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[第6回]  名城大学 「スペシャルホームカミングディ」

2018年03月20日 23時45分24秒 | 日記

名城大学から招待状が届きました。昭和45,46年度 ご卒業の皆様へ となっています。
大学を卒業して50年近い歳月が経ちました。卒業した大学がどのように変わったのか一目、見てみたい気が有りました。日頃なら大学祭の時に訪ねれる位です。
この機会に、大学に行って見たいと思い、出席の返信を出しました。


大学から届いた「スペシャルホームカミングディ」の招待状です。


今回が第6回で昭和45年と46年の卒業生が対象でした。第5回が43年と44年。第4回が41年と42年だろうかと思い、聞いてみましたら、その通りでした。と言う事は、第1回は昭和36年以前に卒業した人を対象にしたのでしょう。その年代となると亡くなっている人もいるのでしょう。
今回は昭和45年と46年の卒業生が対象となったのですが、来年は昭和47年と48年。複数年でやっているのですが、いずれは単数年の開催となるのでしよう。30年後に、この大学で会いましょうが合言葉になるかも知れません。
今日の出席数を聞きましたら、出席の返事が147人だったそうです。でも、今日は雨で出席を取り止めた人も居たようです。140人ほどの出席者でした。昭和45年と46年の卒業生となると何千人になるのでしょうが、150人弱では寂しい気がしました。




地下鉄鶴舞線の塩釜口駅の3番出口から地上へ出ました。
前の男性二人、それにこの女性もスペシャルホームカミングディの出席者でした。
一緒に向かおうとしたのですが、向かう方向が逆でした。
大学へ向かわず、反対方向に向かっていました。
私が地下鉄で大学へ来たのは始めてなのです。三人も一緒だったのでしょう。
案内状に1番出口が便利と書いて有りましたが、シッカリ読んでいませんでした。




大学へ向かう道にスペシャルホームカミングディの案内表示が出ています。




道路の桜。
蕾が膨らんでいます。
一輪だけ幹から花が出ています。




大学構内の案内図です。
校舎を表示しています。







こちらが共通講義棟北の建物です。




共通講義棟北の建物に入りました。
案内が有り、地下へと言われました。
エスカレーターで地下へ降ります。





こちらが受付です。
名を告げて名札を貰い、首から下げました。




こちらは懐かしい写真のコーナーです。
見覚えの有る建物が映っています。




会場の入口。
名城食堂です。




会場内に入りました。
広い食堂です。
普段なら、ここで学生が昼食を摂っているのでしょう。





法学部のテーブルです。
同様に学部ごとにテーブルが設置して有ります。
何人もの人が集まっていますが、知っている人の顔は見えませんでした。




「会」が始まります。
司会進行を勤めるのが東海ラジオのパーソナリティ。
青山憲子さんです。
始めに自己紹介がなく、後からミンナに名を聞かれ、後から改めて自己紹介をしていました。





主催者の挨拶で理事長の言葉ありました。
続いて、学長の吉久さんの挨拶です。
そして交友会長の乾杯の音頭でスタートしました。


名城大学の受験生が4万人をオーバーする。それに、受験生が愛知岐阜三重の人が多いと話されました。
学生の就職率は94.9%だとも言われました。
今日は午前中に愛知県体育館で卒業式が有ったと言うことでした。
3人が揃って列席。そして、こちらも3人揃ってとなったのでしょう。





乾杯が有りました。
みなさん、一斉にグラスへ口を持っていきます。




法学部のテーブル。
みなさん。飲み食いに一生懸命です。





左は日本酒とワイン。
ワインは春日井市に有る農学部の農場で収穫したブドウがワインに成ったのだそうです。
日本酒の麴も農学部が関係し、醸造していると言っていました。
それに塩釜口一丁目は名城大学の所在地です。
相生ユニビオと書かれています。そこに作らせたのでしよう。味醂屋さんに関係が有るのでしょうか。




アトラクションとしてチアリーディング部の女子学生が来てくれました。
3人ほどの女子は学生服姿で現れたりしました。
今では、男子の応援団は無くなってしまったのだそうです。





遠方から駆けつけた人の表彰です。
島根県から来たと言う人がいました。




最後はお土産つきでした。





大学の構内。





ベンチが有り、並木も有ります。
丸で公園の一角のような雰囲気です。






大学を後にします。


感想
名城大学に行って来ました。
卒業してから校舎の姿が変わり、アノ頃の面影は残っていません。同じ場所なのですが、全く違う場所に来たみたいな感じがしました。浦島太郎的気分とは、このような心境を言うのだろうと思いました。
校舎内で地下へ降りるのにエスカレーターに乗りました。丸で、大学の中ではないような感じがしました。
このような好い環境で勉強できるのは・・・・今時の学生は恵まれている。
今日の出席者は同様に思ったことでしょう。
私は二部の出身です。
何でも、二部は募集をしなくなったのだそうな。何時頃からなのだろうか。
需要と供給の関係。応募者が少なければ、募集を止めざるを得ない。
苦労してでも勉強しようと言う若者が少なくなったのでしょう。寂しい気がします。

名城大学の構内に入る事が出来ました。
二部が廃止となったのを知りました。男子の応援団が無くなったのだそうでした。
大学の今日的な状況を垣間見た気分がします。15時から学内の見学となっていました。今時の大学内の様子を見てみたいと思っていましたが、この後、ボストン美術館に寄りたかったので、参加を断念しました。
今日の「スペシャルホームカミングディ」。このような場を設けて下さった大学に感謝です。


アノ頃
昭和42年に高校を卒業して、学資を蓄えて昭和43年に入学しました。
通ったのが法学部の二部でした。いわゆる夜間大学です。昼間に仕事をして夜の大学に通う。そんな生活でした。
通学は、地下鉄鶴舞線が出来る前の時代でした。新名古屋から名城大学は遠すぎるので、地下鉄で今池まで行き、そこから市バスで大学に通っていました。
昼は仕事で夜は学業。愛知県庁や名古屋市役所の職員。水道局や郵便局の職員と言う人、国の出先機関に勤務する人も居ました。そのような状況で通学が可能なのが公務員の分野です。色々の公務員の人が数多く居ました。
昼間の学生は同じ年齢の人で固まるのですが、夜間の学生は幅広い世代にわたっていました。10代から20代の若者が多い中、先の大戦に従軍したと言うSさんが居ました。離れた年代でみんなのお父さん的な存在で、若者に混じって勉学を志すという異色な人も居ました。
それに、アノ頃は昭和40年代で学園紛争が盛んな時期でした。大学が荒れていまして,校内にアジ看板が何枚も有りました。ですが、私たち二部の者にとっては、関係ないことでした。自衛官で制服姿で通学していた人も居ました。それがクレームの対象となりました。制服姿が目立ち、私服での通学に変わりしました。
あのような時代を懐かしく思いましたが、あの頃を回想させるものは何も残っていませんでした。

最後に
仕事と勉学の両立。仕事を終えて大学に通いました。自分自身、良く頑張ったなと思います。そして、この大学を卒業した事を誇りに思います。

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