観・環・感

野鳥観察や旅行、映画などの趣味と日常生活や世の中の状況について、
感じる事を書いています。

世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その3

2014年03月11日 | 旅・風景・グルメ

左から陽明門、鐘楼、朝鮮鐘、オランダ灯籠、鼓楼

日光東照宮で一番の見所の陽明門は、写真のようにすっぽり覆われていた。
鐘楼には釣鐘が納められている。


朝鮮楼は、3代将軍家光公の長子(後の4代将軍家網公)誕生を祝賀して、日本に来た朝鮮通信使が献納したもの。


オランダ東インド会社から1636年、1640年、1643年と3回いずれもオランダアムステルダムで製造された灯籠が
献納された。
1636年(寛永13年)に贈られたこの灯籠は、奇しくも寛永の大造替(現在の東照宮)が完成した年と重なる。
ところで、オランダのアムステルダムで造られたこのオランダ灯籠がここにあるには訳がある。
この献納は、ポルトガルとの貿易の利権をめぐる熾烈な競争の中のオランダ側の幕府の対する賄賂のようなものだが、ネット検索でもっと面白い
ことを見つけた。

オランダは、スペイン、ポルトガルに対抗し中国の生糸を入手するため、1624年年、台湾に拠点として商館と要塞(ゼーランディア城)を設けた。
同じ頃日本も台湾などを拠点にアジア各地との貿易を拡大しようとしていた。1626年に2隻の日本船がゼーランディア城近くに立ち寄った。
中国大陸との貿易のためである。オランダは、貿易品に課税しようとし、日本が支払いを拒否すると、貿易品を没収した。

1628年、報復のために、日本の朱印船(船長:浜田弥兵衛)が500人の乗組員と武器を満載して、ゼーランディア城を攻撃し、貿易品を奪い返し、
オランダ人5人を人質に取った。浜田らの訴えにより、オランダとの貿易は全面的に停止され、長官のヌイツは責任者として日本側に引き渡され、
人質と交換に幽閉された。(1636年解放)これにより解決が図られ、1633年(寛永10年)貿易が再開される。貿易許可の「御礼」としての
オランダの長崎商館長の江戸参府は、このとき義務付けられ定例となった。


葵の紋が逆さまになっている。これが大名が寄進した物なら切腹ものだが、オランダだから咎めはしてないようだ。


日光東照宮には、全国の大名等から献納された灯籠が121基もある。
透塀の前に立つ雪で見えないこの銅製の灯籠は、一本灯籠と呼ばれ2代将軍秀忠の5女で、後水尾天皇の中宮となった(東福門院和子)が奉納したもの。



世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その2 「三猿」

2014年03月09日 | 旅・風景・グルメ
日光東照宮の表門をくぐり、左あるのが神厩舎の有名な三猿

猿が両手で両目、両耳、口を覆っていることから「見ざる、聞かざる、言わざる」と語呂合わせが上手くできているため、三猿は、日本が起源と思われがちだ。
しかし、世界各国にこの意匠は存在するようで、有名なとろでは古代エジプトやアンコールワットにある。これらは当然、日光東照宮より古いので、日本が
起源でないことについては、はっきりはしている。現認できているもので一番古い物は、古代エジプトのものらしい。だから、シルクロードを経て中国から
日本に伝わったとする説が有力だそうだ。


しかし、東照宮の神厩舎の長押の上の猿の彫刻は、有名な三猿だけではなく、全部で8面あり、独自のストリーを持っている。
ストーリーは、母猿が小猿の将来に思いを馳せているこの場面から始まり、最後の場面は、この小猿も身籠もるということでまた最初に戻るというお話になっている。


2番目の場面がこの有名な三猿だ。
分別の難しい幼少の頃は、悪い事を見たり、聞いたり、言ってはいけないという教訓


ここに1面毎の意味が書かれている。


神厩舎全景

ところで、厩舎になぜ猿なのかというと、猿「は、馬の病気を治すという信仰があり、また、実際に馬小屋に猿も一緒に飼ってていたそうだ。
猿が馬の守護神とされたのは、「陰陽五行説の馬は火、猿は水に相当する」だから、火を水で消すということで猿が馬を守ると説明がつくらしい。

世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その1

2014年03月08日 | 旅・風景・グルメ

入口に東照宮と書かれた葵の紋が光る石柱が置かれている。


この石鳥居(一の鳥居)は、黒田官兵衛の長男、長政が奉納した物で石材は九州から運ばれている。
また、扁額に書かれている東照大権現という文字は、後水尾天皇の宸筆といわれている。扁額の大きさは畳1畳分


