mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

外部とワタシの送受信

2023-09-05 10:55:54 | 日記
 先日(2023-08-31)の記事《ああ、これぞ「中動態の世界」の起点》に書き記したことが中途半端だった。その感触が身の裡に残り、夜中に目を覚まして自問自答になって甦る。上記記事は、哲学者・トマス・ネーゲルの「意識」の定義を吟味する渡邊正峰の《「意識」とは一体何なのか?》という問いかけであった。
《哲学者トマス・ネーゲルによる意識の定義“Something that it is like to be”》を「何かになったとして、そのときに何らかの感覚がわいたならば、それこそが意識である」と渡邊正峰は意訳する。
 だが「何かになったとして」という意志的な初発の行為について、渡邊は言及しないまま、「わたしの脳になったなら、間違いなく様々な感覚がわくことになる」とまえおきして、その後の「意識」の探索に乗り出している。
《(わたしの脳になったなら)……情報処理を行っている最中の脳にわく、処理ごとの「それになる感覚」である。視覚情報処理をおこなっているときにわく「見える」、聴覚情報処理をおこなっているときにわく「聴こえる」といった感覚》
 を、「意識」としてとりだしている。それを私は「これぞ中動態ではないか」と我田引水した。トマス・ネーゲルはコウモリの特殊な知覚(口で超音波を発しながら、その跳ね返りを両の耳で捉えることで空間を把握する)に目を留めて、それがヒトの聴覚ばかりか視覚に近い感覚かもしれないとみて、ヒトの知覚を相対化し、「意識」に踏み入っているらしい。面白そうだ。
 だがここで一つワタシが感じているのは、コウモリばかりか石にだってワタシは感情移入できると感じていることだ。トマス・ネーゲルがどうそれに言及しているか知らないが、渡邊正峰は「さすがに石になることはできない」と決めつけている。渡邊はたぶん、石が生命体でないことを意味していると思うが、ワタシは石にも、山にも、海にも、(もしそれになったとして)と感情移入して、その心持ちを体感することができる。もちろんそれが、ワタシの映し鏡であり、感応移入された対象のそれでないことは百も承知だ。だがこの分かれ目、違いが、引っかかっている。もちろんここの本題ではない。だがこの自然観の違いは、かなり決定的な、世界感知の違いに繋がっているのではないかと予感する。取り敢えず、そう口にしているだけで、それ以上に踏み込むつもりはない。
 もう一つ渡邊がこのエッセイを書くときに、《「意識」を「アップロードする」》と気を張っていることだ。先の記事では生成AI・Bingに「アップロードって何だ?」と問うた。こう答えている。
《アップロードとは、通信回線やネットワークを通じて、別のコンピュータへ能動的にデータを送信することです。 また、送信したデータをストレージ上のファイルなど、まとまった形で保存させることもアップロードと呼びます。》
 これが喉に引っかかった小骨のように気になった。「個別情報をネットに載せるのがアップロード、それを拾うのはダウンロード」と諒解して通り過ぎたが、Bingの回答は、IT用語としての「アップロード」の説明だ。「意識」というヒトの生理作用として説明するなら、通信回線やネットワークを、ヒトとヒトとの関係に置き換えなければならない。
 渡邊は、このアップロードということばをつかうことによってITネットワークの遣り取りに視野を狭窄しているんじゃないだろうかと感じたのかな。
 アップロードってことをヒトの行う「意識」の外化だとすると、何だ、アップロードってのは思ったことを口にし、書いたことを発表するってことか。外へ向けて発出すること。それなら私たちがふだんやってることだから、ワカル。とすると友人の話を聞いているというのは、ダウンロードかい? でもなんだね、「意識をアップロードする」って、ヒトが互いに言葉を交わすことかい? 今ワタシがこうしているみたいに、ネット記事を見て身の裡の何かが触発されて自問自答するってことも、「意識をアップロードする」ってことになるのかい? いやこうして、ものを書き留めているのは、どこからどこまでが「無意識」の世界のコトで、どこから「意識」の世界に入っているとみるのだろうか。そこに分け入って、いこうとしているのかい? 
