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華綾慧春尼その2ー印可の機縁

2006-09-08 23:37:51 | Weblog
9月8日(金)曇り【華綾慧春尼その2ー印可の機縁】

美しい顔を火箸で焼いてまで出家の本懐を遂げた慧春尼は、坐禅弁道に励まれたことであろう。そのことについては短い既述しか残らないが、次のようである。
〈原文〉
師勇猛参禪。果徹法源。親蒙許可。一日菴擧僧問巴陵祖意教意。是同是別。陵云。鶏寒上樹。鴨寒下水。請一轉語。師曰。賢臣不事二君。貞女不見兩夫。菴肯之。自時厥後機辯無礙。無當其鋒者。
〈訓読〉
師、勇猛に参禪す。果法源に徹して、親しく許可を蒙る。一日、菴、僧、巴陵に祖意教意を問うを擧す。是れ同是れ別。陵云く、鶏は上樹に寒く、鴨は下水に寒し、と。請う一轉語。師、曰く、賢臣は二君に事えず、貞女は兩夫に見えず、と。菴之を肯う。時自(よ)り厥(そ)の後、機辯無礙なり。其の鋒に當れる者無し。
    
慧春尼は勇猛に参禅し、法源(真如に同じ)に徹し(悟りを得)、了菴禅師に嗣法も許されたのである。了菴禅師は慧春尼に、巴陵鑑禅師(はりょうこうかん五代、宗初の人。雲門文偃の法嗣。弁舌に勝れていたと言われる)にある僧が質問したことについて尋ねた。「祖意と教意は同じか別か」という問いに対して巴陵は「鶏は上樹に寒く、鴨は下水に寒し」と答えているのだが、さらに一転語を言ってみなさい、と言われたのである。(一転語というのは一語でもって相手になるほどと悟らせるような語のことである。)それに対して慧春尼は「賢臣は二君に事えず、貞女は兩夫に見えず」と答えて、了菴禅師はこれをよしとしたという。これより慧春尼のすぐれた弁舌は一切の礙げが無く、その弁舌の先に当たることのできる者はなかった。

とこのような訳になるであろうが、慧春尼の答えはいかにも陳腐のように思う。巴陵禅師の「鶏は上樹に寒く、鴨は下水に寒し」は、大自然のそれぞれの姿に人間の計らいの入りようの無い絶対の世界の消息を言っている。それに比して慧春尼の「賢臣は二君に事(つか)えず、貞女は兩夫に見(まみ)えず」とは、あまりに封建的世俗に処した一転語であり、慧春尼にしては拙すぎるように見受けられる。賢臣についても貞女について、たしかにそれぞれの有り様を言ってはいるが、人間のはからいでどうにでもなる現象を言っているに過ぎない。

この史伝が編まれたのは慧春尼遷化後三百年以上も経ってからなので、真偽の程は知れない。とにかくも、このような伝承だけでも史伝に記されている事自体は貴重なことなのである。例えば私の例では僭越であるが、卑近な例として、三百年後一切の伝承は遺されないであろう。陳腐と思われる一転語であるが、慧春尼様の一転語として、これを受け取っておくしかない。

語録の研究などを少しでも手がけてみると、現在ほどの活字社会ではなかった時代に、後の世にまで残っている語録の価値を改めて思う。その文字に込められた禅者の奥底のメッセージをどれほどに正確に受けとめられるか、試されている日々である。慧春尼様の一転語が陳腐であると感じるのはやむを得ないだろう。残念ながら史伝に書かれていることを鵜呑みにはできないのである。

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6 コメント

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初めまして (しるぼ)
2006-09-09 10:01:45
風月さん、初めまして

コメントありがとうございました

この記事とは関係ないコメントで申し訳ないのですが、東京にお住みなのですね

また、よろしかったら覘きに来て下さいね(*^-^*)
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しるぼさんへ (風月)
2006-09-09 18:25:54
コメント有り難うございます。私のお気に入りにしるぼさんのブログが入っていますので、時々お伺いしています。



またそちらにもお伺いします。



いろいろと教えて貰っています。これがブログの面白さですね。自分の意見に固まらないように、人のブログも読ませてもらっていろんな角度から考えるということが自分自身の勉強になります。
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初めまして (こまいぬ)
2009-11-30 15:20:27
はじめまして。

