mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

都市計画って行われているのだろうか

2015-01-12 14:57:00 | 日記

 風が強く冷たい。青空が広がる。関東地方特有の冬の気候である。散歩に出る。

 

 大宮から浦和にかけて南北に台地が伸びてきている。ちょうど指を広げた掌のように台地の先端はササラ状になっている。むかしはその指の間のところまで東京湾の海水が迫ってきていたそうだ。だから台地の末端部、指のあたりのを掘り返すと貝塚が出現する。我が家のある辺りは、つい何年か前まで字を井沼方と称していた。つまり、指の間、旧東京湾の浜辺である。すぐ脇から台地が起ちあがり、その高いところばかりをたどると、北上して大宮方面へ至る。今日は、その台地の上を歩いて北へ向かった。

 

 さいたま市緑区の区役所は低地、旧浜辺にあり、そこから立ち上がる台地の上にイーストプラザという図書館やホールを備えた公共施設が位置する。その高台地の脇を抜けて少し北へ踏み込むと吉祥寺というお寺がある。神仏習合の習わしが残っていて、お寺の敷地の中に、お稲荷さんもある。山門までの50mほどには大きな欅、楠、杉などの大木が林立し、その間に六地蔵もひっそりと佇んでいる。越えてきた浦和越谷線と名づけられた幹線道路の音も、ほとんど聞こえない。山門のところに、シベリアンハスキーを連れたお年寄りが一人腰掛けて休んでいて、静かに会釈を交わす。

 

 境内に踏み込むと左側、蹲の間に梵鐘がある。除夜の鐘はここからも響いていたのであろう。いまはお寺の静謐を象徴するように、沈黙して釣り下がる。正面に位置する本堂への石段と経堂を取りかこむ回廊は、ところどころの丸い木柱に支えられて大きく間口を広げ、入口を閉ざして静まり返っている。その本堂の広がりを圧するように、数倍の高さの屋根が急な傾斜を保って空へと突き上げる。その両脇の空間を区画するように、欅と杉が葉の落ちた枝を天に広げて、同じように天を求めているように見える。

 

 裏側から一人お年寄りが顔を出す。軽く会釈をする。「水をつかえるようにしてくださって、ありがとうございました」と、古老が私に声をかける。どうも私を、檀家の一人と思い込んだらしい。裏側に入ったことはなかったが、お墓があることはみてとれる。その蛇口と桶とを備えた白木の流し台のような施設も見える。なるほど新しい。「はあ……」と不得要領な私をおいて、「枯葉が落ちるっていうんで、その奥にあった杉の木を伐ったんですよ」と古老は続ける。「墓に落ち葉がたまってみすぼらしくなっちゃうっていうんで、ね。でも、檀家で相談してからって言ってたんじゃ時間ばっかりかかるから、40万円ばかしだもんで、私が出して和尚さんに言って伐ってもらったんですよ。三交代の仕事もしていたから、ちっとばかし余計な蓄えもあったんでね。」と退屈しのぎの話し相手にされているらしい。

 

 その話に促されるように、お寺の裏側に回る。すると、お墓を東側に南北において西側に、それよりも広い小学校の運動場くらいあろうかというところに、杉の木や楠木、欅の木や広葉樹の潅木がうっそうと茂っている。踏み込んだ後もついているから、脚を入れる。と、お寺の敷地と区切るようにコンクリートの塀が設えられている。それとは別に、道路と区切りをつけるためのフェンスが、この樹林とお墓部分を取りかこんで、一回りつくられている。その周りに道路があり、その道路の先は、ふつうの住宅街になっている。へえ、こんなところがあったんだと、あらためて感心する。ゆっくり経めぐり、けっきょくお寺の山門しか出口がなくて、そちらから出ることになったが、面白い隠しどころを発見したような気分であった。

 

 外の道路に出て、一回りして、樹林の裏側に出る。住宅の間に「生産緑地」と土地区画を示す表示柱があり、花木の栽培をしている農家が大きく広がる。こうした土地所有者が亡くなると相続のためもあって、住宅地に変更して売り払う。それが繰り返されて、かくのごとく虫食い状に新興住宅地が広がり、「生産緑地」が肩身狭く置かれるように案っているのであろう。その中にあって、竹林や樹林として持ちこたえるというのは、(たぶん)大変なことなのだろうと思う。でも、それがあるだけで、こんなにもゆっくりとした散策を楽しめる。大きな絵柄でデザインする都市計画というのは、果たして行われているのだろうかと、疑念がよぎる。

 

 背の高い樹木に囲われフェンスを張り巡らした敷地の一角に「自由にお入りください」と小さな看板が掛けてある。石段を3段登って踏み込むと、中央の観世音菩薩の石像がおかれ、50m四方くらいの石柱を張り巡らして囲われた敷地の角と辺の中央に七福神が祀ってある。といって、お寺さんでもない。正面から出ることになってよくよく見たが、「お休み処」と書いてあるだけで、公園とも公共用地とも思える徴がない。ベンチは置かれている。どこかの篤志家がこのような施設をつくって皆さんに提供しているのだろうか。

 

 主要な幹線道路は頭に入っているし、お日様があるから、今自分がどちらの方角に向かっているかは、おおよそ見当がつく。でも、地域については知らないところって多いんだなあと思いながら歩いた。1時間半歩いて生協により、帰りに図書館へ寄って予約本を6冊借りて、帰宅。正午。約2時間余、14000歩ほどの気持ちのいい散歩であった。