 通信回線やネットワークに載せるってことと、言葉にして誰かに喋りかけるってことは、同じなのだろうか。ワタシの実感でいえば、全然違う。話しかけるときには、言いたいことを全部言ってしまうより先に、聞いている相手の挙措動作によって、言いたいことを中断したり、言い換えてしまったり、言わないで胸にしまうってこともある。それも、瞬間瞬間に身の裡で(送信して)感受して判断している。コミュニケーションの瞬間技である。通信回線やネットワークでは、そうはいかない。相手がどう受けとっているかもワカラナイ。いえ、渡邊正峰さんのような学者がアップロードするってことと私ら庶民がくっちゃべることを一緒にしてはいけませんね。でもね、ヒトとヒトが言葉を交わすってのは、それがいいかワルイかはワカリマセンが、相互の瞬間芸なんですね。
 だからいうのですが、頭で考えてから言葉にするってことよりも、考える前に口をついて出ている。それくらい言葉ってのは、身についてしまっています。意識するのはたいてい、後からです。覆水盆に返らず。拙かったなあ、あんなこと言っちゃってと、何度悔やんだことか。そのとき、「意識」ってのは、じつは自分が喋って口にすることだけじゃなくて、自分が喋っている場の雰囲気とか、モードとか、聴いているヒトの顔つきとか、いろんなことが「状況」として身体に流れ込んでいるんですね。だから自分が思っていることが口をついて出るだけではなくて、すでに身を置いている場そのものがわが身に作用し、それが言葉になっているってことを、いつも私は感じます。「関係」がワタシを通して言葉になっているってこと。とするとそれのどこからが「意識」の仕業って言えるでしょうか。そんな疑問もぷかりと浮かんできます。
 ITの言葉ってなにもかもカタカナだからいちいち翻訳しなくちゃならない。日本語って翻訳文化が発達したから、外国語を片仮名表記にし、それを日本語に翻訳してから理解するって手順をアナログ世代はとることになる。その屈曲の分だけ、会話についていくのが遅くなる。遅れるだけではない。屈曲している間に話されたことを受け取れないことも多くあって、遂にはツイテイケナイってことになる。後期高齢者はいちいちメンドクサイのだ。でもそれによって、ふだん無意識につかっている言葉を吟味するってことも起こる。これも面白い。
 おやおや、横道に逸れた。話を元に戻す。
「意識」を分節化するってどういうことか。
 先ず外から何らかの刺激がわが身に飛び込んでくる。それをキャッチするのは五感だ。見える、聞こえる、匂う、甘い/辛い、柔らかい/硬い、痛いなどなど。
 何かが触っているというとき、それはどう感知されるのだろう。
「ん?」と「意識」する。次の瞬間それがくにゃくにゃの生暖かい「何か」と感触がつかめてから、「うひゃあ~」と振り払う。
 なぜ振り払う?
 くにゃくにゃの生暖かい「何か」は正体がしれないもの。正体がしれないことは危険(であるかもしれない)。先ずは身から引き剥がしておかねばならない。と、反射的に動きが起こる。その気色が悪いと感じて振り払うときの「意識」の手順は、どう運んでいるのだろうか。
 そう細かく分けて考えてみると、頭で世界をイメージする以前に身がこなしている受信と総合の(自分と世界の関係を処理する)手練手管は、なかなか大したものです。生命体史30数億年の、ゆっくりと刻んで作り成して、ほとんど意識に乗せることもなく身が反応している感知感覚の送受信は、壮大な集積の結晶と言えます。わが身がその結晶の一つと思えば、徒や疎かにはできません。
 コウモリを参照しているトマス・ネーゲルは、(まだ彼の著書を読んだことがないから勝手に想像するのだが)たぶん、コウモリの感知能力を人の五感に置き換えてイメージしているのでしょう。つまりヒトはそれほどに(自己中心的といえば言えるが)、自分を離れて(神の目を持って)世界をみることはできないということだ。わが感知していることを相対化するムツカシサを提示しているのかもしれない。いや、実際ヒトは、わが身の感知したことを「ココロ」で集約して世界イメージに置き換えて初めて、起きているデキゴトを「認識」している。ヒトの知的作業の前段に、いくつもの「感知(複数)」があり、それを総集して外界との関係を「危険/よくわからない/安全」と察知する五感感知を「セカイとのカンケイ」に位置づける集約作業が「ココロ」によって行われ、こういう階梯を踏まえてヒトは外界を「意識」していっているということでしょう。
 それをこれまで私たちは、脳が「意識」を差配していると簡略化して受けとり、逆に脳を鍛えれば「意識」や世界認識が磨かれると単純に理解して「教育」に勤しんでいます。だがそれが、見当違いではないかと、この研究者は問うているのかもしれません。いやこの方が問うかどうかは扨措いて、ワタシは問わないではいられません。
 つまりこの研究者は、ヒトの感覚野を集約するメカニズムを探っているってことか。
 とすると、こちら専門家ではないが、八十年の実践人生の専門の当事者としてつかってきて言葉と、身と、身の意識と身の内側に沈潜している無意識とを、子細に分別して、そのメカニズムを採りだしてみたい。これはこれで、楽しみなことではある。