mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ただただ歩くのが愉しい山

2015-01-19 16:47:59 | 日記

 今年4月から半期分の山の会の月例登山の計画を立てている。昨年は前期に2回、泊りの山行を実施した。やはり夏山だ。今年はどうしようかと考えていたら、11月の山行から加わった女性が「幌尻岳に行きたい」という。私も行ったことはない。一昨年計画していたのだが、相棒の娘さんに子どもができることになり、爺さんとしては面倒をみなきゃというので、中止になっていた。でも、女性と連れではちょっと気まずい。そこで、やはり昨年リタイアして山がだんだん面白くなってきている若手のKさんに声をかけると、一も二もなくOKが出た。これで、行ける。

 

 さっそく立案する。幌尻岳に行けば、ついでに十勝岳くらいには寄っておきたい。こうして、予備日を入れて、6日間の登山計画が出来上がった。それを山の会の8月のプランにする。そりゃ無理だよという声が上がるのは分かるが、それ以外に月例登山を組むのは、だいぶ難しい。そう考えて、希望者はどなたでもご案内することにして、盛り込むことにした。

 

 そうしてさらに、お詫びのように、7月の月例登山を2泊3日として「北岳」に案内する。何しろどなたも60歳以上の年寄り。主力は70歳を超えているから、6時間半の歩行時間を限度とした。そういうわけで、若いころには1泊2日で通過したところに1日余計に掛ける。そのぶんだけ、ゆっくり花を楽しむこともできようと考えている。

 

 リタイア後に山案内をはじめてから、もう10年以上になる。同じ山に案内しないことを旨としてきた。私自身は、下見とかエスケープルートの確認として、同じ山に何度か足を運ぶこともしている。季節を変えて行ってみると、味わいががらりと変わることもある。同じ山でも一向に飽きが来るような気がしない。いやむしろ、同じ山を歩いて自分の山のようにしている人の気持ちがよく分かるように思う。愛着というのではなく、ただただ山を歩いているのが、愉しくて仕方がない。そんな気分なのだ。

 

 (山歩きは)健康にいいとか歩くのは長寿の秘訣だとか、いろいろ効用を説く人もいるが、そういう気持ちをもったことはほとんどない。もちろんそういう効用につながっていることも否定はしないが、それを意図して登りはじめたら、たぶん、早晩いやになるような気がする。つまり自分の「健康」に執着しているような気分が、いやなのだ。まして「長寿」のためなどというのは考えたこともない。もうそこそこ十分生きてきたと思っていることもある。なぜかはわからないが、生物的な自然に反する生き方が嫌いなのかもしれない。

 

 そういう気分の延長でいえば、どこかで誰かが言っていたが、何かの価値がある/ないと考えるよりも、何かで価値だと考えよ、という気分である。「山歩き」にどのような価値があるかと考えるのは、山歩きを「何か」の手段とか道具と考えている考えかたである。そうではなく、「山歩きで価値なのだ」と考えると、それが何に資するとか無用であるということは埒外になる。「山歩き」自体で、ではどういう価値なのかと考えると、有用性とか有効性などはどっちでもよく、茫漠とした何か不可思議というか、つかみどころのない「何か」があるような気がする。その問いの前にいま自分が立っているような気がする。

 

 禅問答のように思うかもしれないが、ひょっとすると、眼前の世界のことを丸ごとつかみ取ろうとするのは、こんな気分かもしれない。つまり私たちは、自分が立てた問いに応えているつもりで、じつは、ほんの目前の分かることしか観ていないのかもしれない。見えないものを感じとってそれをそのままに「保留」しておくことこそが、知的に求められていることなのか。そんな気がする。

 

 おっと、自分の思念の中に入り込んでしまうところであった。そんなこんなを考えながら、山の計画は出来上がった。とりあえず半年刻みであるが、まだ歩けることを寿ぎながら、はてどこまでそれがもつか、その間にどことどこへ行けるか、そろそろ算段しはじめているところである。