散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「安保関連法案」と憲法解釈~コモンロー的接近は可能か

2015年07月17日 | 国内政治
実りのある議論は国会でも、マスメディアでもなかった割には、単なる騒ぎだけが世の中全体に押し出されているように感じていた。それを象徴するかのような採択前の委員会風景(7/15付)だ。

  

50年以上も前、米国滞在時に「キューバ危機」に直面し、死ぬかもしれないと本気で考えた永井陽之助は、日本の微温的な泰平ムードを“愚者の楽園”と評した。氏はその時の衝撃をバネに国際政治の研究を志し、「平和の代償」の出版に至った。

その中で、「…デモをやる学生、国会をレスリング場と錯覚している代議士たち、…これを『運動の快楽』と呼ぶ。別にふざけているわけではない。…」と述べる。存命でこの写真を見たとき、“愚者の楽園”と評するだろうか。

一橋大・齊藤誠教授が7/13に「『個人の尊厳』が犠牲になってはならないという言葉は、とても印象的」とツイートされた。この言葉を含んだ慶応大・山元教授が受けたインタビュー記事、「解釈改憲」に筆者は捉えられた、それも有りかと。

翻って、解釈改憲の議論は、米国流の法律万能主義とは異なり、英国のコモンローとアプローチが逆の様だが、考え方は似た方向にある様に感じた。コモンローとは、不文法のことで、慣習や判例を積み重ねて、「法」として機能していることを指す。自衛隊に関する合法性もまた、自衛隊の具体的な活動を評価して、徐々に浸透していったものだろう。

山元教授は次の様に云う。
1)自衛隊は戦力の保持を禁止する憲法9条2項と正面衝突、自衛隊は違憲との解釈がつい最近まで学説では多数説。
2)しかし、自衛隊は今日では合憲性と法的安定性を獲得、学界の内外で個別的自衛権も含めて多数が法的に認める。
3)これは「0」を「1」にしたと言えるほど質的にインパクトは大。
4)個別的自衛権から集団的自衛権は、「1」から「2」へ量的に進んだ程度。

筆者は今の今まで、革新系の学者、団体の多くは自衛隊違憲説であって、単に既成事実を認め、現実に屈服しているだけだと思っていた。しかし、2014/9/29の国民安保法制懇の意見では、従来、自衛隊違憲説の学者も個別的自衛権肯定論に転換し、国民熟議の賜物と評価している。

そこまで自らが変わったことを、現実直視の結果だとも言えずに、国民熟議とは良く言ったものだ。これに対して、これからも熟議を続ければ良い、というのが山元教授の主張なのだ。足下を掬って、尤もと言う他はない。

即ち、条文の解釈は理論的に論証できるものでもなく、各政治主体がそれぞれの利害に対する考え方から、好ましい解釈を行い、政治的に闘うと考えれば、熟議のプロセスを継続するが、民主主義の営みにとって重要なはずだ、と説明する。ところが、集団的自衛権容認は違憲と言い切って戦う立場にいるのが、国民安保法制懇なのだ。結局、自衛隊違憲論のときと姿勢は変わらないのだ。

さて、解釈改憲をコモンロー的に進めていくには、これまでの慣習を積み重ねていくことだ。自衛隊の変遷、日米安保の変化、日本外交の対応、周辺諸国交・防衛政策の変化・軍事力の変化等を辿り、相互関係を絞り出すことだ。特に中国の台頭、北朝鮮のミサイル・核開発、東南アジア諸国の経済的飛躍等の要因は今後の予測を更に必要とする。

抽象的言葉と賛否論が単に飛び交っている国会の現状は、多くの国民に理解の手掛かりを与えるものはない。国会とは、そんなものだとの印象を覆す議員がひとりでも出てきて欲しいところだ。

      
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