこんがらがって、いつのまにか歩けなくなってしまいました。

「アハハハハ、ぼくなんか空だって飛べるんだよ、ほらね、アハハハハ」
 ゴッキーくんは羽をひろげて飛び立ち、くやしがっているムカちゃんを空の上から笑いました。
 と、そのときでした。
「うすのろやろう、どいたどいた、カブトさまのお通りだい」
 バシッ
 だれかが、ものすごい早さでゴッキーくんにぶつかってきたのです。

「うーん、いたたた。羽をけがして、うごけない」
 ゴッキーくんはクルクル飛ばされ、木のえだにはってあるクモの巣にひっかかってしまったのです。
「たいへん、ゴッキーくんがあぶない! でも歩き方を忘れてしまったし、どうしよう」
 ムカちゃんが歩けなくてこまっていると、クモが白い糸をはきながらゴッキーくんに近づいて行くではありませんか。
 それを見たムカちゃんは、いつのまにかクモの巣に向かって走りだしていました。

「ゴッキーくん、すぐにたすけてあげるからね、もうちょっとのがまんよ」
 木をシュリシュリのぼってクモの巣につくと、ムカちゃんはたくさんの足をつかって糸の上を歩きはじめました。
「こら、オレさまの巣を土足で歩くんじゃねー!」
 おこったクモがムカちゃんにむかってきましたが、たくさんある足を見て目を回してしまいました。
 そのすきにゴッキーくんをたすけだし、ムカちゃんは木からスルルとじめんにおりました。

「ありがとう、ムカちゃんのおかげでたすかったよ」
 ゴッキーくんはムカちゃんのたくさんある足をとり、一本ずつあくしゅをしようとしました。
「なにやってんの、あくしゅは足が一本あればいいのよ」
 いわれたゴッキーくんが、頭をかきながら前足を一本だけさしだすと、ムカちゃんも前足を一本だけのばし、ふたりはいつまでもあくしゅをしました。

おわり

 いくら擬人化したって、やっぱこいつら大嫌いだっ!

山形のだし漬け丼

2011年06月29日 | 酒、食


 お客さんが箸をつけなかった刺身を別の客に出す店があると聞いてますが、いくらなんでも許されざる行為だ(もったいない気持ちは理解できても)。せめてお湯にくぐらせて漬け(づけ)にでも加工してほしいもんですね。
 そこで昨日の残りであるヨコワとカツオとサーモンで、漬けを作ってみました。

 生臭いのを醤油に漬けたくない気がして、熱湯なんぞにちょいとくぐらせてから氷水で切り身を絞めます。醤油は、そば汁の元になる「返し=濃い口醤油+再仕込み醤油+みりん+砂糖+アップルビネガー」です。この返しを作っておくといざという時に重宝しますよ。

 朝作った漬けを冷蔵庫に入れて夕方まで保存しておきますと、そろそろ開店しようというころには確りと漬かっているでしょう。このままでは塩辛いだけで単調だろうし、見かけの華やかさに欠けるように思うので「山形のだし」をトッピングしてみました。

 山形のだし=胡瓜、茄子、昆布、ねぎ、みょうが、大葉、食塩、砂糖、調味料などなど。買ってから気がついたんですが、最近のテレビで取り上げられて有名になったらしいですね。思っていたより塩辛くなく、昆布のぬめりも口当たりのなめらかな、香味系の浅漬けといた趣です。

 さて「漬け丼」の味は……う~む、狙い所に的中してはいるものの、丼にする必然性が無い! 丼というのは、「こいつを温々の飯にかけて食ったらたまんねーだろうな」と、腹の底から訴えかけてくる欲求を満たさざるを得ない、力強い味のトッピングが不可欠だと思うんですよね。

 まあ昨夜の残りなんだし、油っぽくないので翌朝食べてもムッとなりはしませんが、こんな味なら漬けをカットして山形のだしに混ぜても旨いと思う。丼にするならインパクト不足は否めないのです。もしかしたら熱々ご飯よりも、冷やご飯にぶっかけ汁なんか良いかも。
 漬けの汁は捨てずに取っておいて、明日はマグロの赤身「漬けユッケ」だ~い。

ヨコワとカツオに自信無し

2011年06月28日 | 酒、食



 気仙沼港で例年より3週間遅れて初カツオが水揚げされたと聞いて、どうか放射性物質がカツオから検出されませんようにぃ! と祈ったのはぼくだけではないはず。そんな希望を託し、冷凍カツオのタタキを買いました。

