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左から陽明門、鐘楼、朝鮮鐘、オランダ灯籠、鼓楼
日光東照宮で一番の見所の陽明門は、写真のようにすっぽり覆われていた。
鐘楼には釣鐘が納められている。
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朝鮮楼は、3代将軍家光公の長子(後の4代将軍家網公)誕生を祝賀して、日本に来た朝鮮通信使が献納したもの。
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オランダ東インド会社から1636年、1640年、1643年と3回いずれもオランダアムステルダムで製造された灯籠が
献納された。
1636年(寛永13年)に贈られたこの灯籠は、奇しくも寛永の大造替(現在の東照宮)が完成した年と重なる。
ところで、オランダのアムステルダムで造られたこのオランダ灯籠がここにあるには訳がある。
この献納は、ポルトガルとの貿易の利権をめぐる熾烈な競争の中のオランダ側の幕府の対する賄賂のようなものだが、ネット検索でもっと面白い
ことを見つけた。
オランダは、スペイン、ポルトガルに対抗し中国の生糸を入手するため、1624年年、台湾に拠点として商館と要塞(ゼーランディア城)を設けた。
同じ頃日本も台湾などを拠点にアジア各地との貿易を拡大しようとしていた。1626年に2隻の日本船がゼーランディア城近くに立ち寄った。
中国大陸との貿易のためである。オランダは、貿易品に課税しようとし、日本が支払いを拒否すると、貿易品を没収した。
1628年、報復のために、日本の朱印船(船長:浜田弥兵衛)が500人の乗組員と武器を満載して、ゼーランディア城を攻撃し、貿易品を奪い返し、
オランダ人5人を人質に取った。浜田らの訴えにより、オランダとの貿易は全面的に停止され、長官のヌイツは責任者として日本側に引き渡され、
人質と交換に幽閉された。(1636年解放)これにより解決が図られ、1633年(寛永10年)貿易が再開される。貿易許可の「御礼」としての
オランダの長崎商館長の江戸参府は、このとき義務付けられ定例となった。
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葵の紋が逆さまになっている。これが大名が寄進した物なら切腹ものだが、オランダだから咎めはしてないようだ。
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日光東照宮には、全国の大名等から献納された灯籠が121基もある。
透塀の前に立つ雪で見えないこの銅製の灯籠は、一本灯籠と呼ばれ2代将軍秀忠の5女で、後水尾天皇の中宮となった(東福門院和子)が奉納したもの。