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北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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懐かしき学校祭

2016-07-17 20:45:12 | 懐かしの思い出

北海道の高校は、今時期が学校祭シーズン(内地はどうか知らないけど)なのだが、今日は、娘が学校祭のステージ(ファッションショー)に出るので、観に行ってみた。
いいもんですな。娘がランウェイを行進し、そこへ娘への声援が飛び交うってのは。
女子校なので、男親が行くと肩身が狭いのではと不安だったけど、楽しめました。


ということで、今日は学校祭の思い出。

「学校祭」というイベントは、中学~高校と六年間経験したが、まずはざっと振り返ってみる。


【中学1年】
クラスの展示で、札幌の街並みを表現した模型か何かを作ったのだが、余りにも来客が少なく、他のクラスの所まで客引きに行ったのを覚えている。
この他、バザー会場で、同級生達と悪ふざけで、七味唐辛子(一味だったかも?)を大量に舌に乗せ、火が付いたような辛さを楽しんだりも。

【中学2年】
テーマは忘れたが、クラスの展示のための取材で、JR(この年に国鉄からJRに変わった)札幌駅の事務室を訪問したのを覚えている。
記憶に間違いがなければ、この時、生まれて初めて、コーヒーという飲み物を口にした。

【中学3年】
よく覚えてないんだけど、卒業アルバムを見ると、クラスで宇宙を表現した展示を作成し、「シンプル賞」という賞を受賞したらしい。

【高校2年】
この年の大ヒット曲である、米米CLUBの「浪漫飛行」がテーマソング。
クラス発表では、この頃から札幌市内でも数が増えてきたカラオケボックスをやり、昔懐かしい「8トラック」の装置を借りてきたりしたのを覚えている。

【高校3年】
テーマソングは、JUN SKY WALKER(S)の「START」。
クラスでは、空き缶を集めたアートを作成し、私も空き缶集めにスーパーなんかを回ったが、私のメイン担当は、学校の外壁に飾る垂れ幕作りだった。
ステージイベントで、「エレキの神様」こと寺内タケシさんのライブが開催され、大変な盛り上がりとなったのも印象に残っている。


あれっ、「高校1年は?」って?
そうなんです、実は六年間で一番思い出深いのが高校1年の時でした。
この年は、生徒会の学校祭実行委員をやっていて、直前になると、毎晩遅くまで残って準備をしていたのだが、中でも一番大変だったのが、グラウンドでのキャンプファイアーの準備。
グランドの真ん中にキャンプファイアーのセットを置き、それと、グラウンドの裏山に打った二本の杭とを針金で結び、火を付けた小さな飛行機を滑らせてセットに放り込み、点火するという趣向だったのだが、何が大変かって、学校が山の中なので、とにかく蚊に刺されまくったのなんのって。今でも、あの時の痒さと、周りを飛び交う蚊の音はよく覚えている。
そんな中で迎えた本番当日、いよいよ点火の瞬間、裏山から滑り落りてくる二機の飛行機が目に入った瞬間、これまでの苦労が一気に頭を過ぎり、無事に火が付いた瞬間は涙が溢れて止まらなかった。
この後は、一般の生徒達はキャンプファイアーを囲んでのフォークダンスだったのだが、実行委員はそれに参加せず、片隅で見ていただけ。でも、あの時涙が止まらなかったことを思えば、参加してても、踊りどころじゃなかった気がするので、それはそれでよかったかも。

クラスの展示は、生徒や先生を片っ端から捕まえて写真を撮り、アンケート形式でプロフィールを書いてもらって展示するというものだったのだが、私は実行委員だったのでそっちにはほとんど関わらず、当日、空き時間にじっくり見ただけだったのだが、ある体育の先生(体格のいい男性)の「理想のタイプ」を見て、普段のイメージからは想像できないコメントに驚いたのを覚えている。

私の高校の学校祭は毎年テーマソングが選定されていて、この年は、大ヒットした、プリンセス・プリンセスの「Diamonds」だった。今でも、たまにこの曲を耳にすると、学校祭の思い出が色々と頭を過ぎってきます。

学校祭・・・色々あったけど、今振り返れば、どれも懐かしい思い出ばかり。
今日久しぶりに行ってみて、改めて、いいもんだなあと思いました。

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他愛無い(?)言い間違い

2016-06-27 21:42:19 | 懐かしの思い出
亡くなった祖母が、私の幼少期のエピソードとしてよく話題にしていたこと。
なんでも、幼少の頃、私はこんなことを口にしていたらしい。


