(長文で難解です。がまんして読んでください)
思うに、樫見菜々子の作品が、このような環境で展示されたのは、これが初めてではないか。
古物喫茶十一月、旧フリースペースプラハ、temporary space、gallery atta…。
もちろん、札幌芸術の森美術館のような例外もあるけれど、彼女の作品はたいてい、一般的な貸しギャラリーやホワイトキューブを避けるようにして、発表されてきた。
会場の多くは、古い建物である。そこは、通り抜ける風のたたずまいが感じられ、彼女の作品にやわらかい陰影を与えていたのだった。
彼女の作品は、それほどまでに繊細な布などで作られていたのだ。
ところが、今回のCAI02は、コンクリートがむきだしとなった、地下の無機的な空間である。
最初見たとき、冷たいコンクリートが、彼女の作品を押しつぶしているように見えた。
とても、こんなに厚い壁にはかなわないのだ。そう、思った。
しかし、しばらく見ているうちに、印象がだんだん変わってきた。
一見、コンクリートに負けているように感じられる彼女の作品だが、じつはその負け方が美しいのではないか。そのありよう、そのものが、旧来のアートに対する批評たりえているのではないかと、思えてきたのだ。
それはむろん、かつての特攻隊攻撃のような、ロマン主義の最悪の表れ方と通じる「敗北」ではない。
彼女の作品は、それまでのマッチョな芸術のあり方と対極をなしているのではないか。
マッチョとは、でかくて目立つ作品の謂である。自らの正当性をこちらに力強く訴えてくる作品である。
団体公募展が見ていてくたびれるのは、そういう作品がひしめいているからではないか。
樫見作品は、そういう男性原理とは無縁のところで、ひっそりと息づいている。
ホワイトキューブでパワフルに主張するのではなく、周囲の環境としずかに交歓しながら、ひかえめに存在している。
それは「神々の争い」とイズムの闘争を繰り広げながら、イデオロギー的な終着点へと帰結しつつあるかに見える現代アートにとって、すぐれてパラドキシカルな存在である。
しかも、その表現は、服飾やアクセサリーをめぐる出来合いの文脈に回収されそうで、決して回収されないところで、あざやかに成立しているのだ。
じぶんの主張は150号や200号のキャンバス、あるいは巨大なインスタレーションや長尺の映像でなければ、相手に伝わらない-というのは、旧世紀的な誤謬である。
そういう男性的、マッチョ的な物量作戦をたたかえば、かならず敗北を喫するにちがいない。
しかし、それらとは無縁なところで、樫見アートは、存外たくましく、したたかに、存在している。
ところで、洗濯物のようにつるされた布や、床にわずかにちらばった布のほか、会場の一角が、白い布で覆われて百葉箱のミニチュアが置かれていた。
そこだけ、樫見ワールドが、コンクリートに対抗戦を挑んでいるようであった。
百葉箱は、なんのアレゴリーかわからない。
とくに限定する必要はないのだろう。
学校にはかならずといってあるのに、とりたてて主張を存在しないありかたは、樫見ワールドにふさわしい。
ただ、なぜか筆者はつぎの詩を思い出してしまうのだ。
透明な叙情をたたえながらもかすかにエロチシズムを感じさせる詩を。
たぶん、「生」につきもののなまめかしさは、一見どんなに清楚に見える地点にも、どうしたって追いかけてくるということなんだろう。
村上春樹のエルサレム講演の「壁と卵」を引けば、彼女の作品はどうしたって「卵」の側だ。
そして、それは「必敗の歴史」であるだろう。
しかし、長い目で見た場合、それはほんとうに敗れているのか?
