北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
(C)ナナマガラー All Rights Reserved.

諸術調所跡

2024-08-28 20:10:07 | 函館

今回の記事で、「函館」カテゴリの記事数が、「500」になりました。

函館にいる間はできる限りネタを作って更新していこうと思いますので、お付き合いただけるとありがたいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

 

(最初の「函館」カテゴリはこの記事)

 

津軽海峡と岬 - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

昨日のラストで触れたとおり、今日から函館名所巡りを開始しました。「函館」というカテゴリも新設したので、不定期ですが、函館の名所を紹介していきます。まずは、函館市...

goo blog

 

 

 

五稜郭について紹介したときに触れていました、五稜郭の設計者である「武田斐三郎(あやさぶろう)」という人物の顕彰碑。

 

 

「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれたほど、幅広い分野、学問に精通していた人物であったことから、それにあやかって、この碑の頭を撫でると頭が良くなるという、言い伝えというか都市伝説というかという話が広まり、ここを訪れる観光客が、かなりの高確率で、頭(だけでなく顔も)を撫でていくことから、このように照り輝いているものと言われています。

しかし、箱館におけるこの人物に関するエピソードは、これだけではありません。

 

 

「基坂」を上り、「ペリー広場」の手前辺りに、こんな解説板があります。

 

 

解説板のとおり、幕末の頃、「諸術調所」という学問所が、この場所にありました。

「武田斐三郎」は、大洲藩、現在の愛媛県の出身で、福沢諭吉や大村益次郎が学んだ、緒方洪庵の「適塾」で学び、幕府にその才能を認められ、箱館奉行に随行して、蝦夷・樺太を巡検し、箱館にペリーが来港したときには、オランダ語で通訳を務めました。

「日米和親条約」締結により開港された箱館においては、多数の外国船、外国人が来訪し、外国人によって多くの洋書がもたらされ、洋学への関心も高かまっていきましたが、そうした状況の中で、箱館奉行の申請により、1856年、幕府肝いりの研究教育機関として、「諸術調所」という学問所が箱館に開設されました。

その「諸術調所」で教授を務めていたのがこの「武田斐三郎」で、蘭学、測量、航海、造船、砲術、築城、化学を1人で教えていました。

それまでの学問所と異なり、身分(士農工商)に関わらず誰でも門を叩くことができ、また、机上の学問だけでなく実地を学ぶことができたことから、全国様々な地域から学問を志す若者があつまり、数多くの優秀な人材を輩出しました。

門下生としては、郵便制度創設者で、現在も1円切手の肖像であり続けている「前島密」、日本の鉄道制度の創設者である「井上勝」、日銀総裁を務めた「吉原重俊」、開拓使船長となった「蛭子末次郎」などがいます。

後に同志社大学をを創設した「新島襄」も入学目当てで箱館に来たものの、折悪く武田が江戸へ行っていたために、ロシア領事館に身を寄せて、それがきっかけで、国禁を犯して渡米することとなったと言われています。

しかし、その歴史は長くは続かず、1864年、武田が、江戸の学問所「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」の教授として転出しために、わずか8年で廃止となってしまいました。

この「蕃書調所」は、現在の東京大学のルーツとなっていることから、もし、武田が江戸へ赴任した後も「諸術調所」が存続していたら、あるいは函館にも帝国大学(北海道で言えば「北海道大学」)が開設されていたかもしれないと言われています。

 

 

 

「諸術調所」は、元々は五稜郭に設置される計画でしたが、様々な事情から、この地にあった、武田の役宅の隣に設置されました。

その跡地は、かつては「市立函館病院」が建っていましたが、現在は大型バスの駐車場として活用されています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする