各務原市の広報誌のお知らせ欄に「木曽三川歴史探訪 森部輪中と水害・治水を学ぶ」と言うイベントが開催されると掲載されていました。歴史の勉強になると思い、申し込みをしました。主催者宛に申込メールを送ったら参加OKの返事が有りました。
主催者は木曽三川フォーラムと言う団体で、バスで安八町へ向かい堤防が決壊した現場を見学し、その後は町の中央公民館で講義を聞くものでした。
「木曽三川歴史探訪 森部輪中と水害・治水を学ぶ」のチラシです。
岐阜駅前からバスで安八町へ向かいます。
バスが止まった所が安八町の斎場。
やすらぎ苑と言う所でした。
案内されて長良川右岸堤防決壊現場へ来ました。
安八町大森と言う所です。
前方に見えるのは新幹線の高架です。
あの堤防が切れたのです。
やすらぎ苑に戻ってきました。
苑内に設置して有った治水観音尊像です。
治水観音尊像建立の趣旨です。
こちらは木曽川上流河川事務所の説明板です。
この後、安八町中央公民館へ向かいました。
「1600年頃安八は加藤貞泰の領地だった」
黒野城と加藤貞泰公研究会の川口耕三氏の講義です
陣羽織を着た姿で登場です。
講義のタイトル。
「1600年頃安八は加藤貞泰の領地だった」。
岐阜市には岐阜城と加納城が有りますが、もう1か所黒野城が有るという説明です。
黒野城は岐阜市の北西の位置ですが、お城が有ったとは知りませんでした。
加藤左衛門尉貞泰。
父、加藤光泰は秀吉に仕え抜擢されて甲斐24万石の領主でしたが、朝鮮出兵で病没。山崎の合戦や賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いに参戦するなど波乱に満ちた生涯でした。
その後、嫡男の貞泰は若年と言う事で黒野に4万石で国替えさせられました。
加藤貞泰が堤防を築いたため亀姫(家康の長女)が化粧料として貰った土地が水に浸かるようになり、怒りをかったという説です。
堤を築いたため移封となったという口伝です。
領民のためを思い、築堤したのが亀姫の怒りに触れました。
この後、米子そして、大洲へ移封となりました。
どちらも行った事の有る地です。
ああ、アノ街かと言う思いがします。
「安八輪中」
岐阜女子大学の丸山幸太郎教授の講義です。
安八輪中の歴史を解説されました。
丸山先生の講義の資料です。
まとめです。
「豪雨災害の報告」
元安八町長丹羽正治氏の講義です。
ご自分は来年90歳になるという自己紹介から始まりました。
安八町は東を長良川、西は揖斐川で南を福束輪中で川に囲まれたの地形であるとの解説から始まりました。ご自身、あの昭和51年。町長を務めておられました。当時9月8日から秋雨前線が横たわり、台風17号が襲来して集中豪雨が続いた。そして12日に大森の長良川堤防が決壊したのです。水防団員が対応に当たっていて、町長と言う立場で北の方の現場へ激励に行き、次に東の長良川堤防へ来たらパトロールをしていた水防団の赤い消防車が見え、目の前で消えたのだそうです。それが丁度、堤防が決壊したタイミングでした。
目の前の消防車が消えた。生々しいお話でした。
最後に
黒野に城跡が有り、かつての城主が加藤貞泰だった。そして父親が加藤光泰。朝鮮の役に参加して病没しています。多くの大名が参戦した朝鮮の役。加藤光泰も参戦していました。
黒野城と加藤貞泰。加藤左衛門尉貞泰が築いた堤防で尉殿堤防(ジョウドノテイボウ)と呼ばれています。また、元町長の丹羽さん。お歳は召されてもカクシャクとされていました。良いお話が聞けました。
色々と勉強になりました。
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