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大鵬幸喜像(川湯温泉)、およびウクライナとロシアのこと 2022年2月26、27日釧路→川湯→網走(17)

2022年03月12日 13時11分00秒 | 街角と道端のアート
(承前。(1)はこちら)

 (1)の次にいきなり(17)かよ、と思われるかもしれませんが、どうしても早めに書いておきたいことがあったので、順番が前後します。

 26日夜、バス「川湯線」の終点で降りたときはすでにあたりが暗くて気がつきませんでしたが、停留所のすぐ前に「大鵬相撲記念館」(旧称は川湯相撲記念館)があり、正面に堂々たる立像が設置されています。

 60代以上の人には説明不要でしょうが、大鵬たいほう(1940~2013)は昭和後期を代表する偉大な横綱です。
 優勝回数32回、そのうち全勝優勝8回、6場所連続優勝は2回で、朝青龍や白鵬に破られるまで数々の金字塔を打ち立てました。
 1961~69年は9年連続で年間最多勝をあげており、日本の高度経済成長時代とその活躍が重なる存在として、プロ野球の長嶋茂雄選手とともに、長く語り継がれる人物でしょう。

 圧倒的な強さと端正なマスクに加え、社会貢献にも熱心な人柄で、人気も抜群でした。


 大鵬は入門前、川湯温泉のある釧路管内弟子屈 て し かが町の高校定時制に通いながら営林署でアルバイトしていました。
 川湯温泉は町内では多くの人が訪れる観光地ですので、記念館があるのでしょう。

 
 ところで、大鵬関の生涯は、戦争と切っても切り離せません。

 大鵬の像は、世界にあと少なくとも2カ所にあります。

 サハリン(事実上のロシア領)とウクライナです。

 横綱は、サハリン州ポロナイスク(当時は敷香)で生まれました。
 当時は日本領であり、戦後は事実上のソビエト領(ロシア領)となっています。
 父親はロシア革命後に亡命してきたウクライナ人とされています。
 横綱は父親について、まったく記憶が無いそうです。

 大鵬は5歳のとき、ソビエト軍の南下から逃れるために、小笠原丸という船で日本に着の身着のまま逃げてきました。第2次大戦の終戦直後のことで、その混乱で父親とは生き別れになっていました。

 船は小樽行きでしたが、稚内で下船することにしました。
 母親の船酔い、大鵬が降りたがったなど、理由は諸説あります。

 ところが、これが命拾いとなったのです。

 大鵬たち一家4人が乗っていた船は、留萌管内小平町沖の日本海でソ連の潜水艦に撃沈され、たくさんの人命が失われたのです(ひどいなあ。もう戦争は終わっていたのに)。


 ポロナイスク(敷香)には2014年、秋田県大潟村の彫刻家鎌田俊夫さんの手になる大鵬の像が建立されました。

 一方、父親の出身地であるウクライナでは2002年、相撲熱が高まったという報道(同年12月24日北海道新聞夕刊)があり、ハリコフに銅像があるそうです。

 
 
 2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻を始め、多くの犠牲者が出ています。
 いつ戦火がやむのか、見通しは暗いままです。

 ロシアとウクライナの両方にルーツを持つというべき大鵬関は、この悲劇を泉下からどうみているのでしょうか。

 この像を見ながら、一刻も早く平和が訪れる日が来ますようにと、思っていました。




・阿寒バス「川湯線」に、JR川湯温泉駅前から乗り約10分、終着の「川湯温泉」降車すぐ

(この項続く) 


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2 コメント

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Unknown (zikoyahikohnonaiakaruinihonwo)
2022-03-12 23:07:59
大横綱大鵬のことはよくよく覚えています。
離れても組んでもとにかく強かったですね。
昭和60年代に職員旅行で北海道を訪れた際に銅像を見ましたが、もしかするとご紹介いただいたここだったのかなって思います。

お父様がウクライナ出身ということは初めて耳にしましたが、それにしても今般のロシアのウクライナ侵攻は早く終わって欲しいですね。
zikoyahikohnonaiakaruinihonwo さん、はじめまして (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2022-03-13 10:46:13
大鵬関の像は、道内ではここにしかないはずなので、おそらく昔ここでごらんになったのでしょう。
文中で書き漏らしましたが、素材は、FRP(強化プラスチック)だと推察しています。

>ウクライナ侵攻は早く終わって欲しい

まったく同感です。
その意味もこめて、ここで紹介しました。

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