2009年の成果を振り返る時期になった。
筆者はまだ各紙をきちんとフォローしていないのだが、毎日新聞の「この1年 書」(当地では12月8日)は特筆に価する。
文中でくわしく触れている「大ベテランの個展」が四つ。
中野北溟「津軽/TSUGARU」、関正人「第9回扶桑印社展」、「北の光をうたう 中野北溟の世界」、「小山やす子 品格とモダンの仮名」-である。
すなわち、半数が北海道の書家になるものであり、うちひとつは、札幌が開催地である。
さらに、「現代の書」の収穫として箇条書きにされている10の書展のうち、小原道城書作展(7月)と辻井京雲作品展(8月)は、札幌が会場である。
これについては、ふたつの観点から述べることが可能だろう。
1.毎日新聞の書担当者(桐山正寿記者)が立派である。
2.北海道には、全国的に認められた書家が多く、東京の評者もほうっておけないのだ。
1.については、「美術評論家」を名乗っている人間の多くが、せいぜい首都圏と関西ぐらいにしか興味がなく、国内の他の地方(北海道を含む)よりはニューヨークや欧洲のほうばかり気にしていることと比較すれば、桐山記者の態度は、評価に値すると思うのだ。
まあ、そもそも、書の批評・紹介を掲載している媒体が、専門誌を除けば、ほとんど毎日新聞ぐらいしかないわけで、その誇りと自覚・責任感が担当者にあるのではないか。
先に「美術評論家」を槍玉に挙げたけれど、事情は「演劇評論家」なども同じであろう。「映画」「文学」「音楽」は複製芸術の側面が大きいので、東京に住んでいても格好はつくだろうが。
しかし、じゃあ東京から評論家諸氏がはるばる北海道に来て、見る価値のある展覧会がどのくらいあるのかというと、これはなかなかはっきりとしたことはいえないモンダイである。
書の場合、全国規模の展覧会が日展、毎日展、読売書法展など、それほど多くない。日展や毎日展の有力書家が大きな規模の個展を開くとなれば、開催地がたとえ札幌であっても、交通費をかけて見る価値があることは事前に分かるであろう。小原氏、辻井氏は、まさにその例に該当すると思われる。
そう考えると、いまはかなりマイナーな存在になっている団体公募展も、地方の人間にとっては役に立つ制度であったといえるのではないか。
すくなくとも、北海道の人間が美術界で全国区になる回路(通路)が、団体公募展の盛んだった時期に比べいささか見えづらくなっているのは、確かだと思う。
ともあれ、道内の書家が、全国的な視野できちんと評価され位置づけられているのは、当たり前のこととはいえ、非常に喜ばしい。
それにくらべて現代アートや絵画や写真は…、と思うと、まあ、自らの力不足を棚に上げるわけにもいかないだろうけど、ひどくむなしい気持ちになるのであった。
首都圏の評論家連中がデクノボーで怠慢だからだとか、クダをまいたところで、どうせだれも聞いてないし。
われわれは、第二の宗左近が出てきて神田日勝を見出したように、だれかが(たとえば)鵜川五郎を「発見」する日まで、指をくわえて待っているしかないんだろうか?
筆者はまだ各紙をきちんとフォローしていないのだが、毎日新聞の「この1年 書」(当地では12月8日)は特筆に価する。
文中でくわしく触れている「大ベテランの個展」が四つ。
中野北溟「津軽/TSUGARU」、関正人「第9回扶桑印社展」、「北の光をうたう 中野北溟の世界」、「小山やす子 品格とモダンの仮名」-である。
すなわち、半数が北海道の書家になるものであり、うちひとつは、札幌が開催地である。
さらに、「現代の書」の収穫として箇条書きにされている10の書展のうち、小原道城書作展(7月)と辻井京雲作品展(8月)は、札幌が会場である。
これについては、ふたつの観点から述べることが可能だろう。
1.毎日新聞の書担当者(桐山正寿記者)が立派である。
2.北海道には、全国的に認められた書家が多く、東京の評者もほうっておけないのだ。
1.については、「美術評論家」を名乗っている人間の多くが、せいぜい首都圏と関西ぐらいにしか興味がなく、国内の他の地方(北海道を含む)よりはニューヨークや欧洲のほうばかり気にしていることと比較すれば、桐山記者の態度は、評価に値すると思うのだ。
まあ、そもそも、書の批評・紹介を掲載している媒体が、専門誌を除けば、ほとんど毎日新聞ぐらいしかないわけで、その誇りと自覚・責任感が担当者にあるのではないか。
先に「美術評論家」を槍玉に挙げたけれど、事情は「演劇評論家」なども同じであろう。「映画」「文学」「音楽」は複製芸術の側面が大きいので、東京に住んでいても格好はつくだろうが。
しかし、じゃあ東京から評論家諸氏がはるばる北海道に来て、見る価値のある展覧会がどのくらいあるのかというと、これはなかなかはっきりとしたことはいえないモンダイである。
書の場合、全国規模の展覧会が日展、毎日展、読売書法展など、それほど多くない。日展や毎日展の有力書家が大きな規模の個展を開くとなれば、開催地がたとえ札幌であっても、交通費をかけて見る価値があることは事前に分かるであろう。小原氏、辻井氏は、まさにその例に該当すると思われる。
そう考えると、いまはかなりマイナーな存在になっている団体公募展も、地方の人間にとっては役に立つ制度であったといえるのではないか。
すくなくとも、北海道の人間が美術界で全国区になる回路(通路)が、団体公募展の盛んだった時期に比べいささか見えづらくなっているのは、確かだと思う。
ともあれ、道内の書家が、全国的な視野できちんと評価され位置づけられているのは、当たり前のこととはいえ、非常に喜ばしい。
それにくらべて現代アートや絵画や写真は…、と思うと、まあ、自らの力不足を棚に上げるわけにもいかないだろうけど、ひどくむなしい気持ちになるのであった。
首都圏の評論家連中がデクノボーで怠慢だからだとか、クダをまいたところで、どうせだれも聞いてないし。
われわれは、第二の宗左近が出てきて神田日勝を見出したように、だれかが(たとえば)鵜川五郎を「発見」する日まで、指をくわえて待っているしかないんだろうか?