「婆ちゃん婆ちゃん、僕ね、『ケケコース』頼むから。」

いきなりこんなこと書かれても「?」だと思うけど、当時住んでいた北見という町のデパートにあるレストランに「松竹梅」の「松コース」「竹コース」「梅コース」という三つのメニューがあり、この「竹」の字を見た私は、カタカナの「ケ」が二つ並んでいるものと思い込み「ケケコース」なんて言葉を口にしていたそうな。


同じく北見時代のエピソード。やはり祖母が話題にしていたこと。


「婆ちゃん婆ちゃん、あのバスね『えーだい』に行くんだよ。」


「えーだい」って何かと言うと、北見には、国立の「北見工業大学」ってのがあり、略して「北見工大」と呼ばれているのだが、どうも大学最寄りのバス停が「工大前」というらしく、まだ漢字も少ししか読めなかった私は、「工大」と「工」を、カタカナの「エ」と信じ、「えーだい」と読んでいたんだそうです。


三つ目。


「婆ちゃん婆ちゃん、僕ね『おおゆき』で帰ってくるから。」


これは簡単。当時、札幌~網走間を結ぶ「大雪(たいせつ)」という急行列車があり、それを「おおゆき」と読み間違えていただけの話。


最後に、これは祖母ではなく、うちの両親が話題にするエピソード。


「スカラライン」


何のことかわからないでしょ。
子供の頃の私は、台のミニカー好きで、車の名前にもかなり詳しかったそうなのだが、何故か「スカイライン」と正しく発音できず「スカラライン」なんて読み方をしてしまっていたのだそうです。

以上、ちょっとお題の趣旨からは外れちゃうかもしれないけど、今から思えば他愛無い言い間違いのエピソードとして、振り返ってみました。
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オリジナルヒットチャート

2016-06-26 20:44:09 | 懐かしの思い出



先日、実家からこんな物を発掘してきた。





別に個人情報とかじゃないからマスキングしなくてもいいのかもしれないけど、高校1年生の時、「ザ・ベストテン」が終了した1989年10月から始めた、自分のオリジナルヒットチャートを記録したノート。
「ザ・ベストテン」をはじめとする色々なランキング番組のシステムに倣い、CD売り上げ、有線放送、ラジオ番組の三項目ごとに毎週実績を集計し、それを積み上げて、1位から20位までを算出し、ノートに記録するということで楽しんでいた。

その、各項目ごとの集計要領は、確かこんな感じだったと思う。


CD売り上げ・・・毎週「オリコン」誌を買い、その順位をそのまま採用。
有線放送・・・・毎週日曜日の、確か10時か10時30分から、有線放送に特化したランキングのラジオ番組が放送されていたので、その順位をそのまま採用。
ラジオ番組・・・・毎週聴いていた、AM2つ、FM1つの電リク番組の順位を集計し、三つのランキングを合算して算出。


要するに、雑誌とラジオを題材に算出していたのだけど、最終の得点は、「ザ・ベストテン」が、9999点が最高得点とされていたことに鑑み、このランキングでも、合計が10,000点を超えないような得点の割り振りを考えてやっていた。
実際、そのおかげで、さすがに満点は出たことがなかったけど、毎週、ほぼ「ザ・ベストテン」に近いような得点を出すことができて、自分でも凄いと思いながらやっていたのを覚えている。





念のため言っておきますが、決してズルはしていません。(笑)
実際、この「はんぶん不思議」というCoCoの二枚目のシングルは、オリコン初登場第4位で、「歌のトップテン」でもランクインしていたし、その以前に、この曲がリリースされていた頃、私はまだFCにも入っていませんでしたので。
(「はんぶん不思議」のリリースは、90年1月、私がCoCoのFCに入ったのは、91年の7月)
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お宝発掘の巻

2016-05-05 19:25:45 | 懐かしの思い出
シリーズ化するつもりは全くないのだけど、実家で見つけたお宝。





この商品は今もあるけれど、左側の数字、気になりませんか?





「59.4.17」。
恐らく、この「59」とは、「昭和59年」1984年のことでしょう。
一体中身は・・・?





