風月庵だより

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お地蔵さまの話

2007-07-28 23:45:06 | Weblog
7月28日(土)晴れ、暑し【お地蔵様の話】(野々菫著『あなたに花束を』ー新風舎刊ーより、掲載許可済)

線路に地蔵を放置、列車がはねる 大分のJR久大線(朝日新聞) - goo ニュース


久しぶりにログを書きます。この十日の間、周りにもいろいろのことがありました。その中でも、地震のことは、最も気にかかることです。駒澤の友人のお寺も、被害を受けたそうです。柏崎のお寺なのです。

お寺の周りの家々も、かなりの被害を受けてしまっていますので、復興の困難が思いやられます。祈るばかりです。

チェルノブイリの二の舞にならなかったことだけは、よかったと、誰もが安堵したことでしょう。しかし、このことは実に危うい状況にあるようです。直下型地震が起きれば、原発の大事故につながります。次々に露呈される被害状況から、放射能漏れは容易におきることを、認識せざるを得ませんでした。

さて、今日は、お地蔵様について、書いてみたいと思います。線路内に石のお地蔵様を、誰が、どんなつもりで置いたのでしょう。線路の脇で、いつも列車の行き交いの安全を、ただ見ていてくれたお地蔵様でしたろうに。もしかしたら、かつて事故があって、その慰霊に建てられたお地蔵様かもしれません。

こんな心無い事をした人は、日本昔話の「笠地蔵様」のお話を、子供の頃に聞いていないのではないかしら。

貧しいおじいさんとおばあさんと、六地蔵様のお話。お正月の食料を買いたいために、おじいさんは、雪の中を編み笠を売りに出かけました。でも一つも売れなくて、おじいさんは、トボトボと帰ってきました。

行きの道で、何かお地蔵様にもおみやげを、買って参りましょう、と手を合わせたのですが、おじいさんは、お地蔵様にも、なにも買って来られませんでした。そこで、雪をかぶって寒そうな六地蔵様に、おじいさんは、編み笠をおかぶせしました。一つ足りなかったので、自分がかぶっていた笠も、差しあげました。「お地蔵様、これで許してくださいな」

おじいさんは家で待っていた、おばあさんに、何も食べ物が買えなかったことを謝りました。でもおばあさんは、かえっておじいさんがお地蔵様に、笠を差しあげられたことを、喜んでくれました。二人はお腹は空いていましたが、温かい気持ちで、寝床につきました。

その夜のことです。「えっさ、えっさ、えっさ」かけ声がして、昼間のお地蔵様が、米俵やら、お餅やら、お金やら、一杯担いで、やってきました。翌朝、おじいさんとおばあさんは、家の前に、山のように積まれた、贈り物にびっくりしたり、喜んだりしましたとさ。

こんなお話、子供の頃に、絵本を読んで貰っていたら、お地蔵様を列車に轢き砕かせるようなこと、しなかったのではないかしら。

お地蔵様には『地蔵菩薩本願経』という経典があります。これは唐代に実叉難陀じっしゃなんだという人が訳したとされています。(実際には、中国における後世の成立であろう、と考えられています)

今、私の手元にはこの経典はありませんが、『延命地蔵菩薩経えんみょうじぞうぼさつきょう』があります。こちらは同じく唐代の、不空三蔵(705~774)の翻訳とされています。(おそらく、こちらも、後世の成立でしょう)

『延命地蔵菩薩経』には、お地蔵様の諸々の功徳が説かれています。

し三途さんずに在て、此菩薩に於いて体を見、名を聞かば、人天に生じ、或いは浄土に生ぜん。

三途(地獄、餓鬼、畜生)の苦しみにあるときも、お地蔵様の姿を見、またはそのお名前を聞いただけでも、救われて、人間界や浄土に生まれかわることができる。

お地蔵様は、冥界をお守り下さる仏様なのです。日本では道ばたや、お寺の入り口にある六地蔵様として親しまれていますが、韓国のお寺をお参りしますと、冥府を守る仏様として、お位牌堂などのご本尊様として、お祀りされています。

お地蔵様はいろいろな福を、得させてくださるとも書かれています。

安産やら、あらゆる病を治してくださったり、長生きやら、智慧を授けてくださったり、豊作をもたらせてくださったり、天地の神々の加護を頂けたり、まことの悟りの智慧を得させていただける、等々です。

一時代前までは、日本では、あちこちの道の辻に、お地蔵様が祀られていました。その前では、人々がそれぞれのお願いをして、手を合わせていた姿がありました。それこそ、このお経にあるように、どんな願いでも、叶えてくださると、信じられていたのです。(叶えられなくても、誰もお地蔵様に腹を立てた人はいなかったでしょう)

そして、次のようにも、地蔵菩薩は世尊(お釈迦様のこと)に言われています。

世尊、慮おもんばかりたまわざれ。我当まさに 六道の衆生を抜濟ばっさいすべし。若もし重苦あらば、我代わって苦を受けむ。若しからずんば正覚しょうがくを取らず。

迷いの世界に沈んでいる、一切の生きとし生けるものを救わなければ、自身は悟りに安住しない。、非常な苦しみにある者の、苦しみを代わりに受けよう、そうでなければ、自身は悟りに安住しない。ということを、釈尊に誓っているのです。

釈尊は、お地蔵様の、その誓いをよしとなさり、ご自分が滅度なされた後の、末法の世をお守りくださる仏様としてお認めになったことが、このお経には記されています。

このようなことを、なにも知らなくても、道の端に祀られた、石のお地蔵様に人々は手を合わせてきました。子供たちは、摘んできた花を、お供えしてきたのです。こんな素朴な風景も、この頃では、あまり見かけられなくなってしまったようです。

そうして果ては、そのお地蔵様を線路に置き去りにするとは、寂しいことです。そのような行為をした人は、真にお気の毒です。どうしたのでしょう。大丈夫でしょうか。

子供の頃に、テレビゲームばかりで育ってしまったのではないでしょうか。日本の昔話やら、花を摘んで、お地蔵様にお供えするような、遊びを忘れてしまわないでほしいと願います。素朴に生きる人間の楽しみを、次代を担う子供たちに、忘れないように伝えていきたいものです。

この記事を目にしまして、感じたことを書きました。

*先頃お亡くなりになられた太田久紀先生に、『お地蔵様のはなし』(中山書房仏書林刊)という本があります。書棚を探したのですが、見つけだせないので、残念ですが、またいつかご紹介させていただきます。先生に対して、追悼の意味でも、このログを書かせていただきました。

付記:先日(9月3日)四国の徳島に行きました。四国大学の図書館で、お遍路の札所の境内地図を見ました。そこには地蔵堂が多くのお寺にありました。真言宗のお寺では地蔵堂を大事にしているようです。やはり不空三蔵が『仏説地蔵菩薩本願経』を訳した、と伝承されているからでしょうか。