mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「心より心に伝ふる花」

2015-01-06 10:33:23 | 日記

 正月を共に過ごした小さい孫たちの身の動きは、子細に見ていると、私たち大人がすっかり習慣づけて無意識世界に送り込んでいるコトゴトを、あらためて取り出して開示して見せるような気配がある。

 

 つなぎの防寒服のボタンを合わせる覚束なさ。すんなり運ばないその作業に夢中になっている姿。雪に転んで空を見上げている兄をみて自分も寝転んで真似をする。かと思うと大雪の積もった斜面を兄よりも上へ登ろうとあがいてあがいて登れないでいる妹孫。おなじことをしているように見えて、少しずらしてもう一つ上回ろうとしているように見えて、可笑しい。

 

  あるいはまた、従兄姉との別れをどう表現していいかわからずにぐずりじれる6歳孫のジタバタも、でも別れてしまうとけろりと忘れている様子も、ちょうど自他の端境が感じられ始めている境界領域に差し掛かっているように思えて、(大人の目には)あらためて(自分の育まれてきた形跡が)開示されているように見えたのであった。

 

 自他の端境がないとは、我が身とわが心とが分節化されていない状態と、振り返って大人は規定する。心身が一体化していると言うが、それは、(観念として)分節化しているから「一体化」と評することができる。その状態を「身」としてとらえてきたのが日本の文化だというのが、安田登『日本人の身体』(ちくま新書、2014年)である。「からだ」は亡骸を指す、と。「ふるさと」を提示されているような面白さがある。

 

 安田登は能楽師。「公認ロルファー/ロルフィングの専門家」でもあると著者紹介欄にある。ロルファーってなんだ? Wikipediaで調べてみると、「バランスのとれた身体」をつくるためのボディワーク。創始者アイダ・ロルフにちなんで「ロルフィング」と名づけられ、ロルフ・インスティチュートが公認資格を発行しているそうだ。ロルフィングの「ベース・コース」の10段階のメニューをみると、身体を骨、軟骨、靭帯、腱、筋膜などの結合ネットワークと見て取り、その構造的な動きのモデルを「バランスのとれた身体」として、生活習慣的な傾きを矯正しようとするボディワークであるようだ。その第一段階で「呼吸法」を取り入れていることなどをみると、ヨガや太極拳などと似た系列に位置するとみてよいであろう。

 

 その安田が日本人の身体観を「大雑把であり曖昧であり、細かいことは気にしなかったはず」という。西洋の近代医学からくる分節化と、治療としてはすっかり分業化してしまった「身体観」からすると、まるで「ふるさと」に戻ったような規定の仕方である。それが、「(大人の目には)あらためて(自分の育まれてきた形跡が)開示されているように見えた」のと同じように感じられた。

 

 能楽師・安田が日本の古典に通じているのは当然としても、ギリシャ語にも通暁しているらしく、イエス・キリストの「スプランクニゾマイ:憐れみを感じる」の「憐れみ」を、本居宣長の「あはれ」と対比しつつ、現代語「憐れみ」のもつ高みからの視線の語感ではなく、「身体」の根幹における「共感性/同期性」を探り当てる。「マタイ伝」に登場するイエスが行う(プラクティカルな治療者としての)「奇跡」を、《治癒するものと治癒されるものとの間にまず必要なのは、深いところでの互いの同期、すなわち「内臓(はらわた)の同期」なのです》とみる。

 

 心身を一体化してみてとる「身」という日本人の身体観は、「内臓(はらわた)の同期」を意味しており、それが溢れ出して「ため息」となって「あはれ」と表現されるようになったと、たどってくる。それはスサノオやヤマトタケルの「溢れ出す身体」から観世音の「あはれ/慈悲」までをつないで、「欠落の人」という実存と「ため息」とを媒介として「あはれ」として受け継がれてきたと展開する。これも面白い。

 

 《「あはれ」とは、苦しみや悲しみと、感情を限定しないため息でした。言語化できない心の動きでした。もし何かの言葉にしたり、声にしたりして伝えようとした瞬間に違うものになってしまいます。/発信者の感動をそのまま伝えるには、世阿弥のいう「せぬ隙」、すなわち極度に微分された歌である「歌わない歌」、「無音の歌」でしかないかもしれません。》

 

 と述べて、世阿弥の「心より心に伝ふる花」と示し、「心」は「こころ」と読まず「シン」と読むと解説する。「シン」は「芯」に通じる。つまり心情の根底にある「なにものか」、それこそが「あはれ」だという。実存ばかりではない存在の根底に足がついたような指摘だと思った。

 

 こうしてみると、古事記の世界から現代の私たちまでが、累々と堆積して眼前に(ということは我が身に)在ることに気づく。ほぐしてみると、悶々たる西欧への劣等(意識)感が、燈台下暗しであったと見える。もう一度我が「身」を掘り返してみたくなった。