散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

柔道界の「精神的従属による指導」~近代日本の教育の姿~

2013年02月03日 | 現代社会
柔道女子の五輪代表を含むトップ選手15人が、園田監督の暴力行為に対し、JOCに上申書を提出した問題にも驚く。全柔連という組織を飛び越えて上申書を出さざるを得ない状況が組織の体質を表しているからだ。桜宮高校と同じく、直接の指導者との対話はできないと思うほど、精神的にも追い詰められていたのだ。
記者会見で、園田監督は、
「金メダル至上主義がある」「急いで強化が必要と考え、たたくようになった」
「一方的な信頼関係だった」「暴力という認識はなかった」と言い、
全柔連・上村会長は、「彼は双方向の信頼関係を築けなかった」と言った。

この言い訳じみた言葉の中に、閉鎖的な環境の中で、金メダルという成果だけを効率的(短絡的)に追い求め、上下関係が100%支配する人間集団の中での強制力(暴力)を振るったトップ指導者の姿が浮かび上がる。

一言で云えば「精神的従属」による指導だ。

しかし、これは単に柔道界だけの方法論ではなく、明治維新以降の急速な近代化をミッションとした国家的規模での組織的教育体制で政策のなかで、結局、取らざるを得なかった、すなわち、他に知恵は無かった、考え方であった。

ここで付け加えるが、戦後の日本では、米国の指導のもと「精神的解放」があった。しかし、この解放は奇妙だが、必然的に、近世日本でみられた伝統的なカルチャアである寛容と愛護の『子どもの楽園』(「逝き世の面影」渡辺京二著、平凡社(初出1998))と結びつき、厳しさと規律を欠く側面を生み出したように思える。実際、自立・自治の観点で「ひよわな花」(ブレジンスキ-)であることは免れない。

そのなかで、「精神的従属」の世界は、成果第一主義を背景にしたスポーツ分野で生き残り、また、戦前の教育下で育った一般的な指導者(教師)が学校教育の中の部活で維持していった。その後、指導者の再生産とオリンピックを頂点とした現代的成果主義が、更にグローバリゼーションに煽られたことと相まって、園田監督の「金メダル至上主義―急いで強化―たたく」に至ったと考えられる。

従って、「精神的従属」を解放するだけでなく、厳しさと規律も育くみ、オープンな精神で自立・自治に向かう子どもたちを育成する新たな教育の考え方を創造する必要が課題となる。この方法論については別途議論するが、例示として、サッカーでは1980年代以降、欧州諸国を参考に長期的視野のもとに、選手育成システムを整備し、指導している(「クリエーティブサッカー・コーチング」小野剛著、大修館(1988))。その成果が、代表選手だけでなく、若手、更に少年選手の海外進出である。

「精神的従属」を表現するコーチの態度の典型は「失敗を咎めて怒鳴る」ことだ。これは、部活だけでなく、少年(小学生以下)スポーツでも良く見受けられる風景だ。失敗を悪いこと、罪であるとし、罰として精神的に圧力を加える。しかし、少なくともスポーツの世界で、失敗は罪では内ない。従って、誤った認識に基づく行為であるからが体罰(暴力)と密接している。通常はエスカレートしないが、成果主義が昂じ、イライラ感があると、思わず出てくる。

指導者が、選手は従属する立場ではなく、互いの立場にたって、関係を築く必要があると考えれば、第一に信頼感を醸成し、信頼関係を築くことから始めるに違いない。アイデンティティ理論で名高いエリック・エリクソンは乳児が第一に獲得する人間関係は「基本的信頼感」であり、それがその後の発達段階においても人間関係のベースになることを論じた(「幼児期と社会1」みすず書房(1977))。その「信頼感から信頼関係へ」の欠如が「精神的従属」の世界の基本的欠陥である。

園田監督の「一方的な信頼関係」とは言い得て妙である。
「関係」、特に「信頼関係」という言葉には「相互」という意味が含まれているはずだ。考え方が異なる他人と信頼感を互いに確認せずに、組織的地位が決まれば、その関係がすべて決まるとの思いこみがなければ、「一方的な信頼関係」という言葉はでてこない。単に「信頼関係は築けなかった」との発言になるであろう。
全柔連・上村会長の「…双方向の信頼関係…」も同じ穴の狢の発言だ。

更に園田監督は「暴力という認識はなかった」と言い、自らも「暴力ではない体罰」を受けたことを吐露している。体罰を暴力と感じながら、反発できない立場上、やむを得ず甘受したのであれば、自らは体罰をしないように自覚することもできる。

しかし、園田監督は体罰を心理的に100%肯定することによって自分自身を納得させたようだ。これは、桜宮高校で選手を自殺に追いやった顧問を擁護する立場に立った卒業生と同じ発想である。結局、この心理を維持することが、体罰是認の指導者を再生産することに繋がるのだ。
一方、このワナに嵌まらず、自らを精神的に解放し、指導に当たった人たちも多くいると考える。これこそ“自己認識の政治学”が目指す処である。

      
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