 カツオという魚はぼくにとっては危険な相手で、万全の体調を以て対峙しないと、彼らの強力なプリン体の前にひれ伏さなくてはなりません(アニサキスじゃなくて痛風ですよ)。そこでヨコワ(まぐろの子ども)とサーモンを味方に付けてみました。

 ネギ、ミョウガ、ニンニクをトッピングしてみました。ショウガも良いかなとは思うんですが、ヨコワとカツオの違いを楽しむのが今回の狙いなので、しつこいことはやめにしましょう。

 瀬戸内海でカツオがとれるという話は聞きませんが、ヨコワならときどき迷い込んでくるらしく、漁師さんが釣った話は聞きます。本来ならヨコワは炙る必要のないクリーンな魚ですが、皮も食べたいのでタタキを買いました。
 どっちが美味いかって? どちらも美味しいですが、ニンニクを処方するならカツオがお勧めでしょうか。ヨコワは醤油だけでも十分堪能できるからです。

 う~んしかしだ、飲み屋とかでヨコワのタタキをカツオのタタキと偽って出されたなら「やっぱ初鰹は、さっぱりしてて美味いね」などと知ったかぶりしてしまうかも。
「ヨコワだよ」といわれてカツオを出されたら「ウソこけこらぁ」と怒るんじゃないかと自信はあるけど、逆のパターンは自信無いです。その程度の味覚でものをいうておりますので、ハイ……。ちなみに、手前がヨコワのタタキで、奥がカツオのタタキです。

原発の風評被害はどこまでいくの

2011年06月27日 | 暮らしの落とし穴
 イタリアのレパブリカというメディアによると、ベラルーシ共和国の首都ミンスク郊外に「児童健康センター」という施設があり、チェルノブイリ事故の後に生まれ育った子どもたちが、被爆による病気の治療を受けているそうです。
 日本のメディアでも時々紹介されるし、日本人医師たちが手術に携わっておられるようで、そのHPを見ると施設の名は「小児血液ガンセンター」となっています。
 
 レパブリカによると、その児童健康センター(あるいは小児血液ガンセンター)に福島原発周辺の子どもたち30人が収容されたというのです。3.11以後の話ではなく、昨年の6月のことだと。
 ぼくとしては疑わしい気もするし、もしたしたらプライバシーとか差別の懸念から日本のメディアが自粛しているのでしょうか。

 ウクライナやロシアの子どもたちは親共々顔と実名をメディアに出してますが、日本人の子どもの映像はもちろん噂も聞かないので、たぶん誤報だと思います。しかし日本政府や東京電力による情報統制だったらどうなんでしょう。
 さすがにそんなことはやらないだろうし、現実に考えにくいのでニュースソースはリンクしませんが、こういうのも風評被害の一つなのかもしれませんね。
 

レディーの嫁ぎ先

2011年06月26日 | クラシック音楽
 レディー・ガガさんという方のことはほとんど知らないのですが、超大物の彼女が原発禍まっただ中の日本に来てくれたとあれば、オートバイレーサーたちも考え直してくれるでしょうか、ありがたいことです。
 やって来るレディーがいれば出て行くレディーもいましたね、レディー・ブラントのことです。12.7億円で嫁にもらわれていったのは、祝福すべきなのかそうでないのか。

 日本音楽財団は収益の全てを東日本大震災の復興に充てると発表されてますが、なにもストラディバリウスでなくても良かったんじゃないか、という声も聞かれます。バイオリンは工芸作品ですから、飾っていても仕方ないという意見と、楽器制作家の指標となるから手を付けるべきではない、という意見の狭間で財団も苦しんだことでしょう。

 どこのどなたが落札したのか知らないけど、あの楽器は財団が保有していたときと同じように、今後も演奏されないような気がします。現在活躍しているストラディバリほどには鳴らないだろうから。
 300年にわたって名手たちに演奏され続けてこそのストラディバリであって、当時はドイツ人制作家、ヤコプ・シュタイナーのバイオリンの方が良く鳴ったといわれてます。

 ストラディバリには伝説も多くあって、「木が絶滅してしまった」とか、「ニスの処方が失われてしまった」などと、もっともらしい理屈はあるんですが、ほとんどは価格をつり上げるために流布されたもの、とのことです。
 製作技術に関しては今の製作家の方が上であるだけでなく、中国の量産品だって負けてはいないはず。だって、ストラディバリは昔の量産品なのですから。

 現代の名工が製作した新作バイオリンとストラディバリを弾き比べる催しなどもありますけど、聴衆は両者の違いが分からないといいます。そりゃそうでしょう、弦をどのメーカーにするのか、弓をだれのにするかで音は変わるんですから。
 千住真理子さんも改造されていないストラッド「デュランティ」を演奏されてますが、鳴り具合というのは演奏家本人にしか分からないと思います。演奏家が鳴らしやすいと感じたならそれが全てでしょう。


アントニオ・ストラディバリ(1644-1737)

レディ・ブラント(1721年)日本音楽財団→?

