散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

定義と目的に潜む「体罰」の問題点~閉鎖的部活空間の中で~

2013年01月26日 | 現代社会
罪がなければ罰はない。従って、桜宮高校バスケット部の顧問が生徒を自殺に追いやった「体罰」はリンチ(私刑)だ。即ち、「体罰」の考え方は容易に赤裸々な暴力に結びつき、更にその理由付けが精神的に被害者を追い詰める、これが筆者の見方だ。

政治理論家ハンナ・アレントは、確か「暴力論(On Violence)」において『暴力は「力」と調和のある結びつきをする限りは、社会の進歩に役立つこともあり得た』と述べていると思う。しかし、これは暴力が人間の属性であり、いつ、如何なる時にでも表面化しうることを認識した上で、暴力行使の難しさを強調する言葉だと筆者は受け取る。

一方、「体罰」とは人を進歩させるための強制力の一つであり、「体罰」は「暴力」と異なるものと区別する見方がある。義家文科政務官、あるいはかつての橋下市長(現在は「体罰」否定論)、更に「体罰の会」とか云う組織のメンバー等だ。また、「体罰」を原則的に否定するが、場合によっては、その効用を認める方もいることは確かだ。

しかし、「体罰」に潜む問題は、将に上記の二点に集約されるのだ。
1)「体罰」は強制力の一つであるが、暴力と異なるものと区別すること
2)「体罰」の目的が被対象者の進歩にあると云う理由付け

先ず、1)について説明しよう。強制力を権力と表現すれば、暴力は権力の極限にある。もう一方の極限は権威だ。権威とは、何も疑うこと無く、唯々諾々と人を承知させることだ。その権威と暴力の間に、強制とは見受けられないように、説得及び利益供与等の行為がなされ、非対象者に対して自発的行為を促す。

そこで、「体罰」の定義を暴力と異なるものとしながら、明らかな「罰」として肉体的負荷を精神的負荷も含めながら行うことは、被対象者にとって暴力的行為になる。例えば、宿題をし忘れて廊下に立たされるなどである。これは恥の意識を植え付ける「罰」なる。度重なれば、「罰」は重くなる。バケツに水を入れ、それを持たせて立たせるなどである。

部活において、ピンタの一発は「体罰」であって、暴力ではない。では、一発で顧問の意図に沿わなければ、二発、三発になっても「体罰」だ、となる。ピンタの連発でダメならぶん殴っても「体罰」だとエスカレートは容易なのだ。逆に言えば、「体罰」は暴力でないと定義することにより、「体罰」は無限の暴力の連鎖に向かうのだ。ひとたび、暴力の連鎖に嵌まれば、思考停止と自己弁護のサイクルからの脱出は困難だ。そこに『手段として権力と暴力性とに関係をもった者は、悪魔の力と契約を結ぶ…』(マックス・ウェーバー)という言葉が当てはまる。
ここに「体罰」と暴力を区別する体罰肯定論者の第1の陥穽がある。

2)に示した「体罰」の目的は暴力のエスカレートを肯定するだけになる。何故なら、自らは被対象者の進歩のために行っているので、「体罰」を与える行為は正しいと考えるからだ。体罰を与えて自らの意図通りに被対象者が進歩しなければ…その「体罰」が問題なのでは無く、被対象者に問題がある。

では、正しいと思っている「体罰」を更に重くしなければならない。それが体罰論の論理的帰結になるのだ。おそらく、それには止まらない。何故なら、被対象者は暴力に従うことを拒否するからだ。「体罰」を与える部活顧問にとって、「体罰」をやめれば、自らを否定することになる。また、被対象者がキャプテンをやめたとしても、部活顧問は敗北なのだ。彼自身も「体罰」の蟻地獄から逃れることはできない。

結局、悪魔の力に押しつぶされたのは被対象者であった。

どのような実績を示そうと、どのような効用があろうとも、暴力という悪魔と簡単に手を結ぶ可能性のある「体罰」は、社会的に存在するには危険過ぎるのだ。その影響は正直にも押しつぶされた生徒だけでなく、「体罰」を受け入れた生徒にも及んでいるはずだ。それは、マスメディアから伝えられる部活顧問を擁護する意見に見てとれる。「体罰」を受けた側も、それを受け入れる理由付けを必要としているのだ。「体罰」は効果があると。しかし、他の指導法を受けていない以上は、閉鎖的環境の中で純粋培養された存在にしかならず、冷静な評価にはならない。

このような罠に嵌まる危険を避ける方法は、ただ一つ、新たに始めることだ!その意味で、橋下市長が入試中止、教員全取っ替えを強硬に主張したことは鋭い感覚と評価できる。調査が進めば、今回の事件が氷山の一角であることが明確になるだろう。

最近、検察における検事の被疑者取調べも、可視化の必要性が云われている。部活は学校の中の半校半私の組織として、検察を上回る二重の閉鎖性がある。それは、明治以降の急速な社会的変動と近代化への対応に急かされて、ある種の生活空間として作られた学校文化でもある。筆者も部活の同僚とは同窓会組織を作って今でも付き合っている。自らの内なる<部活>意識を改めて考え直すことは必要なのかもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。