観・環・感

野鳥観察や旅行、映画などの趣味と日常生活や世の中の状況について、
感じる事を書いています。

ヤマセミ

2014年03月31日 | 野鳥
大物が出没する所を教えてもらったので遠くの山奥まで出掛けた。その場所の近くにヤマセミがよく出てくるらしい。最初、大物が現れる所で待って
いたが、いつまで待っても出てこないので、町営温泉の食堂で昼ご飯を食べることにした。注文した
「阿波尾鶏鍋」を待つ間、ヤマセミは眼下に見えるこの美しい谷のどこに出て来るのだろうかとじっと見ていた。
前方の席で食事をしていた県の土木事務所の職員らしき人たちが真正面に見えるヒノキの植林の伐採跡を見ながら話していたのが耳に入ってきた。
県道沿いの山腹崩壊の対処は治山管理者か県道管理者かというような話だった。治山管理者は、山腹が崩壊しないような伐採の方法を業者に指導して
いるが
業者はなかなか言うことを聞いてくれなくて困っているとの内容だった。
また、前方の伐採跡もまだ県道には崩落していなかったが、側方では土砂崩れが起き、滝見物のための道が通行止めになっていた。

食後、食堂入口に地元新聞の切り抜きを見つけ、ヤマセミの来る場所が分かったので、対岸で待つ事にした。すると、手すりの上になんやらオブジェの
ような物が乗っている。双眼鏡で確認すると本物のヤマセミだ。


ヤマセミは、九州以北の山地の渓流に棲むカワセミ科の鳥で習性もカワセミに似ているが、体長はヤマセミが38cmとハト大であるに対し、カワセミは
17cmでヒバリ程度の大きさである。


左のヤマセミ、は顎線の一部に橙褐色の斑が見えるので雄だろう。


ちょうどこちらを向いてくれた。やはり、顎線の一部と胸に橙褐色の斑がついてる。間違いなく雄だ。


右のヤマセミには橙褐色の斑がついていないので雌だろう。

証拠写真を撮ると、もう一度大物狙いに行ってみたが、1時間も辛抱できずに引き上げた。
この周辺は、元来土砂崩れの多い場所だが、帰路もよく注意して見てみると伐採跡と土砂崩れの場所が一致している箇所が多かった。

月岡温泉 華峰

2014年03月26日 | 旅・風景・グルメ

左が白玉の湯 華峰、右が別邸越の里 (越の里は全室スイートタイプ)
写真のように周りには何にもない田んぼの真ん中にある月岡温泉。しかし、流行のスーパー銭湯の集まりではなく本格的な温泉だが歴史は浅いようだ。
添乗員さんの説明では“1915年に石油開発が始まり、新潟県の新津を中心とした東山油田の一部地域として当地月岡でも大勢の小規模事業者が
入り、石油の掘削が行われていた。事業者共同で最後の一本を深く掘削すると温泉が出てきたが、温泉の下には石油なしと判断した石油事業者は解散。
しかしその中の石油組合の専務理事であった本間周三郎氏が石油業に見切りをつけ、温泉場の建設を思い立ち湯小屋(共同浴場)を作り、人夫達に
旅館経営をすすめたのが、月岡温泉発祥の始まり”と言う話だった。温泉街には大小24軒の旅館があるらしい。また、この月岡温泉が全国に知られる
ようになったの1982年の越新幹線開業と関越自動車道開通によって関東・首都圏からの交通アクセスがよくなったことが大きな要因だと話してた。


正面から見た華峰
旅行新聞新社が主催した全国旅行会社による投票・集計による100選の施設を選出し、その結果、「もてなし」「料理」「施設」「企画」の4部門の
合計点からなる総合ランキングの3位が華峰らしい。
ちなみに、このランキング10の中で外に2軒泊まったとことがあるが、そのうち1軒は疑問符がつく。しかし、華峰は、全国3位かどうかは別にして、
いい旅館だった。
ここの温泉の大きな特徴は、まるで入浴剤を使ったのかのような綺麗なエメラルドグリーンの色をしていること。泉質は含イオウ・ナトリウム塩化物温泉
ということだが、温泉の色はその日の天気や気象条件によって微妙に変化するらしい。


宿泊階の廊下から温泉街を眺めると同じ白玉の湯の泉慶が見える。


部屋からの眺め


ロビー
この旅館に来る道中のバスの中で見たビデオ、月岡温泉界隈やここ華峰を舞台とした奥田瑛二主演の「新雪国(2001年)」は面白くなかった。映画の中で
ここの女将さんと主人公の話す場面にこのロビーが使われていた。女将さんは、私たちバスツアーグループの夕食会場まで挨拶に来られていた。

