mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

万博時代の終わり

2023-09-03 11:30:06 | 日記
 2025年の大阪万博の参加国が少なくて、大阪市が慌てていると報道されている。どうして参加国が少ないのかに、報道各局は踏み込んで報道しているだろうか。建築費が高騰しているとか、ロシアのウクライナ戦争で世界が分断されているとか、米中対立で万国が競うのは、経済的・軍事的な覇権。それがおおきく分裂しかけているから、場を共にして文化的に競うなんてやってられないという気風に満ちている。
 どれもこれも当たらずとも遠からずって感じだが、もひとつ見落としている大きな要素があるように(私は)思う。インターネット時代の広まりと深まりによる文化的な気風の変化だ。
 マス・メディアが、SNSの浸透と拡散によって主流の座から追いやられようとしている。人々の関心も、あれもこれもという総花的な一挙陳列から、これといったマニアックな領域の深掘りへと移りつつある。イイとかワルイとかいうのではない。人の関心が、多種多様となった。加えて、世界の往来が容易になった。その好みのままの需要に応ずるように、情報やおたのしみの提供サイドも特定領域に踏み込んで、それらのネットワークを構成して集中集積するようになった。
 いや、ただ単に趣味の領域や問題だけではない。商品の領域も展示サイトも、集積と集中を重ねて、大規模な商品見本市を各地各国で開催している。つまり、インターネットの現実化した情報化時代が、人々の選好を加速し、さらにその間口を先鋭にして深くへ遠くへと誘っている。それにつれて人々も自在に移動するようになっている。もう、「万国博覧会」という総花的に一覧展示する時代は終わっているのである。
 思えば1970年の大阪万博は、日本の産業社会が近代化突入の昇り竜の時期の宣言であった。2010年の上海万博、2020年(2021)のドバイ万博も、いずれもそうした産業社会の上限に到達した宣言的な色合いをもっていた。それは、社会が欧米型の後追いをして単線的に発展するという発展モデルを前提にしている。だが21世紀の今は、はたしてそうであるのかどうか、大きく疑念が提出されるようになった。
 どういうことか。
 先進一国の経済発展が持続的に続くのは、他の途上国の収奪に拠ってである。これまでそのことに触れることもできなかった途上国が、グローバル化によって中進国として「世界の工場」になり、国際関係の中で先進国の生活基盤までも担うようになって、切り離せなくなっている。にもかかわらず、ロシアの侵略戦争によってグローバル化が中絶させられたこともあって、その「関係」が明白になった。この先進国と中進国と途上国の、おおきく三層に分かれた利害関係が、目下国際関係に於ける綱引きの動因をなしているが、国際的な市場経済の論理を関係国がそれぞれの国民国家の立場によって修正補正していかねばならなくなっている(各国の統治体制のいろいろも問題の多様性を生む)ことを表している。
 もはや世界各国がフラットに並んで、商品展示をきそうという市場のかたちではない。誰がどこにいつなぜなにを売るのか/買うのかさえ、特定されて初めて取引がはじまるほどに、多種多様は特定化され、自由に限定されはじめている。グローバル化に残っているのは、資本家社会市場経済の骨格論理だけで、事実の製造と交換はケースバイケースを当然とするほどに限定的である。骨格論理以外に作用する要素は、国際関係の利害を反映して、これまた多種多様であり、ケースバイケース。各国政府の国内統治体制も反映して、これと一般化しがたいかたちをなしている。
 当たらずとも遠からずというのは、こうした事情を反映しているからである。
 大阪万博をいいだした大阪維新の会も、日本政府がもっとしっかり取り仕切れと責任転嫁をしている。それと因縁浅からぬ橋下徹元大阪市長も、万博なんてね、開会のときにやっと二つか三つパビリオンができて、後はトンカントンカンやってるってくらい、いいかげんにやるもんだよ。もっと東京のメディアが力を入れて宣伝しなくちゃならないねと、まるで他人事のような発言をしている。だが誰ひとり、万博って、何をどうすることを目指しているのかを説いている人はいない。あっ、それとも、ただ単に、土建国家的な発注が増える景気刺激策ってことだけだったのかな? まして、時代の変化に適合しているかどうかを吟味して発言している気配もない。
 万博を喧伝する、時代は終わった。今ごろ気が付いても遅いけど、ぜんぶチャラにして出直してはどうだろうと、首都圏の市井の老爺は思っている。関西のことは知らんけど。