特別史跡「五稜郭跡」散策紀を続けますが、今回は、ガイドブックにも載っていない、現地に行かないと発見できないスポットを紹介します。
まずはこの場所、何やら緩やかなスロープ状になっています。
何の坂かと思っていましたが、こちらのとおり、箱館戦争の際に作られたと想定される、「大砲を運ぶための坂」でした。
箱館戦争最後の激戦地となった五稜郭においては、先日の記事で、箱館奉行所の「太鼓櫓」が、新政府軍の大砲の標的となったことが、旧幕府軍の戦意を喪失させ、敗北に至るきっかけとなったと書きました。このことは、歴史関係の本には割とよく書かれていますが、この坂のような小さな施設に関しては、現地へ行かないとそのエピソードに触れることは難しそうです。
こんな記念碑がありました。
「一萬號」とありますが、「櫻」という文字も見えるので、もう想像がつきますかね。
現在も道内有数の桜の名所である五稜郭公園において、植樹した桜が1万本に達したことを記念する碑だそうで、1923年、当時の地元新聞「函館毎日新聞」が、公園として開放されたばかりの五稜郭に、発刊1万号記念に1万本のサクラを贈っていたのだそうです。
そのお隣にあるこちらは、「巌谷小波(いわやさざなみ)」という人物の句碑だそうで、「其跡(そのあと)や 其の血の色を 艸(くさ)の花」という、五稜郭に咲いていた赤クローバーの花を基に詠んだ句だそうです。
こちらのこんもりした盛り上がり。
「土饅頭」と言って、ここに箱館戦争で亡くなった旧幕府軍兵士の一部が葬られたとされていますが、土方歳三もここに葬られているという説があります。
もっとも、土方については、最期の地と同様に諸説があるそうですが、今後五稜郭をガイドする際、お客様が土方に興味を示されたら、この「土饅頭」も、外せないスポットとして紹介することになると思います。
(土方の埋葬地とされている場所の一つがこちら)
二門の大砲が展示されています。
はじめに言いますが、レプリカではなく本物です。
こちらの短い方はイギリス製で、旧幕府軍が台場に設置したもの。
そしてこちらの長い方は、旧幕府軍に撃沈された新政府軍の軍艦のもの。
どちらも、海中に沈められていたのが引き上げられて、こうして展示されています。
この白い倉庫は、奉行所建築当時から存在していた「兵糧庫」という建物で、通常は閉鎖されているのだけど、毎年8月のみ開放されています。
ということで、今週末、時間が作れそうなので、中をじっくり見て、改めて記事にしたいと思います。
「兵糧庫」と並んで二棟の木造建物が並んでいますが、ここで紹介したいのはこちらの幟。
「箱館奉行所珈琲」とありますが、これは、単に、奉行所が五稜郭にあった時代に振舞われていたというものではありません。
1856年当時、幕府の命により、北方警備のために、東北北部の藩士が蝦夷地に赴任してきましたが、寒さやビタミン不足などにより、多くの藩士たちが、当時は不治の病とされていた「浮腫(ふしゅ)秒」という、手足がむくんで痛んだり、胸が苦しくなって命を落とす病気)を患っていました。
その予防薬として箱館奉行所が導入したのが、輸入もののコーヒーだそうで、これが、日本国内において、初めて庶民が口にしたコーヒーであるという説があります。
このエピソードに関しては、最北の地である稚内においても、箱館と同様の理由によるコーヒーが広く普及していたそうで、稚内市内には、コーヒーを飲むことができずに亡くなっていった藩士達を悼み、その後、薬としてコーヒーを大切に飲んだであろう先人達に思いを馳せて建立された記念碑があるんだそうです。
そんな歴史のあるコーヒーが振舞われているお休み処。
結構行列もできる人気スポットになっています。
奉行所を離れ、北側の裏門へ向かいます。
裏門側に建っているこの碑。
先日、「男爵薯」の歴史について、「川田龍吉」という人物のエピソードを紹介していましたが、大正期以降、凶作や不況、戦争などによる食糧難で苦しむ人々を救ってきた男爵薯と、川田男爵に対する人々の限りない敬意の念を込めて、このような碑が、1947年に建てられています。