今期初の渡りのハイタカ

2014年03月23日 | 野鳥

ハイタカ 
これくらいの感じで見えれば良いのだが、実際は遠くを飛んでいる。

ハイタカの名前の由来を調べていたら「ハイタカが仮の名でゲドが真の名です。」という記述がでてきた。また、ウィキペディアでは「この項目では、
タカ科の構成種であるハイタカについて説明しています。ゲド戦記の主人公については「ゲド」をご覧ください。」とあった。
ゲド戦記とは、どうも「指輪物語」「ナルニア国物語」のようななファンタジー小説のようだ。また、この小説を原作として宮崎駿監督の子息である
宮崎吾朗が初監督をしたスタジオジブリ制作のアニメもあるらしい。
このゲド戦記のハイタカのことは知らないが、宮崎駿監督作品の「もののけ姫」のアシタカはよく知っている。(映画も2度見た。)



ソデグロヅル 最終回

2014年03月22日 | 野鳥
野鳥の会の県支部のMLに鳴門にいた3羽のソデグロヅルのうち北帰した2羽が韓国鉄原の非武装地帯にいるとの情報が載っていた。
残りの1羽は体調不良のためか現在も鳴門で滞在中とのこと。残りの1羽も早く体調が良くなり、仲間の所へ帰れるといいのにと願う。
ところで、この韓国と北朝鮮との間の非武装地帯は、世界一地雷が埋まっているらしいが、皮肉なことに野鳥にとっては楽園となっているようだ。








鶴ヶ城

2014年03月21日 | 旅・風景・グルメ
2月24日、日光の社寺の観光の後、会津若松に行った。


案内板に鶴ヶ城と書いてある。
地元では、会津若松城が鶴ヶ城と呼ばれていることも知らなかった。
幟に八重のふるさと、福島県とある。

綾瀬はるかは、2004年の「世界の中心で愛を叫ぶ」でヒロインを演じた時に彼女の役作りのための坊主頭や10kgもの減量という役者魂に感心し、
その時からの隠れファンだ。(高倉健主演の映画「あなたへ」での漁師町の娘役も良かった。)
しかし、彼女がNHKの大河ドラマ「八重の桜」で演じた「新島八重」については、何も知らなかった。夫の新島襄は知っているが。
テレビは見ていないが、同じ鶴ヶ城つながりで、郷土のライバルといわれている「大山捨松」のことは、その名前の強烈さから知っていた。(捨松の名前の
由来も知っている。)
鶴ヶ城と話はそれるが、来年の大河ドラマ「花燃る」の主人公である吉田松陰の妹、文(美和子)のことも全く知らない。


石垣の角がきれいに揃っている石組み


この石垣を見てると天守閣が倒れないかと不安だが、天守閣全体を4本の柱だけで支えており、土台の石垣には、重量がかかっていないとのこと。
ちなみに、江戸時代からあった天守閣は幕末の戊辰戦争で傷み、その後、1874年に取り壊され、写真の鉄筋コンクリート造の天守閣は1965年に再建されたもの。
野面積みの石垣は江戸時代のもの。


城の周囲に桜が植えられているが、戊辰戦争当時は植えられていなくて、1908年にここ会津若松市に陸軍歩兵第65連隊が設置された記念に植えられたもの
だとボランティアの案内人が言っていた。
この辺りの角度から見た城が一番綺麗と思った。


天守閣の最上層か見た山容の美しいこの山は磐梯山だろうか。






ソデグロヅル採餌

2014年03月19日 | 野鳥
ソデグロヅルは何を食べているのか、見てたがよく分からなかった。
蓮田だけどレンコンの根はどうも食べていないようだと農家の方が言われてた。


顔全体を突っ込み、泥だらけになりながら餌を取っている。


右の個体がクチバシに挟んでいる物をよく取っているようだが、拡大してもはっきりしない。


他の2羽が採餌している時は、左の翼に一部黒い羽が見えるこの個体が立って見張りをしているように思ったが


3羽とも採餌してる時もあった。


ソデグロヅル筋骨隆々

2014年03月18日 | 野鳥

脚は細いが上半身は凄い。


翼開長は、2.5mを超えているだろう。これだけ長い羽を動かすには力もいるだろう。


ソデグロヅルはヒマラヤ越えで有名だが、この体だとヒマラヤ山脈を越えてインドや中国で越冬するのも納得できる。


3羽のうちこの2羽はペアなのだろうか。


このあと鳴き止んだ。


「鶴の一声」という諺があるが、一声でなく数回鳴いていた。しかし、録音する間はなかった。
口から泥水が垂れている。

今日のソデグロヅル

2014年03月16日 | 野鳥
前回見た場所から西の方に行った所にソデグロヅルはいた。
ソデグロヅルの近くまで道はあるが、車が1台しか通れない道なので、広い道に駐車してから忍び足で歩いて行った。
そして舗装されてない道に座って写真を撮っていると、ツルがドンドン近づいて来たので3羽同時にカメラに収めるのが
難しくなった。(1.5倍のクロップ撮影の場合)