デュランティ(1716年)千住真理子

ポリニャック伯爵夫人(1699年)ギル・シャハム


 ギル・シャハムさんくらいの演奏家に嫁ぐのなら、レディー・ブラントも幸せだろう、などと思ったりしてます。

千日童話の荒行

2011年06月25日 | 童話
 挑戦的な日差しは夕方まで衰えず、そっちがその気ならこっちにも考えがあるぞ、というわけで洗濯三昧でした。
「これで梅雨が明けた思うたら大まちがいぞ」と、ご近所の老婆に警鐘を鳴らされなかったら、うっかり夏支度のエラーをしでかすところでしたが、明日からはまたもや梅雨空の続く日々となりそうです。

 童話が書けないのは村人のごちゃごちゃ言うてくるせいにしているのですが、飲み会は断ればいいものをホイホイ出かけ、自業自得です。
 陶芸には「千個挽き」という荒行がありまして、湯飲みなら寸分たがわぬ同じものを千個作るのです。

 千日回峰行になぞらえているのでしょうが、実のところ、達成したからといって陶芸の技術は大して向上しません。それよりも、陶芸にかける意気込みとか自信につながる荒行かと思います。
「オレは千個挽きを成し遂げたのだから、この先にどんな困難が待ち受けていようとも、必ずや乗り越えることができる」
 千個挽きを達成した者のみが感ずることの許される自負なのでしょう。

 童話作家を目指す人も「一日一作」を己に課している人も少なくないのですが、モチベーションの高揚という面では頭が下がります。ぼくなんかだと、考えて考え抜いて、結局書けませんでした、で終わりそうです。
 20枚童話も5枚から進んでいないし、10枚のラブストーリーもさっぱりです。会議が続いているのもあるけど、つまるところやる気の問題です。「一日一作」のノルマを自らに課すべきなのは承知しているのですが……。

節電の前にすべきことがあった

2011年06月24日 | 暮らしの落とし穴
 下ネタ記事を書くたびに40~50名くらいの、清廉であろう読者を失っているぼくがいうのもアレなんですが、西山審議官のヅラ疑惑や不倫疑惑など、ほうっておけ。
 ちょっと有名な人だからといって、他人のヘソから下の話など報道している場合か(なぜぼくが知っているかは棚にあげて)そんなだからマスゴミなどと呼ばれる(20台の美女と聞けば、やっかむ、いうか、羨ましいぞ)。

 そんなことよりだ、四国電力が3.11震災の翌日から東京電力に電力を融通していたことを、恥ずかしながらぼくは知らなかったのです。周波数が関西と関東では異なっているから難しいのかなと思っていたけど、やればできるんだぁ。
 しかしこの夏の猛暑によって四国でも電力不足が予想され、東京に送っている場合じゃなくなるそうです。

 こりゃ大変だ、うちも節電してわずかながらでも被災地(東京も電力の面では被災地?)に融通してあげようと、小まめに電気を消してます。ところが、母と兄は小まめに電気を点けっぱなしてくれるたちなのです。
 この二人はいくら啓蒙しようと思ってもだめだ。ぼくにそんなことができるくらいなら、父が生前に成し遂げているはずなのです。

 電気を点けられては消し、点けられては消し、まるでいたちごっこなわけですが、点けるという行為ができてなぜ消すという行為ができないのか考えてみましょう。
 まずはトイレですが、暗いから点けるのではなく、昼間の明るいときでも二人は電気を点けてくれます。台所は、ぼくなら冷蔵庫を開けたときの明かりでビールを取り出しますが……。仏壇の灯明と線香は乾電池なので、点けっぱなしていたらいつの間にか電池切れ。

 結局、明かりを点けるには動機があるけれど、目的を達成したらスイッチを触る動機が無くなるのでしょう。点けるという目的意識と異なり、消すという目的意識は、自分で保とうとしないで自動的に発生するものではないのですね。
 だったら二人には永遠に無理っぽいので、電力被災地のみなさん申し訳ありませんが、我が家の節電は厳しいことになりそうす。

 とここまで書いて、うちは四国には違いないけど、中国電力の管内だということに気がつきました。中国電のHPを見ると、原発1機は停止したままだけど、電力は十分確保できるのだとか。
 心配して損した気分にはなったのですが、節電は得するってことですよね。ここら辺りをうちの二人に納得してもらうにはどうすればいいのでしょう。頭に負荷のかかる暑い夏がやって来そうです。

