mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

泡のような「核心」

2023-09-24 08:57:37 | 日記
 メイ・サートン『終盤戦 79歳の日記』(幾島幸子訳 みすず書房 2023年)を読む。書名が目に止まって手に取った。この方は名のある作家らしい。1912年生まれというから私の父と同じ年の生まれ。亡父より十年程長生きをしている。
 78歳から79歳にかけての一年間に書き記した日記を80歳で本にしたもの。八十路を歩く私の、まさしく身にまつわる響きを湛える。400ページほどもある。400字詰め原稿用紙にすると900枚ほどにもなろうか。毎日ではなく、3日4日飛んだりしているのは、憩室炎という病に出逢って、痛みをこらえるのも大変という身体状況とか、階段の上り下りや庭の手入れにでるのさえ覚束なくなる様子があるためのようだ。
 そうなんだ、歳をとるってことは、こういうことなんだとわが身に照らして思いながら読みすすめる。この日記を書くことが彼女の生きるモチベーションになっている。名のある作家だったようで、読者からの手紙や知人の電話、訪問客が結構多くて、とても私と比較にならない。ただそれらの出会いが彼女の心に立てるさざ波がとらえられ、子どものころのことや詩人・作家として登場したころの体感と往き来する思いが書き落とされていたりして、ワタシの日常と響き合うものを感じる。
 ひとつ、そうそうそうだよと思うオモシロい記述があった。メイ・サートンが小学生のころ教師がクラスを落ち着かせるために詩を読み聞かせ、数分静かに耳を澄ますことをしたエピソード。「平和」と題したその詩の書き出し。


求めれば手に入るものではない
たゆまず努力をすれば手に入るものでもない
それはみつかるもの

じっと動かないで耳を澄ましてごらん
じっと動かないで、まわりのものの静けさを
飲みこんでごらん


 このあとに二連紹介されているのだが、冒頭の詩は、まさしく私の「自然(じねん)」、中動態の世界を取り出している。英語を母語をする人たちが「中動態」をどのように受け止めて感じているのかわからないが、自らを自然存在として措定していればこそ、「それはみつかるもの」という表現に突き当たる。
 逆に言うと、今の時代は、自身だけでなく世の中全体が絶え間なく動き回り、非日常的なもの、新奇なこと、驚嘆することに満ち満ちて、いやそれに満たされてなければ「退屈」してしまうような感性を育てている。ヒトの感官は絶えず外から送られてくる刺激によって揺さぶられ、そのうち揺さぶられてないと落ち着かなく、寂しくさえ感じるように磨かれてきている。つまり人為の情報化社会が身の裡に染みこんで常態となり、人を作り替えていっている。
 そこへ二連目の「動かないで」と呼びかけて、自らの変わりように心を留めることをすすめる。自分自身は気づかずに変わっていっていることに気を傾け、「耳を澄ます」こと「静けさを飲み込む」ことによって「みつかる」という。自らの呼気や佇まいを浮き彫りにするのは、こうした振る舞いによって自らを感じ取ることによってでしかないと、この詩は呼びかけていると思った。
 それと連動しているかどうかをこの作家は記していないが別の所で、25歳のころの自分の言葉の変わりように触れた一節がある。ある公開討論会に招待されたときのこと。会場に早く着いたこの詩人・作家に参加者から声がかけられ、
《……質問に答えたりしているうちに、かなり活発な議論になった。ところがほかの二人の男性パネリストがやってくると、そのとたん、自分の話し方が変わってしまった。無意識のうちに、それまで自信に満ちたきっぱりした話し方だったのが、穏やかで温和しい口調に変わったのだ》
 これはあとで参加者の一人の女性が「どうかなさったんですか?」と心配するほどの変わりようであったとして、
《男性二人が現れたとたん、私は長年かけてつくりあげてきた自分ではなく、女性はこうあるべきと期待されている態度をとってしまったのだ》
 と、述懐する。
 このような自分の無意識が「みつかる」のは、現役のときには難しいかもしれない。日頃ものを書き、人間考察に深みを持つ作家ですら、79歳の日記に於いてやっと、「動かないで」「耳を澄ます」ことができる。人生の終盤戦は、そういう意味において、自然存在としてのヒトであるわが身を静かに省察するオモシロい機会なのかもしれない。
 齷齪と働いている現役時代、古代インドの四住期にいう家住期(25~50歳)と林住期(50~75歳)の時期にはなかなか世俗から切り離してわが身を落ち着かせることができない。それが遊行期までくると、まさしく終盤戦。
 動けなくなる/動かなくなることも含めて、静かにわが身を振り返る自己省察の秋を迎える。そのときにこそ「みつかる」ことが、人生を総覧する機会だと、この本は伝えているようだ。みつけるではなくみつかる。その幸運に出逢えるかどうか。
《遊行期は、75歳から死ぬまでの時期で、人生の終わりに向けて準備をする時期です》
 と、生成AI・Bingは表示する。八十路ともなるともうとっくに、そこへ踏み込んでいる。終盤戦の「核心」に遭遇できるかどうか。いや、たぶん、何度も出会しては消え、出遭っては忘れる、沼から浮かび来る泡のような「核心」ではないかと、ワタシの直感は言葉にしている。
 心して、受け止めよ、「みつかる」のを。