慧春尼の事績について調べていて、こちらに辿り着きました。原典を引いての懇切丁寧な解説で有難く思います。

さて、慧春尼の答えが陳腐だということですが、本当にそうなのでしょうか。

例えば、もし「鶏寒上樹。鴨寒下水」を単に言い換えた言葉として「賢臣不事二君。貞女不見兩夫」と答えたのではなく、「鶏寒上樹。鴨寒下水」と「賢臣不事二君。貞女不見兩夫」の関係が「祖意と教意は同じか別か」ということの答えになっているとしたら。

もちろん、私のような参禅もしたことのない在家の者に推し量ることなどできないでしょうが、わざわざ典型的な儒教の徳目を持ってきているというところに一筋縄ではいかない意図を感じます。

「機辯無礙なり。其の鋒に當れる者無し」と評価されたほどの慧春尼ならそれぐらいのことはやってのけそうな気がしますし、また、それぐらいでなければ了菴禅師がよしとしたとも思えません。

いかがでしょうか。
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こまいぬさんへ (風月)
2009-12-01 22:34:44
コメントとご意見、有り難うございます。

祖意と教意について、ととらえることもできるかもしれません。祖意は祖師西来の意、教意は仏が衆生のために説いた教え、と辞典にありますが、鶏と鴨はそれぞれに合わせて自然の行動をとるが、祖意も教意もどちらが上ということではない、という意味かと私はとらえていました。

慧春尼様のお答えの賢臣と貞女の答えは祖意と教意が同じというのはおかしい、両夫にまみえないように、祖意こそ特段の教えであると、ということだろうかと私は解釈してみました。こまいぬさんのご質問の御陰で改めまして、考えてみました。
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ありがとうございました (こまいぬ)
2009-12-02 06:28:36
お答えありがとうございます。

風月さんのお答え、なるほどと思いました。

ただ、私の書き方が悪かったのか、私の解釈が伝わっていなかったように思いますので、再度書かせていただきます。

私の解釈は、これまでの風月さんのとらえ方と同じです。ただ、「鶏寒上樹。鴨寒下水」というのは、絶対的な真理の境地を表しているにしても、われわれ一般社会で生活しているものにとっては何か遠い感じがします。

それに対して、「賢臣不事二君。貞女不見兩夫」というのは、今の時代に合うか合わないかは別にして(ですから、現代なら現代という時代に合わせた徳目でよいと思いますが)、実際生活上で具体的な指針となるものです。

言い換えれば、僧侶として修行に励む立場においては「鶏寒上樹。鴨寒下水」、これを祖意と見ます。俗世で生活を営む立場においては「賢臣不事二君。貞女不見兩夫」、これを教意と見ます。

つまり一見高尚に見える僧侶の境地と、低俗に見える(低俗に見ていらっしゃるようですが)俗世の道徳が、大自然の中における「鶏寒上樹。鴨寒下水」と同じ関係にある。

風月さんは「人間のはからいでどうにでもなる現象」とおっしゃっていますが、それが俗世の人間にとっては絶対的な重みを持つわけです。そこでみんな必死に生きているわけで、私から見れば、風月さんは鶏、俗世であがきながらもよりよく生きようとしている私たちはかもに当たるわけです。

そういう人間社会の現実を踏まえた答えではないか。三十過ぎまで俗世にいた慧春尼は、時代背景を考えても「人間のはからいでどうにでもなる」とはいえない俗世の現実に生きる人間の哀歓をよくよく知っていたに違いありません。

あるいは、私などからすれば、ある意味で現実に足の着いていない高尚な議論を貴しとする出家者に対する引っかけも含まれているのではなかろうかと。また、了庵禅師はそこを見抜いて、一見陳腐な答えをよしとしたのではないかと想像したりもします。

意地悪な見方のようでもありますが、慧春尼の逸話に見る一見柔らかいようで非常に峻厳かつ苛烈な生き様に合致しているように思います。

長文失礼しました。
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こまいぬさんへ (風月)
2009-12-02 10:29:59
ご意見ありがとうございました。禅問答の解釈はいろんな角度から解釈してよいのではないかと思っています。これが絶対に正しい、という解釈はないとさえ言えると思うのです。

なるほど、こまいぬさんの解釈もありでしょう、と読ませて頂きました。
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