托鉢の椀をこしらえる

2011年06月23日 | 陶芸


 2か月ぶりくらいで陶芸クラブに顔を出しました。作品を作りたかったからではなく、顔を忘れられないためにです。いや本当の話、「あんた、だれじゃったかいのぅ?」と、要釉斎先生がおっしゃらねば良いがと思っていたら、お体を悪くされているのだとか。

「君ぃ、この土を使いたまえ。これを使いこなせるようになったなら、君は本物じゃ」と、二月前に土を500グラムいただいたのですが、使ってみたら実に難しい。要釉斎先生の嫌がらせか、などと邪推してしまった自分を叱りつけてやりました。

 クラブ員に変わりはないものの、他にもいくつか変化があったようです。それが良いことなのか、それとも更なる衰退の兆しなのか、今はまだ分かりません。
 そば栽培の先生も陶芸クラブの人なので、頻繁に会っていないと意思疎通に支障をきたします。なんといってもそばの収穫は目前に迫っているのですから。

 そば屋の開店も間近に迫っていて、昨日店のオーナーと会ったのに打ち合わせができませんでした。そば屋といっても、いうなれば托鉢みたいなものになるのでしょうか。そういうわけで、本日の陶芸クラブでは托鉢椀みたいなものをこしらえました。

五十路後家の誘惑

2011年06月22日 | 暮らしの落とし穴
 きのうのつづき

「五十路妻」に手をかけながら振り向いた老爺は、「損長はんやおまへんか、わてでんがな、ウヒャヒャヒャヒャ~」

 で、で、でんがな爺(や)!

 損長を襲ってから9か月ほどでしょうか、その間に多くの人と出会いましたが、でんがな爺は会いたくない人物のナンバーワンです。他の追随を許さぬ圧倒的な存在感と愛嬌ある悪徳商人面なのですが、背後からだとアダルトコーナーに溶け込んで気がつきませんでした。

 でんがな爺と長く話した日にゃ暗黒の世界に引きずり込まれそうで、どんな挑発もスルーして時候の挨拶のみにとどめ、「それじゃあ」と帰りかけたときでした。
「六十路妻、よろしおまっせぇ、よその島で見てみなはれ、ウヒャヒャヒャヒャ~」

 み、見透かされている!

 島には「五十路後家」や「六十路未亡人」が多くいらっしゃるので、ぼくなんかが妙なマネでもしようものなら、あらぬ噂が立ちかねません。「瓜田に履を納れず李下に冠を正さず」は、厳格な適用をせずにはおれないのです。

 ああしまった、スピリッツの「じみへん」を読むのうっかりした!

 (了)

六十路妻のカルチャーショック

2011年06月21日 | 暮らしの落とし穴
 漫画、ピアノの森が佳境に入っているというのに読み忘れ、本日コンビニで立ち読みしました。
 恩師、阿字野は「私のことは全て忘れろ。おまえはもう自分の世界を持っている」と、あろうことかショパンコンクールの真っ最中に、主人公カイに向かって自立を促します。
 このときカイは、友人との決別という重い荷を背負っており、コンクールに集中できないことを恩師は「何かある」と感じ取っていた。そこへ更なる追い打ちをかけることによって、荷を軽くしようと試みる。カイはそれには気づかない。

 うおぉぉぉ~なんて感動的な場面なんだウルウル……と熱いものをこらえながらも、ぼくはとなりのアダルトコーナーに網膜の片隅を奪われておりました。白髪の老爺が一心不乱に読んでいるのは、いったいどんな本なのだろう。
 ゆかしかりしかど、損長の身で露わなジェスチャーもかなわず、チラリチラリと盗み見をするのが精一杯のそのことき老爺は本を閉じ、几帳面な所作で棚にもどしました。

 その本のタイトルは「六十路妻」だってぇ、嘘だろ! 六十路妻のとなりの本では、はち切れんばかりの健康的なギャルがあられもない姿態を披露しているではありませんか。なのに六十路妻たるや、どこぞの老舗旅館の大女将といった風情で三つ指をついてシナを作っているのでした。
 いやそれだけではなく、「六十路妻」、「五十路妻」、「四十路妻」とある中で、五十路妻が抜きん出て多種類を誇っており、そ、そんなバカな!

 カルチャーショックに打ち震えていたぼくに、更なる追い打ちが。
「六十路妻」を閉じて「五十路妻」に手をのばしかけた老爺が、躊躇ってくるりと振り向いたのです。

 あっ、あんたわぁっ!

 つづく