北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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新選組最後の地

2024-06-13 20:22:57 | 函館

 

「西部地区」の西端、市電「函館どっく前」の近くにある小さな公園へ行ってきました。

 

 

 

 

ブランコに滑り台にジャングルジムと、おなじみの遊具が揃っている、ごく普通の公園のようですが、写真に写る、小さな標柱が気になります。

人物の写真があるようにも見えますね。

 

 

このような解説板がありました。

「弁天岬台場」とは、江戸幕府が蝦夷地を二度目の直轄地としてから二年後の1856年に、箱館の警備のために作られた台場のことで、箱館戦争当時、旧幕府脱走軍が占拠するも、1869年5月の激戦で新政府軍に圧倒され、同月15日、箱館奉行であった「永井玄蕃(ながいげんば)」ほか約240名が降伏したとされています。

 

 

 

先程の公園内の写真にちらっと写っていたのは、その「永井玄蕃」の写真でした。

1868年、榎本武揚と共に蝦夷地へ渡り箱館戦争に参戦し、蝦夷地平定後の仮政権では箱館奉行として、箱館の統治および外国との交渉を行った人物で、翌年の新政府軍箱館総攻撃時には弁天台場で陣頭指揮をとって奮戦するも、5月15日(旧暦)、新政府の勧告を受けて降伏しました。

降伏後、榎本武揚と同様に投獄されるも、特赦で出獄して以降は明治政府に出仕し、開拓使御用係を務めていました。

先程の「弁天岬台場」については、この公園に解説板がありましたが、実際の跡地は、ここから目と鼻の先にある「函館どっく」の敷地内となっています。

 

 

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そしてこの公園には、もう一つ、このような標柱があります。

そう、かの土方歳三が「鬼の副長」と呼ばれていた、「新選組」の最後の地が、この場所とされているのです。

 

 

先程も書いた、1869年5月15日に永井玄蕃以下240名が新政府軍に降伏したことが、「新選組」としての最後の戦いだったとされています。

元々「新選組」は会津藩の任命により発足した、京都における反幕府勢力を取り締まる警察活動が主な任務とする組織でしたが、戊辰戦争が勃発すると旧幕府軍に参戦し、副長であった土方歳三は、旧幕府軍を率いる榎本武揚らと蝦夷地に上陸しました。

土方が銃弾に倒れてから四日後の5月15日の永井玄蕃以下240名の降伏時、新選組の百余名が弁天岬台場を守護していましたが、降伏により彼らの戦いに終止符が打たれ、新選組はそのまま解散となりました。

 

 

園内には、永井玄蕃以外にも、この地にゆかりの人物のについて解説した標柱が建っています。

この「川村録四郎」とは、箱館戦争終結時には海軍取調方として、箱館奉行永井玄蕃の補佐役を勤めていた人物でした。

 

 

この「島田魁」という人物は、新選組一番の巨漢として知られ、箱館戦争では、土方歳三の松前攻略に同行するなど各地を転戦した人物でした。

後に、土方歳三の戦死の経緯など、箱館戦争の詳細な経緯を「島田魁日記」に記していたそうです。

 

 

函館市内には、他にも新選組にまつわるスポットが幾つかありますが、今年の秋ごろ、そのスポットを回るガイドツアーの予定があると聞いたので、予習を兼ねて一度ゆっくり回ってみようと思います。


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