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6月8日、網走に行ってきた。
道立北方民族博物館で、以前たいへんお世話になった写真家の露口啓二さんと、「札幌アートウオーク」で知られるライターの谷口雅春さんの2人が、写真館などをテーマに講演することを、直前になって知ったのである。
それにしても、なんだか毎月網走に行っているような気がするなあ。
前回、3週間前は、網走の日中の気温が3度ほどまでしかあがらず、5月後半であることが信じられないくらいであったが、今回は、半そでポロシャツでちょうどいい陽気だった。
たった3週間前は、ミズバショウが咲き、土手の隅などに雪が残っていたのだが、6月8日は真っ青な快晴の空に新緑がまぶしく輝いていた。
北見から普通列車に乗り、美幌で網走バスに乗り換え。
当初は自分ひとりしか客がおらず、やれやれと思ったが、後から少しずつ乗ってきて、いちばん多いときは6人が乗客だった。
もっとも、昨夜4時間ぐらいしか寝ていなかったことも会って、バス車内では居眠りしていた。
終点ひとつ手前の「モヨロ入口」で降車。880円。ちなみに北見―美幌は530円。
網走まで列車で行った場合は1040円だから、すこし高くついた。
まず、5月にオープンしたばかりのモヨロ貝塚館を見学する。
以前、ログハウスふうの施設設が建っていたが、それに比べるとずいぶん大きくて立派な建物だ。
ここで、モヨロ貝塚について、おさらいしておこう。
モヨロ貝塚は「オホーツク文化」の代表的な史跡である。
といっても、何のことやらといわれそうだが、そもそも北海道は、本州以南と歴史の歩みがまったく違う。縄文時代は同じなのだが、その後の弥生時代がない。寒すぎて稲作文化が成立できなかったためだ。
縄文→続縄文→擦文と、土器の時代が続き、そのあとでアイヌ文化の時代になる。
ところが、道内の大半が擦文土器の時代になっている9~13世紀ごろ、オホーツク海沿岸(利尻、礼文、根室など含む)では、アイヌ民族とは異なる人々による文化が築かれていたのだ。
アザラシなどをとって食べる民族だったらしい。サハリンやロシア沿海地方、千島などの同時代と重なる部分も多い。しかし、その後、アイヌ文化と同化したのか、あるいは忽然と姿を消したのか、よくわかっていない。文字資料がほとんどないこともあって、どこから来てどこへ去ったのか、謎の多い人々なのである。
モヨロ貝塚発見のいきさつについては、いろいろな本に書かれているが、エピソードが多くて楽しいのは、司馬遼太郎の紀行エッセー「街道をゆく」シリーズの「オホーツクのみち」(朝日文庫)であろう。
考古学に興味を抱いていた青年、米村喜男衛が、偶然発見したものだ。米村は、専門の学者ではなく、本業は床屋さんである。モヨロ貝塚発掘のために網走に移り住み、戦前、貝塚附近に旧日本軍の施設が建てられることになった際には、この貝塚がいかに重要な意義を持つものであるかを軍に対して説き、計画をやめさせたほどである(旧日本軍に対して反対の意を示すのは、当時は大変なことであった)。
さて、貸切観光バスで行く人は迷わないんだろうけど、筆者のように路線バスや徒歩で訪れる人には、道順がやや分かりづらい。
国道からの入り口を示す標識は、見落とす人がいそうだ。
敷地への入り口にも、「車で入るな」という意味のことは書いてあるが、ここが入り口である旨は記されていない。
施設そのものはさすが完成したばかりで、見ごたえ十分。
最初、地下に導かれるのだが、そこにある巨大な貝塚の露頭は、迫力がある。
カキの貝殻が地層の中に重なっているのを見て
「これは当然、養殖ではなくて天然だからうまいだろうな」
などとのん気なことを考えていたら、「解説員」という名札を提げた女性がやって来て、いろいろな説明を始めた。
こういうときは、地元の人しか知らなさそうな質問をしてみる。
「米村さんの床屋さんって、網走のどこにあったんですか」
「何度か移ったらしいですが、4条通にもあったそうですよ」
4条通は、もともとの網走の商店街だ。
そりゃ、駒場やつくしが丘に店を開くはずないよな。あのあたりは、今でこそ住宅や郊外型店舗が並んでいるが、戦後開けたところだ。
このままずっとマンツーマンで説明されるのかと思っていたら、5分ほどの映像コーナーを見ているときに、彼女は別のところに去っていった。
そのほか、オホーツク文化の住宅の復元(けっこう大きい)や、墓の上に通路が渡してある箇所もある。見応えはあるが、人の墓の上を歩くというのは、抵抗がないでもない。