表門
阿吽の仁王像を安置しているので、昔は仁王門と呼ばれていた。仁王は仏教の守り神ということで、明治4(1871)年実施の神仏分離令により、
この仁王像は大猷院の仁王門に移された。それ以来、門の名称も表門と呼ばれるようになった。仁王像がここに戻ってきたのは明治30(1897)年
になってから。


表門の裏側には狛犬がいる。

家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に
小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。」と示したので、二代将軍の秀忠は忠実に簡素な霊廟を建てた。
しかし、家康を敬愛する第三代将軍の家光によって、「寛永の大造替」が行われ、その結果が今日の世界遺産登録に至ったということ。
派手派手しさもここまで徹底すれば(芸寿的に高めれば)けばけばしさとかいかがしさは感じない。

今日のサンカノゴイ

2014年03月07日 | 野鳥
朝目覚めると、どうやら今日は上天気のようだ。まず、近場のフィールドに出掛けたみたが、シャッターを切る被写体
すら見当たらない。
せっかく良い天気なのにこのまま家に帰るのは勿体ない。昨日見たMさんのブログを頼りに野鳥園へ行ってみた。すると、
兵庫県から来られた4人のカメラマンが、「私たちもMさんのブログを見て探してみたけどいなかった。」と話されたので、
Mさんに電話をしてみた。すると、近くに住まわれているとはいえ、わざわざ現場まで来てくれた。そして、しばらくして
潜んでいる場所を探し出してくれた。


真正面にいると言われてもなかなか気がつかなかった。




3枚ともトリミングあり
2枚目と3枚目、被写体には同じ蘆の葉が被っている。

世界遺産 「日光の社寺」 輪王寺その2

2014年03月05日 | 旅・風景・グルメ

真ん中にロケットのような形をした変わった青銅のオブジェのような物があある。(左は平成の大修理中の三仏堂、右は大護摩堂)
高さ、13.2メートルで、徳川3代将軍家光の発願によって天海大僧正(家康、秀忠、家光のブレーン)が建てた相輪塔というものらしい。天台宗の宗祖
伝教大師最澄が建てた塔を模して造られたようだ。この中に法華経を 始めたくさんの経典が納められている
当初は東照宮も奥院にあったが、慶安3(1650)年に二荒山神社近くに移築。明治8(1875)年に、神仏分離令によって現在の場所に移された。

相輪橖(塔)を検索するとkotobank(ことばんく)に
“【相輪】より
…相輪の原形はインドのストゥーパが中央アジアを通って中国に伝わり,基壇,土饅頭形の墳丘,平頭,宝傘という構成が,露盤,伏鉢,請花,九輪に
変形し,木造高楼上に安置された。相輪自体がストゥーパを意味し,相輪のみを地上に建てた相輪橖(塔)(輪王寺)もある。古くは複数の相輪をもつ塔
(長谷寺千仏多宝塔銅板など)もあった。…

【塔】より
…石塔は日本では小さなものしかなく,形式としては多層塔,多宝塔,宝塔,宝篋印(ほうきよういん)塔,五輪塔,無縫塔,笠塔婆などがある。鉄塔や
銅塔には相輪橖(そうりんとう),宝塔,五輪塔などがある。木造塔は舎利奉安のため,または大日如来の三昧耶形(さんまやぎよう)として建てられたが,
のちには伽藍(がらん)を荘厳(しようごん)するものとして,あるいは故人の供養のために建てられるようになり,神社にも設けられるようになった。…”

次にストゥーパを検索すると
“サンスクリット語で「stuupa」は、本来ものが堆積して高くなり目立つ、という意味である。

(1) 古代インドの丸く土を盛上げた墳墓
(2) 仏陀(あるいは阿羅漢など)の遺骨(あるいは髪、持物など)を埋納し、仏教徒たち が尊崇の対象とした半球形、またそれが変化発展した形の建造物、
  すなわち仏塔。
 通常は(2)の意味に用いる。
 中国、日本などの卒塔婆、塔婆、塔という語もストゥーパに由来する。
 伝説によると仏陀の入滅後、火葬骨(仏舎利)が分割されて8基の仏塔が建てられ、アショーカ王の時代にこれを発掘して、再分割して8万4千基の仏塔が
 建てられたという。"

