自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★福沢諭吉とメディア-上-

2009年03月06日 | ⇒メディア時評

 東京・上野の東京国立博物館で開催されている「未来をひらく 福沢諭吉展」を鑑賞する機会に恵まれた。訪れた日の関東地方は肌寒く、桜の名所・上野で咲いていたのは早咲きのオオカンザクラ一本だけ。それでも、人々は足を止め、桜に見入っていた。

      「独立自尊迎新世紀」      

  福沢諭吉展のテーマは「異端と先導~文明の進歩は異端から生まれる」。1万円札に描かれている人のどこが異端なのかというと、明治維新後、蘭学を修めたような知識人たちはこぞって官職を求めたが、福沢は生涯を無位無官、一人の民間人で通した。「独立自尊」を身上とし、政党に属さず、民間人の立場から演説をし、言論というものを追求していった。請われても、権力に属さなかった。幕府を打倒し新たな権力構造をつくり上げていった薩摩や長州の「藩閥の群像」とは明らかに異なる。「際立つ個」、明治という時代にあってこれは異端だった。

  このエピソードは有名だ。明治4年(1868)5月15日、上野の彰義隊が寛永寺で新政府軍と衝突した。砲音が響き、火炎が立ち上る中、すでに慶応義塾を主宰していた福沢は時間割通り、塾生たちに経済学の講義(フランシス・ウェーランドの経済学綱要)を行った。福沢は「この慶応義塾は、日本の洋学のためには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があつても変乱があつても、未だ曾て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ」と、当時の文明であった洋学の吸収と普及に毅然とした。彰義隊を粉砕した新政府軍の指揮官は西郷隆盛だった。

  では、福沢はいわゆる「西洋かぶれ」だったのか。福沢諭吉展で紹介された諭吉の写真のほとんどは和服姿である。「身体」を人間活動の基盤と考え、居合刀を日に千回抜き、杵(きね)と臼(うす)で自ら米かちをした。身を律して、4男5女の子供を育て、家族の団欒(だんらん)という当時新しいライフスタイルを追求した。公費の接待酒を浴びるほど飲んで市中を暴れまわった新政府の官員(役人)たちを横目に、「官尊民卑」と「男尊女卑」に異議を唱えた。明治33年に夫妻そろって撮影した記念写真が会場に展示されている。夫婦ツーショットはひょっとして日本初ではなかったか。

  先のエピソードで紹介した西郷と、福沢は面識がなかった。が、晩年の福沢は西南戦争で没した西郷を称えた。新政府で天下をとり栄華に浸る者たちと一線を画し、下野した西郷の「無私」に共感した。そして、政府官員が西郷を「賊」と決めつけたことに怒りを感じたのだった。  福沢は維新とは一体何だったのかと問うた社説を、自ら興した新聞「時事新報」に「明治十年丁丑公論」のタイトルで連載していく。明治十年は西郷が自刃した年である。記事の連載中だった明治34年2月3日に脳溢血で亡くなる。享年66歳。当時、「24年にも経ってなぜ福沢が西郷をほめるのだ。時代がずれている・・・」といぶかった読者もいたであろうことは想像に難くない。明治34年は1901年。福沢はその年の元旦に「独立自尊迎新世紀」と揮毫した。「明治十年丁丑公論」を連載したのも、20世紀を迎え、維新という時代を自ら総括しておきたいという意図があったに違いない。

  むしろ評価すべきは、この明治の時代に「新世紀」という発想をもった福沢の大局観だろう。世界観をもって在野を貫き、権力を批判する。これは、ジャーナリストの素養でもある。東京都港区元麻布の善福寺に葬られており、法名は「大観院独立自尊居士」。

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