6月8日、網走に行ってきた。
道立北方民族博物館で、以前たいへんお世話になった写真家の露口啓二さんと、「札幌アートウオーク」で知られるライターの谷口雅春さんの2人が、写真館などをテーマに講演することを、直前になって知ったのである。
それにしても、なんだか毎月網走に行っているような気がするなあ。
前回、3週間前は、網走の日中の気温が3度ほどまでしかあがらず、5月後半であることが信じられないくらいであったが、今回は、半そでポロシャツでちょうどいい陽気だった。
たった3週間前は、ミズバショウが咲き、土手の隅などに雪が残っていたのだが、6月8日は真っ青な快晴の空に新緑がまぶしく輝いていた。
北見から普通列車に乗り、美幌で網走バスに乗り換え。
当初は自分ひとりしか客がおらず、やれやれと思ったが、後から少しずつ乗ってきて、いちばん多いときは6人が乗客だった。
もっとも、昨夜4時間ぐらいしか寝ていなかったことも会って、バス車内では居眠りしていた。
終点ひとつ手前の「モヨロ入口」で降車。880円。ちなみに北見―美幌は530円。
網走まで列車で行った場合は1040円だから、すこし高くついた。
まず、5月にオープンしたばかりのモヨロ貝塚館を見学する。
以前、ログハウスふうの施設設が建っていたが、それに比べるとずいぶん大きくて立派な建物だ。
ここで、モヨロ貝塚について、おさらいしておこう。
モヨロ貝塚は「オホーツク文化」の代表的な史跡である。
といっても、何のことやらといわれそうだが、そもそも北海道は、本州以南と歴史の歩みがまったく違う。縄文時代は同じなのだが、その後の弥生時代がない。寒すぎて稲作文化が成立できなかったためだ。
縄文→続縄文→擦文と、土器の時代が続き、そのあとでアイヌ文化の時代になる。
ところが、道内の大半が擦文土器の時代になっている9~13世紀ごろ、オホーツク海沿岸(利尻、礼文、根室など含む)では、アイヌ民族とは異なる人々による文化が築かれていたのだ。
アザラシなどをとって食べる民族だったらしい。サハリンやロシア沿海地方、千島などの同時代と重なる部分も多い。しかし、その後、アイヌ文化と同化したのか、あるいは忽然と姿を消したのか、よくわかっていない。文字資料がほとんどないこともあって、どこから来てどこへ去ったのか、謎の多い人々なのである。
モヨロ貝塚発見のいきさつについては、いろいろな本に書かれているが、エピソードが多くて楽しいのは、司馬遼太郎の紀行エッセー「街道をゆく」シリーズの「オホーツクのみち」(朝日文庫)であろう。
考古学に興味を抱いていた青年、米村喜男衛が、偶然発見したものだ。米村は、専門の学者ではなく、本業は床屋さんである。モヨロ貝塚発掘のために網走に移り住み、戦前、貝塚附近に旧日本軍の施設が建てられることになった際には、この貝塚がいかに重要な意義を持つものであるかを軍に対して説き、計画をやめさせたほどである(旧日本軍に対して反対の意を示すのは、当時は大変なことであった)。
さて、貸切観光バスで行く人は迷わないんだろうけど、筆者のように路線バスや徒歩で訪れる人には、道順がやや分かりづらい。
国道からの入り口を示す標識は、見落とす人がいそうだ。
敷地への入り口にも、「車で入るな」という意味のことは書いてあるが、ここが入り口である旨は記されていない。
施設そのものはさすが完成したばかりで、見ごたえ十分。
最初、地下に導かれるのだが、そこにある巨大な貝塚の露頭は、迫力がある。
カキの貝殻が地層の中に重なっているのを見て
「これは当然、養殖ではなくて天然だからうまいだろうな」
などとのん気なことを考えていたら、「解説員」という名札を提げた女性がやって来て、いろいろな説明を始めた。
こういうときは、地元の人しか知らなさそうな質問をしてみる。
「米村さんの床屋さんって、網走のどこにあったんですか」
「何度か移ったらしいですが、4条通にもあったそうですよ」
4条通は、もともとの網走の商店街だ。
そりゃ、駒場やつくしが丘に店を開くはずないよな。あのあたりは、今でこそ住宅や郊外型店舗が並んでいるが、戦後開けたところだ。
このままずっとマンツーマンで説明されるのかと思っていたら、5分ほどの映像コーナーを見ているときに、彼女は別のところに去っていった。
そのほか、オホーツク文化の住宅の復元(けっこう大きい)や、墓の上に通路が渡してある箇所もある。見応えはあるが、人の墓の上を歩くというのは、抵抗がないでもない。
(この項続く)