「福沢諭吉とメディア」のタイトルで連載しているが、福沢のもう一つのメディアが出版だった。明治2年(1869)に「福沢屋諭吉」名義で出版業組合に加入し、「西洋事情」を初出版。アメリカ、イギリスなど当時の先進国の社会や政治経済を紹介した。これが当時、人口3000万人といわれた日本で25万部売れた。明治5年(1872)の「学問のすすめ」もベストセラーとなった。鎖国から文明開花に急転した時代、人々は活字情報に目覚めていたに違いない。福沢のメディア戦略はこの時代の雰囲気を十分に読み取って展開していく。その延長線上で、新聞事業である時事新報が合資会社「慶応義塾出版社」を母体に立ち上がった(明治15年、1882)。
コンテンツビジネスの元祖
福沢は新聞事業と出版事業を巧みにメディアミックスしている。時事新報の社説で自らの論説を一つのテーマで連続的に掲載していく。そのテーマの中から読者から手応えがあったものを、今度は出版するという手法だ。「時事大勢論」「帝室論」などのヒット作品が次々生まれた。いまの手法で言えば、コンテンツの二次利用。テレビの連続ドラマの中で視聴率が高かったものを映画化して劇場公開、その後にDVD化、BC放送やCS放送で放送し、最後に「地上波初放送」とPRして自社の映画番組で放送する。一粒で二度も三度もおいしい(利益が出る)コンテンツビジネスの先駆けである。
ビジネスと順風満帆でスタートした新聞事業だったが、創刊して3ヵ月後の6月8日付が突然、発行停止となる。当時、新聞は「新聞紙条例」(明治8年)で規制されていた。「国安の妨害」の理由に内務大臣が発行禁止あるいは停止にできた。5月1日にスタートさせた連載社説「藩閥寡人政府論」を時の政府は咎(とが)めた。薩摩と長州で主要閣僚が占められるのでは、日本が今後国会を開設する際の妨げになるとの論調だったといわれる。4日後の12日に停止処分は解かれるが、権力側からの警告メッセージだったのだろう。「次は発禁(=廃刊)」との。
もともと福沢の政府への論調は敵対ではなく、調和である。政府の参議であった大隈重信、伊藤博文、井上馨からイギリス流の議会を開設するので、国民を啓蒙するような新聞をつくってほしいと請われ、議会開設論者だった福沢は3参議に協力を約束し、準備に入る。ところが、大隈、伊藤、井上の不和が表面化し、議会開設のプロモーターだった大隈が明治14年(1881年)10月に突然辞任する。議会開設プランが事実上、頓挫してしまう。機材、人材を用意し新聞発行の準備を整えていた福沢は引くに引けない状態に陥るものの、中上川彦次郎(後に「三井中興の祖」と呼ばれる)の協力を得て、時事新報の創刊に踏み切る。だから、もともと政府権力と敵対する目的で新聞事業を始めたわけではない。議会開設を先導するこそが自らの信念の具現化だった。「藩閥寡人政府論」も議会開設に向けた正論を押し出したものだった。その議会が開設するのは大隈辞任の9年後の明治24年(1891)のことである。
「独立自尊迎新世紀」の揮毫を最後に一つの時代を駆け抜けた福沢は明治34年(1901)2月3日に脳溢血で亡くなる。時事新報はその後、昭和10年(1935)11月、大阪進出が裏目に出て経営が傾き廃刊に追い込まれる。昭和21年(1946)元旦に復刊するものの、昭和25年(1950)に産経新聞と時事新報が統合するかたちで「産経時事」の題字として再スタート。が、昭和33年(1958)7月にその題字は産経新聞に戻る。新聞としての時事新報はなくなったが、株式会社としての時事新報社はまだ産経新聞社が引き継ぐかたち存続しているという。※写真は、慶応義塾大学三田キャンパスの福澤諭吉像
<参考文献>「新聞人福澤諭吉に学ぶ」(鈴木隆敏著・産経新聞の本)
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