さらに相輪塔など「塔」について調べていくとウィキペディアに詳しく載っていた。


尖端部分を拡大してみた。葵の紋もきっちり刻まれている。

世界遺産 「日光の社寺」 輪王寺その1

2014年03月03日 | 旅・風景・グルメ

輪王寺の三仏堂は、約50年ぶりの大修理(2007年から2020年 予定)が行われている。
工事の施工業者は、スカイツリーを建設した大林組


これが実物大の三仏堂(金堂)の写真 扁額には金堂と書かれている。
中に入って参拝できる。


大護摩堂

日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼んでいる。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という
「神」として祀る神社であり、二荒山神社と輪王寺は、奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたのが起源である。「二社一寺」が明確に分離する
のは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」称し、神仏混淆の信仰が行われていた。
グーグルマップで日光山内を見ると、輪王寺に属する建物が一箇所でなく、日光山内の各所に点在しているのがよく分かるが、それは、このような事情
によるものだ。

この日光東照宮、日光二荒山神社(別宮本宮神社、別宮滝尾神社を含む)、日光山輪王寺(大猷院霊廟を含む)は、1999年12月2日に世界遺産と
して登録された。登録名は、「日光の社寺」である。」103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く
「遺跡(文化的景観)」が登録されている。

私がここへ来たのは、3回目だが、世界遺産に登録されてから来たのは初めてである。
この二社一寺、纏まって世界遺産になっているから仲が良いのかと思ったら大間違い。かっての東照宮は、神仏両方からの参拝を基本としていて、輪王寺の
僧侶が仏事、二荒山神社の神主が神事を執り行う共通の神廟だったらしい。東照宮と輪王寺の争いの発端は、明治4年のいわゆる神仏分離令に遡る。この
事情は、「東京高等裁判所第十二民事部昭和45(ネ)1356:民事控訴事件」の判決の以下の要旨で分る。

「一、 元和三年創建以来日光山座主の管理下にあつた神仏混淆の東照宮は、独立の法主体性を有する神社であつて、神地内にある仏式の七堂塔は、その建造の
当初から東照宮の所有に属していたものと解すべきである。二、 明治政府は明治四年、いわゆる神仏分離令に基づいて、満願寺(筆者注:輪王寺は、戊辰戦争後
の明治2年に政府から称号を没収され、旧称の満願寺に戻された。)僧侶に対し東照宮神地内にある仏式の七堂塔を寺地に移遷すべきことを命じたが、この命令
によって右堂塔の所有権が満願寺に移転したものと解することはできないのみならず、移遷の命令も後に撤回されたので、堂塔は、その所有権の帰属になんらの
変更を生じなかつたものと解すべきである。」

さらに、「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については21世紀の現在になっても東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着していない
ようだ。これらの懸案が未だに尾を引いていることは、ごく最近の地元「下野新聞SOON」の二社一寺共通拝観券販売を巡る以下のニュースを読めば分かる。

“世界遺産「日光の社寺」の共通拝観券制度(筆者注:明治時代から続く)をめぐる社寺間の問題で、日光東照宮は2月27日、日光市内で会見を開き、新たな
共通券の販売に向け、日光山輪王寺や日光二荒山神社との協議に応じる意向を示した上で、「輪王寺が謝罪しない限り、崩れた信頼関係は戻らない。協議成立も難しい」
と強調した。輪王寺が東照宮、二荒山神社と共同で運営してきた共通券の販売再開を求めた仮処分申請は、26日に輪王寺が申請を取り下げて終了した。宇都宮地裁が
まとめた審尋調書は「協議成立時には」との条件付きで、新たな共通券の発行が確認された。仮処分取り下げについて、東照宮の稲葉久雄宮司は「400年祭の開催前に
終わることができ、良かった」と述べた。ただし、共通券の再開に向けた協議はそれぞれの主張や思惑で対立する可能性は高く、難航が予想される。稲葉尚正総務部長は
「信頼関係の再構築が不可欠で、そのためには輪王寺が直接または文書での謝罪をするべきだ」とした。3者による協議は今後、「二社一寺」の当番である二荒山神社が
呼び掛けるなどして、開催する見通し。”

私にとっては、神も仏もありがたいと思っておりどちらも平等だ。しかし、明治政府が天皇の神権的権威の確立のためにとった神道保護と仏教抑圧のための政策(神仏分離令)
のせいで両者の対立が深まったのだろう。国が宗教に関与する事はいけないのは当然だが、寺と神社間の裁判を担当する裁判官も大変だろう。白黒つけがたい事案に一方的な
判断を下すと、敗者側のたたりが身に及ぶかもしれないなどと不謹慎な事を考えてしまった。