mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

括目せよ現代日本の思想文化状況論

2015-01-09 09:22:44 | 日記

  養老孟司『死の壁』(新潮新書、2004年)を読む。なぜこれを図書館に予約したのか忘れてしまったが、養老孟司は私が気に留めている読書人の一人。ドグマをもたず、いつも違和感や疑念を大事にし、その感触の違いの根源へ迫ろうとする。突き当りにはたいてい、自分の育んできた体験や実感を通過した言葉が浮き彫りになる。つまり、変わる自分をどこかで見ているような視線が好ましく思われてきたのである。そういう人の本だから、何かでタイトルをみて予約したのかもしれない。予想にたがわず面白い。10年も前の本だというのは、読み終わってから気づいた。でも中身は古くない。

 

 全体を通じる「思想」は、生物体としての人と共同体的存在の人間とを区別して、生物体としての人の視点を原点に据えて人間としての己をみよ、と言っていることになるか。基本的に人は変化する。そこからみると、世間へのしがらみに翻弄されて不安に駆られている自分が可笑しいと見て取れる。変わって当然だし、自分の関与できない環境の与件はしかたがないとみることで、覚悟も決まる、というわけだ。いかにも、唯脳論者・養老孟司の至言である。

 

 目を引いたのは「第8章 安楽死とエリート」の記述。「死」を医師の目で見ている。「安楽死」を論題とする時、その多くは「死ぬ人」の側からみている。だが、養老は「死なせる人」としての医師にとってどう見えるかを考えると、「殺す」に等しいと。そうして実は、エリートは社会的な日常においてもつねに「殺している」と敷衍する。エリートというのは、デスクワークも含めて、何がしかの事業をプランニングし、推進する指揮をとる立場にいる人々のことである。大規模な工事にせよ、社会的な設計にせよ、政治上の外交や戦争や陰謀に携わる人々はもちろんのこと、「犠牲」を避けて通れない。それを、たとえば近年までは、間引きにせよ姥捨て山にせよ、エリートと呼ぶかどうかは別として、産婆さんが、あるいは庄屋を介在させて、引き受けるようにしてやってきていた。そのことを、引き受けさせている側の人々も承知していて、それゆえに生まれた「儀礼」もあると示している。

 

 つまり、近年まで人々は「死とともに暮らす」自然を身近に持っていた。そこでは「死と生との端境」も茫洋として(場合によって)異なるのを当たり前としてきた。世間がより自然に近い経験則と共同体の規範とを有していたと言える。ところが近代は「死」を法で規定する。死を判定する人を定めている。そうすることによって私たちの日常から「死」を遠ざけ、あたかも「死という真実」が法で規定されているかのように思いなすことで、私たちの経験則から「死を排除」している。その結果、さらに悪いことに、イメージで「死」をとらえるために、死を怖いものとみなすようになった。脳化社会のもたらしたものだと養老孟司は指摘する。

 「安楽死」に関する議論も、「死ぬ/殺される側」からの論議はなされるが「死なせる/殺

す側」からの論議はタブーのようにして忌避されているのではないかと、問題提起する。その根底には「エリートの消失/絶対的平等の一般化」という社会的事象がみてとれ、それが日本の文化の現代の病根だと抉りだしている。

 

 この、養老孟司の剔抉した問題は、「死」をめぐる論議ばかりでなく「教育」や「高齢者」や「社会保障」など、あらゆる問題に通底する日本の思想文化状況を取り出していると言える。私たちの自然観から掘り起こし、身体観をくぐらせて俎上にあげる文化状況論は、括目して読み取るに値する。