2009年6月27日(土)-7月14日(火)13:00-23:00、日曜休み
CAI02(中央区大通西5 昭和ビル地下2階 地図B)
□http://www.nanakokashimi.com/
■樫見菜々子個展「そらの跡」(2009年3月)
■500m美術館(2008年11月)
■樫見菜々子展 『水々しい秘密』(2004年)
■樫見菜々子『なぜ鳥と目が合ったか』 -- 色 匂い 音 湿度 の一致した『その時』--(2004年)
詩は十月の午後
詩は一本の草 一つの石
詩は家
詩は子どもの玩具
詩は 表現を変えるなら 人間の魂 名づけがたい物 必敗の歴史なのだ
(田村隆一「西武園所感」から)
思うに、樫見菜々子の作品が、このような環境で展示されたのは、これが初めてではないか。
古物喫茶十一月、旧フリースペースプラハ、temporary space、gallery atta…。
もちろん、札幌芸術の森美術館のような例外もあるけれど、彼女の作品はたいてい、一般的な貸しギャラリーやホワイトキューブを避けるようにして、発表されてきた。
会場の多くは、古い建物である。そこは、通り抜ける風のたたずまいが感じられ、彼女の作品にやわらかい陰影を与えていたのだった。
彼女の作品は、それほどまでに繊細な布などで作られていたのだ。
ところが、今回のCAI02は、コンクリートがむきだしとなった、地下の無機的な空間である。
最初見たとき、冷たいコンクリートが、彼女の作品を押しつぶしているように見えた。
とても、こんなに厚い壁にはかなわないのだ。そう、思った。
しかし、しばらく見ているうちに、印象がだんだん変わってきた。
一見、コンクリートに負けているように感じられる彼女の作品だが、じつはその負け方が美しいのではないか。そのありよう、そのものが、旧来のアートに対する批評たりえているのではないかと、思えてきたのだ。
それはむろん、かつての特攻隊攻撃のような、ロマン主義の最悪の表れ方と通じる「敗北」ではない。
彼女の作品は、それまでのマッチョな芸術のあり方と対極をなしているのではないか。
マッチョとは、でかくて目立つ作品の謂である。自らの正当性をこちらに力強く訴えてくる作品である。
団体公募展が見ていてくたびれるのは、そういう作品がひしめいているからではないか。
樫見作品は、そういう男性原理とは無縁のところで、ひっそりと息づいている。
ホワイトキューブでパワフルに主張するのではなく、周囲の環境としずかに交歓しながら、ひかえめに存在している。
それは「神々の争い」とイズムの闘争を繰り広げながら、イデオロギー的な終着点へと帰結しつつあるかに見える現代アートにとって、すぐれてパラドキシカルな存在である。
しかも、その表現は、服飾やアクセサリーをめぐる出来合いの文脈に回収されそうで、決して回収されないところで、あざやかに成立しているのだ。
じぶんの主張は150号や200号のキャンバス、あるいは巨大なインスタレーションや長尺の映像でなければ、相手に伝わらない-というのは、旧世紀的な誤謬である。
そういう男性的、マッチョ的な物量作戦をたたかえば、かならず敗北を喫するにちがいない。
しかし、それらとは無縁なところで、樫見アートは、存外たくましく、したたかに、存在している。
ところで、洗濯物のようにつるされた布や、床にわずかにちらばった布のほか、会場の一角が、白い布で覆われて百葉箱のミニチュアが置かれていた。
そこだけ、樫見ワールドが、コンクリートに対抗戦を挑んでいるようであった。
百葉箱は、なんのアレゴリーかわからない。
とくに限定する必要はないのだろう。
学校にはかならずといってあるのに、とりたてて主張を存在しないありかたは、樫見ワールドにふさわしい。
ただ、なぜか筆者はつぎの詩を思い出してしまうのだ。
透明な叙情をたたえながらもかすかにエロチシズムを感じさせる詩を。
(前略) きみの はあらゆる風景を縮約する地図だった。きみの咽喉
はたえず震えている地震計の針だった。 すべてを教えてくれるし
ずかな校庭の懐しい百葉箱であったのだ。
(松浦寿輝「十一月。ふかまる冬のまばゆい さに裸の瞳を」から)
たぶん、「生」につきもののなまめかしさは、一見どんなに清楚に見える地点にも、どうしたって追いかけてくるということなんだろう。
村上春樹のエルサレム講演の「壁と卵」を引けば、彼女の作品はどうしたって「卵」の側だ。
そして、それは「必敗の歴史」であるだろう。
しかし、長い目で見た場合、それはほんとうに敗れているのか?
2009年6月27日(土)-7月14日(火)13:00-23:00、日曜休み
CAI02(中央区大通西5 昭和ビル地下2階 地図B)
□http://www.nanakokashimi.com/
■樫見菜々子個展「そらの跡」(2009年3月)
■500m美術館(2008年11月)
■樫見菜々子展 『水々しい秘密』(2004年)
■樫見菜々子『なぜ鳥と目が合ったか』 -- 色 匂い 音 湿度 の一致した『その時』--(2004年)
このごろ、なんだかその意味がすこしわかってきたような気がします。
「金もうけしたほうが勝ち」「権力を持ったほうが勝ち」
という勝負において、芸術が勝ってしまってはいけない。
もっというと、そういう勝負の土俵に乗ってしまってはいけないのだ、と思うんです。
ナイスです。
樫見さんの作品をこんな風に書いてくれる人がいて嬉しい。