3羽同時に撮れる時は2羽が重なった場合





3羽同時に写らないのでトリミングで1羽だけ



世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その5

2014年03月14日 | 旅・風景・グルメ

国宝の唐門とそれに連なる透塀、後ろは拝殿その後ろに本殿がある。


唐木を使用しているので唐門と呼ばれているようだが、門全体も中国風である。
唐木とは、紫檀、黒檀 、白檀、鉄刀木(たがやさん)など遣唐使のころ日本へ中国を通じて輸入された銘木のこと
東照宮の最も重要な本殿への正門がこの唐門で、現在この門を潜るのは、正月や大祭など中祭以上の祭典の時か、国・公賓相当の方の参拝の時だけだそうだ。
江戸時代は「御目見得」以上の幕臣や大名だけが通れた。


唐門正面の上部には、「舜帝朝見の儀」の彫刻(写真一番下)があり、舜帝は、古代中国の伝説上の皇帝で、舜帝が残したとされる「内平外成」の
言葉から平成の元号が選ばれたそうだ。1本のケヤキに4列27人の人物が彫られている。ところで、舜帝は堯から帝位を受け継ぎ禹に渡した。
そのことは、徳のある者へ正しく政権が移った理想の政治とされている。この彫刻は、実は家康を立てながら、家光が正式に将軍職を継いだことを
表しているそうだ。

(中央部分で椅子に腰掛けているのが舜帝で、家康の顔に似せているようだが、この写真は、上から2枚目の写真の一部を切り取った写真。しかも
2枚目の写真も他の写真の一部を切り取った写真であるので不鮮明。というか、この彫刻のことを後で知ってからの作業なので、撮影当初から舜帝朝見の儀
にはピントが合っていない。
唐門が国宝であることも知らず、しかもこの門は胡粉が塗られていて白く、他の建物に比べると地味。そのう上に間口3m。奥行き2mの小さな門なので、
余り写真を撮っていない。これから撮影に行く時には事前に撮影スポットの下調べをしておかねばと思った次第。)


この国宝の透塀は、唐門の左右から延びて本殿、拝殿を囲み延長は160メートルあまり。


東照宮内をなぜお坊さんが闊歩してるのか、はたまたお堂の中にもいるのか、行った時は不思議だった。しかし、この本地堂(輪王寺側は、薬師堂)と次の輪蔵は、
東照宮と輪王寺がその所有権を巡って争っており、これら2棟については、財団法人日光社寺文化財保存会が管理団体に指定されている。しかし、実質的な管理運営は、
輪王寺側がしているということだろう。


輪蔵(経堂)その横は鼓楼
仏教の経典を納める経蔵だが、建物の真ん中に8角形の回転式の書架が置かれていることから輪蔵の名がついている。
  

世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その4

2014年03月13日 | 旅・風景・グルメ

この五重塔は表参道の一の鳥居(石鳥居)をくぐった左手にある。1650年に小浜藩主・酒井忠勝によって建てられたが、1815年に落雷のため焼失。
現在の塔は忠勝の子孫である酒井忠進が1818年に再建したもの。この五重の塔もこれだけが存在してれば、豪華絢爛、裏返せば派手で、けばけばしい
五重塔としか思わないが、東照宮全体の建物が派手なので特に違和感はない。しかし、一般的な多塔は上層部へいくに従い細くなる、いわゆるツリー状に
なるのに対し、この五重塔は一層部分と五層部分の大きさが大きくは違わない。つまり、見た目には細長く安定性の悪い建築物のように見える。しかし、
この塔の免震構造をスカイツリーが参考にしたといわれるほど構造的にも優れた塔であるようだ。


下神庫
特に有名なものもなく、周りに誰もいなかった。


左から上神庫、中神庫、下神庫
三神庫とは下神庫・中神庫・上神庫の総称で1635年に建てられた。
高床式で校倉造りとなっており、内部には「百物揃千人武者行列」に使用される1200人分の装束や舞楽用の装束などが収められている。


上神庫の屋根の軒下にあるこの象の彫刻は、「三猿」、「眠り猫」と共に日光三彫刻の1つとされている。
この彫刻のことは後で知ったもので、特に写真を撮っておらず、無理に拡大した写真なので、不鮮明な上、左の象は白飛びしており本来の色が全く
分からなくなっている。
下絵を書いたとされている狩野探幽は、本物の象は見たことがなく、象についての話を聞いただけで想像してこの象を描いたといわれており、「想像の象」と
呼ばれている。この上神庫は「御宝蔵」とも呼ばれ、最重要な御神宝をしまう庫である。


眠り猫の案内板


左甚五郎の作と言われている眠り猫の彫刻で国宝である。猫の大きさは、20cm程度だろうか。