
「国民的画家」とも称され、戦後の日本画を代表する画家であった東山魁夷の展覧会を見るために札幌へ行った。
強く感じたこと、気づいたことを、書きとめれば、次の二つになる。
◆戦前と戦後で画風が異なり、戦前の絵に見られた作為が、戦後の絵にはまるで感じられず、自然なものになっていること。そして、引き算を重ねて簡素な構図をつくりだしていること
◆静かな風景画がドイツ・ロマン派を想起させること
これらの論点に入る前に、展覧会自体についてちょっとだけ書いておくと、混雑していたのは予想通りだったが、ガラス板(アクリル)が手前に入っている絵が多かったのは予想以上であった。白いシャツを着て行ったのは失敗だった。絵の正面に立つと、自分の姿が反射してしまい、鑑賞を妨げるのだ。
それはさておき。
東山魁夷も20世紀の子である。
目の前にある風景を、そのまま写生しているわけではない。
一見写真のように写実的な絵を描いているようでいて、作品を成り立たせるために、さまざまな工夫と処理を重ねているはずである。
ただ、それが、ちょっと見ただけでは気づきにくいというだけだ。
大正末期から昭和初期にかけて日本には、西洋の最新の芸術思潮が次々と流入してきた。それらから自由であり得た美術家はほとんどいないだろう。
当時の川端龍子や土田麦僊などが代表的な例だろうが、筆者が思い出したのは岩橋英遠である。戦後、「道産子追憶之巻」などを描いた彼は、資質的に魁夷と似かよった面があると思うが、戦前の彼が都市の風景や半抽象画に取り組み、日本画の刷新を目指していたことは、道内の美術ファンであれば知っているかもしれない。
魁夷も「自然と形象」三部作(1941年)を見ると、前衛の波に影響されつつ、戦後は写実に落ち着いていったという点では、岩橋英遠に共通するものがある。
そして、落ち着いた画風に到達するためには、はしかではないが、造形の冒険をいったん経由しなければいけないのかもしれない。
ただ、これはあくまで個人の感想なのだが「自然と形象」には、良い形や線を描いてやろうという作為的なものを感じてしまう。
戦後の作には、そういうものが一切なく、ごく少ない要素を、一心にそのまま描いているような感じを抱く。
もちろん、絵画であるから、まったくあるがままを描いているのではなく、木々の配置を変えてみたり、ほかの土地でのスケッチを合体させたりといったことは、行っているだろう。しかし、できあがった画面からは、わざとらしさのようなものが全く感じられないのだ。
なぜだろう。
確定的なことは言えないが、魁夷にとっての昭和10年代~20年代初めは、過酷な時代だった。
もちろん、魁夷にとってだけではなく、多くの日本人にとっても、どん底の時代だったのだが。
略歴に「相次ぐ肉親の死」とある。
わずか7文字だから、つい読み飛ばしてしまう人もいるかもしれない。
しかし、これは、本人にしてみれば、大変なことである。
自分の身に置き換えて、想像力を働かせてみればわかる。
「私の履歴書」(日経ビジネス人文庫)から引いてみる。
昭和20年、1945年の終戦直後のことで、鉄道の事情が相当悪い時代であったことに留意したい(国鉄も空襲を受け、この頃、急行・特急列車はほとんどなく、本数の減った普通列車も買い出しの人で恐ろしく混雑していた)。
翌46年。
こんなことが続けば、誰だって相当めげると思う。
ちなみに、父を亡くしたのは、1942年(昭和17年)である。傾いていた父の商売を、魁夷がようやく整理にこぎ着けた直後のことであった。
筆者は、さらにここに「二つの死」を重ねてみたい。
ひとつは、言うまでもなく、日本という祖国の死である。
ここで詳説する能力は筆者にないけれども、ドイツ・ロマン派の発端を、ナポレオン軍の侵攻による祖国ドイツの死にあると見なせば、魁夷の芸術的出発が、ドイツ・ロマン派と共通点を有しているといっても、あながち的外れではあるまい。
もうひとつは、自らの死の予感である。
長くなってきたので、この項続く。
2012年7月20日(土)~9月9日(日)
道立近代美術館(中央区北1西17 地図D)
・中央バス、ジェイアール北海道バス「道立近代美術館」から約160メートル、徒歩2分
(手稲、小樽方面行きは、北大経由以外は、すべてのバスがとまります。本数も地下鉄より多く、とくに札幌駅方面からは、この方法がおすすめ)
・地下鉄東西線「西18丁目」から約380メートル、徒歩5分
・市電「西15丁目」から約700メートル、徒歩9分
ほかに、ジェイアール北海道バスが「ぶらりさっぽろ観光バス」を運行しています
9月22日(土)~11月11日(日)
宮城県美術館
強く感じたこと、気づいたことを、書きとめれば、次の二つになる。
◆戦前と戦後で画風が異なり、戦前の絵に見られた作為が、戦後の絵にはまるで感じられず、自然なものになっていること。そして、引き算を重ねて簡素な構図をつくりだしていること