こんなのが入ってました。
子供の頃に集めていた、ミニカーやフィギュアが詰まってます。
昭和59年は、春に、八雲から札幌へ引っ越しをしているので、察するに、引っ越しの時にこの箱にミニカー類を詰め、以来三十二年間、そのままになっていたものかと・・・。





若干中身をご紹介。
このスカイライダーは、単なるフィギュアではなく、記憶に間違いがなければ、モーターに取り付けて、お風呂の中で遊ぶ玩具だったかと思います。
スカイライダーは1979年(昭和54年)~80年(同55年)の放送なので、三十六年も前の玩具ということになります。





箱の中身の大多数は、ご覧のミニカー。
子供の頃の私はとにかくミニカーが大好きで、両親の話では、その影響で車の名前にも大変詳しく、町を走る車を見ても、ほぼ100%(名前を)言い当てていたんだそうです。
今はもう無理ですけどね。同じアパートの駐車場にある車でさえ、わからないのもありますから。
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自分の鉄道歴

2016-03-10 22:27:13 | 懐かしの思い出
職場で、先月末の「スーパー白鳥」と「白鳥」の話をしたら、うちの課長にこう言われた。


「乗り鉄だったの?」


ウーン、どうなんだろう?
確かに旅行は好きだけど、「○○鉄」と呼ばれるような素養を持ち合わせているとは、正直思っていなかった。
乗るのは好きだけど、車窓からの景色をじっくりと楽しむのも好きだし。
そう言えば、久しぶりに名前を出すが、すぅちゃんこと森田涼花ちゃんが、以前、自分のコラムで、「自分は景色鉄(景色を楽しむ鉄道ファン)かなぁ」と言っていたことがあるのだけど、そういう表現もあるんだと思って検索してみたら・・・、あれれ、ズバリのヒットはしないではありませんか。
まあいいでしょう。これを機に、私がそういう表現を用い続けたいと思います。
車窓からの景色、大好きですよ私は子供の頃から。

昔の話だけど、私は小学校低学年から中学年ぐらいにかけて、特急列車に対する興味が強い時期があって、「ケイブンシャの大百科」シリーズや、それと同じサイズの、小学館から出ていた類似のシリーズ(正しい名前は忘れた・・・)で、特急列車の本を沢山買って、それこそボロボロになるまで読んでいたものだった。
だから、その頃全国各地を走っていた特急列車の名前は、今でも聞くと、「あ~懐かしい~」と思う。乗ったことなど一度もないのに。
例えば、今度北海道新幹線の名称としても使われる「はやぶさ」というのは、かつては、東京と福岡を結ぶブルートレインの名前だったし、これは先日も書いたけれど、「白鳥」という特急も、かつては、大阪と青森を結ぶロングラン特急の名称として使われており、それこそ、ケイブンシャの大百科シリーズに、大阪から青森までの同乗記ってのが掲載されていたことがあって、子供心に「乗ってみたいなあ」と思ったものだった。

あれは、中学2年の時(1987年)に放送された「第7回高校生クイズ」を見ていてのこと。
富士山頂での決勝戦を前に、山中湖畔で行われた準決勝で、こんな問題が出された。


「JRにその名を残す寝台特急『富士』、東京とどこを結ぶ?」


この問題に反応したチームは、これを正解すれば決勝進出という所だったのだが、一瞬考えた後、「鹿児島」と答え、結果はブー。(不正解)
正解は宮崎なんだけど、正確に言うと、この「富士」は、かつては、鹿児島ではなく、隣の西鹿児島までを結んで走る、当時としては国内最長の運行距離を誇る特急だったのだが、1980年10月に、宮崎まで短縮されている。
そう、これも、私が特急列車に興味を持っていた時には、既に宮崎までの運行となっていたので、問題が放送された当時は既に興味が薄れていても、すぐに答えがわかったのを、今でもよく覚えている。
この時、あえなく不正解に終わったチーム(S県の名門K高校)は、優勝候補の一角に挙げられていたので、これに正解して決勝に進出していたら、ひょっとすると展開も変わっていたかも?

他にも色々とエピソードはあるのだけど、長くなるので、今回はこの辺で。





最後は、最新の本を一冊。
こんなのが売っていたのだけど、同じような本が何冊か並ぶ中、読み比べてこれをチョイス。
最新の写真だけでなく、懐かしい写真も所々に掲載されていて、世代を超えて楽しめる一冊かと思います。
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