mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「自分軸」と「自由」

2023-09-21 08:33:39 | 日記
 Note事務局というサイトから定期的にメールが送られてくる。これがどこの運営で、いつ私が申し込んだのかは、すっかり忘れている。暇に任せて、ときどき目を通す。面白いエッセイがあった。
 さおり・ライターと署名のある「自分軸を取り戻すには一人旅が効果的だった話」
 まだ歩けないくらいの幼い子ども二人を夫に預けて「フリーライターのオフ会」に1泊2日で行ったときのことをひょうひょうと記している。まさしく随想の筆。
 主婦ってそうだなあと、こちらは主婦でもないし、もう八十路の老爺なのに、八十路に入った連れ合いの心持ちを思い起こして共感した。若いころ子育てを当然のように連れ合いに任せて、こちらは好き勝手をやってたなあ。すまんってワケ。
 さおり・ライターは、ふだん、子どもや夫や他の方々の心持ちを忖度しながら、その悦びを自分の悦びにして過ごしてきたことを、旅の新幹線車内や降りた梅田駅の雑踏や会場の「オフ友」の立ち居振る舞いを観ていて実感する。そこに「自分軸」が芽生えていることに気づく。
 これは、「自ずからによる」意味での「自由」だ。自分で判断する、決定する、そうしなくては何も進まない。そのとき自分は何を規準に、あるいは何を根拠にそれを選び、そうしているのかを考える。それを「自分軸」とさおり・ライターさんは呼ぶ。
 わが身に自問自答するようなことだが、その判断や決め方の運びに「自ずからなる心象」が働いている。私は常々それを「自然(じねん)」と呼んできた。「自律」であり、「自由」である。しかしそれは、子どもや夫や他の人たちの悦びをわが悦びとすることを排除しているわけではない。他の人たちの応答がわが振る舞いの価値評価に思えるというのは、ごくごく自然な心象の流れの然らしむるところ。それを意識に浮かび上がらせて言の葉にとどめることが「自然(じねん)」である。
 自分軸の発見は、遵って、ワタシって何という自問に対する回答と謂う手順を経て浮かび上がっている。それは、「ひとり旅」という単独の身になって初めて、日頃の関係に追われ、関係にどっぷりを身を浸して過ごすほかない日々の身の裡の移ろいが、他者との関係で動いていたことを意識させることになった。そうなんだ。ヒトというのは、そうやって、違った場に身を置くことによって日頃わが身の無意識に行っていることが、意識の表面に浮かび上がる。そうすることによってワタシを再確認し、関係を再生することへと踏み出す。そういう関係の流れを「自由」と呼ぶのだと、さおり・ライターの随想を呼んだワタシは、私の「自分軸」をもう一歩先へ推し進めた。
 だが私は、もう若くない。さおり・ライターさんのように、子育てばかりでなく社会の現役として人との関係の渦中に身を置いて、必死に泳いでいるわけではない。もうそれを終えて、人生の終盤戦に入域していることも、十分思い知らされている。旅行社も、「ひとり旅」では受け容れてくれないところが出て来た。健康懸念がつねに伴う。つまり「関係」から脱落していっている。
 では、先ほどのワタシの「自分軸/気づき」とは、一体何なのか。すでに出来上がっているワタシの身に堆積している無意識を、一つひとつ引っぺがして、ああこれが「自由」なんだとか、ああ、これを「自然(じねん)」と呼んだのだと、再定義、確認することだ。さおり・ライターの軽やかな「自分軸」とはちょっと趣の異なった「再発見」というわけです。