◆静かな風景画がドイツ・ロマン派を想起させること
これらの論点に入る前に、展覧会自体についてちょっとだけ書いておくと、混雑していたのは予想通りだったが、ガラス板(アクリル)が手前に入っている絵が多かったのは予想以上であった。白いシャツを着て行ったのは失敗だった。絵の正面に立つと、自分の姿が反射してしまい、鑑賞を妨げるのだ。
それはさておき。
東山魁夷も20世紀の子である。
目の前にある風景を、そのまま写生しているわけではない。
一見写真のように写実的な絵を描いているようでいて、作品を成り立たせるために、さまざまな工夫と処理を重ねているはずである。
ただ、それが、ちょっと見ただけでは気づきにくいというだけだ。
大正末期から昭和初期にかけて日本には、西洋の最新の芸術思潮が次々と流入してきた。それらから自由であり得た美術家はほとんどいないだろう。
当時の川端龍子や土田麦僊などが代表的な例だろうが、筆者が思い出したのは岩橋英遠である。戦後、「道産子追憶之巻」などを描いた彼は、資質的に魁夷と似かよった面があると思うが、戦前の彼が都市の風景や半抽象画に取り組み、日本画の刷新を目指していたことは、道内の美術ファンであれば知っているかもしれない。
魁夷も「自然と形象」三部作(1941年)を見ると、前衛の波に影響されつつ、戦後は写実に落ち着いていったという点では、岩橋英遠に共通するものがある。
そして、落ち着いた画風に到達するためには、はしかではないが、造形の冒険をいったん経由しなければいけないのかもしれない。
ただ、これはあくまで個人の感想なのだが「自然と形象」には、良い形や線を描いてやろうという作為的なものを感じてしまう。
戦後の作には、そういうものが一切なく、ごく少ない要素を、一心にそのまま描いているような感じを抱く。
もちろん、絵画であるから、まったくあるがままを描いているのではなく、木々の配置を変えてみたり、ほかの土地でのスケッチを合体させたりといったことは、行っているだろう。しかし、できあがった画面からは、わざとらしさのようなものが全く感じられないのだ。
なぜだろう。
確定的なことは言えないが、魁夷にとっての昭和10年代~20年代初めは、過酷な時代だった。
もちろん、魁夷にとってだけではなく、多くの日本人にとっても、どん底の時代だったのだが。
略歴に「相次ぐ肉親の死」とある。
わずか7文字だから、つい読み飛ばしてしまう人もいるかもしれない。
しかし、これは、本人にしてみれば、大変なことである。
自分の身に置き換えて、想像力を働かせてみればわかる。
「私の履歴書」(日経ビジネス人文庫)から引いてみる。
妻も私も必死になって看病したが、母は日増しに衰弱して行った。弟に電報を打った。富山から無理な旅をして来た弟は、青い顔をして、「間に合ってよかった」と言ってから、彼自身の容体も相当、悪いことを私に話した。母はそれから三日後に亡くなった。(174ページ)
昭和20年、1945年の終戦直後のことで、鉄道の事情が相当悪い時代であったことに留意したい(国鉄も空襲を受け、この頃、急行・特急列車はほとんどなく、本数の減った普通列車も買い出しの人で恐ろしく混雑していた)。
翌46年。
(日展の入選者名簿を)ふしぎに一目見ただけで私の名前の無いことがわかった。それから一つ一つていねいに繰り返し見て、やはり落選したことを確かめると、重い足どりで美術館を出た。打ちひしがれた思いで帰ってくると、私を待っていたのは弟の危篤のしらせであった。(175ページ)
こんなことが続けば、誰だって相当めげると思う。
ちなみに、父を亡くしたのは、1942年(昭和17年)である。傾いていた父の商売を、魁夷がようやく整理にこぎ着けた直後のことであった。
筆者は、さらにここに「二つの死」を重ねてみたい。
ひとつは、言うまでもなく、日本という祖国の死である。
ここで詳説する能力は筆者にないけれども、ドイツ・ロマン派の発端を、ナポレオン軍の侵攻による祖国ドイツの死にあると見なせば、魁夷の芸術的出発が、ドイツ・ロマン派と共通点を有しているといっても、あながち的外れではあるまい。
もうひとつは、自らの死の予感である。
長くなってきたので、この項続く。
2012年7月20日(土)~9月9日(日)
道立近代美術館(中央区北1西17 地図D)
・中央バス、ジェイアール北海道バス「道立近代美術館」から約160メートル、徒歩2分
(手稲、小樽方面行きは、北大経由以外は、すべてのバスがとまります。本数も地下鉄より多く、とくに札幌駅方面からは、この方法がおすすめ)
・地下鉄東西線「西18丁目」から約380メートル、徒歩5分
・市電「西15丁目」から約700メートル、徒歩9分
ほかに、ジェイアール北海道バスが「ぶらりさっぽろ観光バス」を運行しています
9月22日(土)~11月11日(日)
宮城県美術館